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2019年9月 6日 (金)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の2

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の2昭和19年5月11日高知新聞掲
最初の五年は切返し 次の二年は型ーこれを基本に稽古

 川崎善三郎翁は7歳のときから正式に稽古を始めたが、はじめの五ヶ年は切返しばかり、次の二ヶ年は型ばかりやった大体稽古はこの二つが肝要であり、これはちょうど軌道をつけるやうなものでこの軌道がしっかり出来ておらんと本当の修行が出来ないからである、そんなわけで道具をつけて叩き合う稽古は15歳になってからであった、その頃の稽古は足腰が立たなくなるまでやり、へたばりこんでしまっても呼吸が調ふとすぐまたかかっていくといった具合であった。
 寺子屋に通ひはじめたのは十歳の頃で師匠は同じ新町の近森といふ人、ここで手習をはじめ、小学、大学、論語、孟子などの素読から謡曲まで習った、自宅の道場の稽古は朝五時から七時まで父はそれをすまして十時から午後の三時ころまで致道館に行った、寒稽古は午前二時から始めたものだそれから当時新町に住んでいた足軽の結城金次郎の親父が講の金を受取って比島から帰って来る道で、比島の金次といふ悪黨に殺されたことがあり、金次は捕へられて処刑されたそのとき金次郎は十二三であったが七十あまりの祖母とともに仇討の形式をとった、こんなときには剣道の師匠は門下生を連れて刑場に行く、つまり見物させるのだ、川崎氏も父に連れられて握り飯とウルメを持って見物に行ったものである。
 西南戦争頃の土佐はなかなか物騒であった、板垣とか後藤とかいふ大頭連は野に下るし、片岡健吉は帰って来て立志社を興すし政府の方でも目をつけている、それに古勤王黨の連中が大久保や岩倉の組織した政府に反感を持っているので、今にも動乱がはじまりそうであった、川崎氏の父なども長岡郡の池知退蔵、野市の北の新宮の森輿太郎、野市の大石円(もと彌太郎)などと気脈を通じており、同志の森脇直樹が当時三等警部であったから、その手を通じて同志の壮士を巡査にして各地に配り軍用金なども密かに集めていた、新町の田中亨、池上平などはそれで一等巡査になり、川崎氏も四等巡査になって赤岡の屯所の御庄といふ人のもとに勤めた、元来はニ十歳にならぬと資格がないのだが十七、八の壮士もどしどし採用したもので当の川崎氏などもその組で月給が四円で滞在日当ニ十銭の割であった。
 西南戦争がすむと鹿児島から壮士がニ、三百人来て警部や巡査になった、この時に森脇等はことごとく免職されたのだ、その薩摩の連中は戦争をして来た連中ばかりでなかなか気が荒く高知の壮士連と事毎に衝突した、高知にはその頃たくさんの社があった、北▢に逍遥社、上街に開成社、北新町に共行社、江ノ口に有信社、潮江に▢陽社、中浦戸町に修立社、久万に精到社、水通に南嶽社、大川筋に南洋社といった具合で荘士連は腕まくりして太いステッキをつき紙緒の皮草履を穿いて闊歩し、政論を闘はして慷慨悲憤をし薩摩人の巡査とよく衝突した、各社とも壮士の若いのは十二、三歳のものもあり、それが結構一人前に暴れたものである。
 川崎氏は共行社に属していたが、この共行社には一号、二号、三号、四号といふ風に階級があり川崎氏は年少ではあったが二号であり随分と悪戯をしたものだ、それから共行社は山稽古、浜稽古といふこともしたし時には安芸まで十里を日帰りすることもやったが、列を作って歩いてうちに音頭とりが「マガリナシ、マガラズ二、マッスグユケ」と号令をかけると田辺島あたりの曲っている道でも真直ぐに歩く、田の中をどしどし歩くのである、川があってもその号令のときはザブザブと横切らなければならなかった。
 

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