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2019年9月 8日 (日)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の4

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の4昭和19年5月13日高知新聞掲
高野氏との初顔合わせ剣客雲集す明治20年の東京

 明治19年春青運の志を抱いて上京した青年の川崎善三郎氏は未だ東京の水に慣れないでウロウロしている頃の或る日料亭へひっぱりあげられたことがある。二階に上ると廊下のつきあたりに大きな姿見があった、それまでそんな大きな鏡を見たことのない川崎氏だったので向ふから自分によく似た奴が来ると思って吃驚したといふ、そんな挿話を撒いているうちにだんだん東京に慣れて来た。
 明治20年の警視庁管下は六方面に別れていて第一は品川、高輪麻布など第二は久松町、京橋日本橋などといふ風に一方面に四つか五つの署が属していた、そして毎月各方面で方面会といふ剣道の試合を催した、従って月に六回は方面会がありこの会には各署から優秀なものを選手として出し部長なども必ず出席して見物した、既記のとほり三島総監の奨励によって諸国から剣客が集まって来ていたので警視庁にはなかなか使手が多かった、わけても難物と名をとったのが伊藤良彌、野津元三郎、小石川署の斎藤竹次郎、下谷署の門宗正そのほかは元佐倉藩の兼松直庸、これは鏡新明智流で桃井の四天王の一人だった、そのうちに大会があってその時川崎氏が顔を合わせたのが両国署の高野佐三郎氏(三傑三郎中の唯一の現存者)であった。
 高野氏は秩父大宮の松平下総守陣屋の指南版番で小野派一刀流の高野苗正といふ人の孫である、その前に上京したとき猿屋町署の堀口といふ剣道四段、柔道四段で警視庁切っての力持と組打をして捻ぢつけ洟汁を垂さしたといふ剛の者なので、これこの手でひっくり返されていたかは油断がならぬわいと思った、ところが先方も先方で両国署長の宮内警視はわざわざ高野氏を呼び「高輪の川崎は足癖が悪いから気をつけろ」と注意した、わが川﨑氏は足掴みが得てで大概の敵手ほらである、結局の勝負は引分けとなったがやはり川崎氏は足掴みでやったことはやった、それ以来川崎氏はこの好敵手の高野氏とも親交を結び高橋氏と三人で稽古もしまた大いに遊びもしたものだ。
 当時川崎氏は一等巡査の資格で月俸十円弁当代一日六銭にして一円八十銭服代月割一円六十銭、別手当三円その他半年に短靴料二円、一ヶ年に長靴料五円であった、其頃下宿代が大体六畳二円といふのが相場でそれには三食とランチ、火鉢が含まれていた、天保銭一つで風呂に入って蕎麦が二杯喰へた、高輪から神田まで俥をとばして五、六銭、牛肉屋の“いろは”では五十銭で二人で存分に飲み食ひ出来た、そんな時代だから本俸ともに十四円内外の月収があれば豪勢な暮らしが出来たものだそのうちに川崎氏も高野氏も高橋氏もどこの方面へ行っても滅多に敗けない、あっちこっちの道場へ行っても手に立つものがいないので聊か天狗になった、それである日高橋氏に「どうだ、春風館へ行ってみようではないか」というと高橋氏は立ちどころに賛成した。春風館は山岡鉄舟の道場だ、高野氏は十七歳のとき金鎖神社の神前試合の恨みから春風館に入門して修行したことがあるので誘はなかった。

 

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