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2019年9月 5日 (木)

曽田本その2を読み解く32スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士32の1

曽田本その2を読み解く
32、スクラップ土佐が生んだ天下の剣豪川崎範士
32の1昭和19年5月10日高知新聞掲
剣に全心魂を打混む 七歳にして既に道場に出る

 天下の剣豪範士川崎善三郎翁は昭和19年5月2日午前9時50分高知市帯屋町95の自邸で85歳の生涯を終った、幼少7歳にして父君川崎専輔翁に手ほどきを受けてからその終焉まで斯道に研鑽すること実に前後70有余年、稀に見る長年月の練達者であった、父専輔翁は愛児善三郎を育成するについても「武道家の子は幼少から十分な素地をつくらねばならない」とあって、7歳ですでに道場に連れ出して竹刀を持たせたほどであって、その稽古振りも決して並一通りではなかった、それだけにその進歩の物凄さは驚くばかりであった、しかも氏は尚これ以上で足れりとせず当時高知の一流剣士数氏について猛烈な指導を受けたので技倆はいよいよ上達、遂に海南土佐にそのひとありと謳はれるに至った。
 当時高知県出身で警視庁警視を奉職していた山本正幹、水野虎次郎の両氏は、この少年既に一家の風格を備へた川崎氏の非凡な腕前を認め、招いて警視庁に入らせた、時に明治19年である、氏は直ちに高知警察署に奉職し剣道助教を拝命したが、教授の傍ら上田馬之介逸見宗助、下江秀太郎等当時の錚々たる剣豪について血を吐くやうな稽古を積むこと実に十星霜におよんだ、げに氏の▢▢は死物狂ひだった。生命を賭しての精進だった、余りの猛稽古に下宿へ帰っても二階へ上がれず、仕方なく梯子段を這ひ上がった、飯を食うにも茶碗も持ち上げられなかった、もともと天才的な技量を持った上にかうした猛練習である、たちまち東都武道界に断然頭角を現し、そのヒタと構へた無外流必殺の剣尖は真に天下無敵まことにめざましいものであった、折しも東京には小野派一刀流の達人高野佐三郎氏(埼玉)あり、無外流浅田一伝流の達人高橋赳太郎氏(兵庫)あり、ともに斯界に麒麟児の名を馳せていたがこれもわが川崎善三郎氏を加えて「三傑三郎」と称して畏敬した、いふまでもなく三氏とも郎の字がつくからだ、その三羽烏のうち高橋赳太郎範士は既に物故し今はわが川崎範士逝き残るはただ高野範士のみとなり一抹の寂寥を感ぜしめる、▢々われらはいま翁の面影をしのび「武道土佐」はもちろん我が国武道界に遺した翁の大きな足跡をたどってみよう・・
 剣道範士川崎善三郎翁の祖先は長曾我部の家家臣で川崎黒右衛門といった祖父の代になってはじめて山内家に仕へてお城下の新町俗に井出淵に住んでいた、父はもと久助といったが殿様筋の名前に差障りがあるのでおもてむきは専輔と改めていた、新町には其の頃軽格の者ばかり住んでいてその若い連中は南瓜組といふ黨を組んで盛んに暴れまはったが、その乱暴の中でも川田金平の黒ミツチャはとりわけ有名であったといふ、
 当時中新町二丁目には番太小屋があったが南瓜組の者が夜遊びに行って帰りに「番太、何刻か」と聞くと、番太はうるさいものだからいつでも「昨夜の此の頃じゃ」と返事をすると、それが面憎いといふので白ミツチャと黒ミツチャが発頭人になって番太が眠っている隙に大勢で番太小屋を取り囲み外から戸をしっかりと閉め窓から辛子で燻し立▢▢、番太が目を覚ましてコンコンとむせ返りながら出ようとすると三、四人で番太小屋を担ぎあげて川へ投げ込むぞと脅かし御頭番太を恐れいらしたといふ、
 それからまた後に武市半平太先生の勤王黨に入り大阪で井上佐一郎を暗殺したり久松喜代馬が女房を貰ふたところが、それが生意気ぢゃといふので南瓜組の者が土瓶に濃い▢を一ぱい詰めて持って行き、婚礼の席で撒き散らした、この乱暴は公の沙汰になって横目が探索に来て調べあげると、発頭人はやはり川崎久助と川田金平だとわかて二人はオヅコメ(押込め)で謹慎のことになった、わが川崎善三郎氏はかうした負けぬ気の父の長男として万延元年4月20日に生まれた、この父は井出淵の自宅で道場を開く一方、藩校致道館の剣道取立役を命ぜられて出勤した、
 その頃の門人の主なものは例の久松喜代馬、天誅組の吉村寅太郎、後に堺で切腹した箕浦猪之吉、武市先生の片腕で獄死した島村▢吉などであった、その当時土佐藩は勤王と佐幕が争って参政の吉田東洋が殺されたり、武市先生が切腹したりするやうな騒ぎであったが、父は専ら武道にいそしんで政治むきのことはかんけいしなかった、善三郎はこの父に連れられ弁当を提げて武道館へ毎日通ったのである(写真は晩年の川崎善三郎)

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 昭和19年の高知新聞に掲載された川崎善三郎とその周辺について5月10日から16日の1週間の掲載を切り抜いて曽田本その2に張り付けてあります。
川崎善三郎先生は5月2日に85歳で亡くなったもので、その逝去を惜しんで記述されたものです。75年前太平洋戦争真っただ中の事でインクも薄れて画数の多い漢字は文字が不明瞭でその上文字の大きさも今時の新聞の半分位ですから虫眼鏡が無いと読み進められません。随所に▢で読めませんとしてあります。特に解説すべきものでも無いので転記のみとしておきます。

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