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2019年9月26日 (木)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の2無雙直伝英信流々名着表の年代

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より質問を受けたる事項次の如し
42の2無雙直伝英信流々名着表の年代

 「英信は其の技古今に冠絶し精妙神技を以て始祖以来の達人として聞へ古伝の業に独創の技を加え茲に流名を無双直伝英信流と改め爾来当流を異称し長谷川英信流又は長谷川流或は英信流と呼ぶに至れり、而して英信は享保頃江戸に於て斯道を研究大成し晩年土佐に▢無して大に之れを広め同地に其の逸材を輩出せしが」以下表右の如く、享保時代として、英信として相違無きや。是は同氏が当流に関する小冊子を発刊するに当り▢ね起したる質疑なり以下何れも同断。

 此処での質疑は無双直伝英信流は長谷川英信が独創したもので、時代は享保の頃でいいのかという質問です。居合の始祖は林崎甚助重信であり流名は、奥州地方では林崎新夢想流、林崎流、林崎田宮流、林崎夢想流、林崎流居合、林崎神流などと云われていた様です。北信濃では無雙直伝流として伝わり、長谷川英信や荒井勢哲などが江戸へ出て道場を起したとされています。その道場へ土佐の林六太夫守政が江戸勤務の際、指導を請け土佐に戻って広めたという説が正しそうです。
 その流名は古伝神傳流秘書に依れば「無雙神傳英信流居合兵法」とされています。
 土佐に持ち込まれた年代は林六太夫の年齢から推し測れば寛文2年1662年林六太夫守政生まれる~享保17年1732年林六太夫守政死す。ですから寛文は1661年~1673年、延宝は1673年~1681年、貞享は1684年~1687年、元禄は1688年~1703年、宝永は1704年~1710年、正徳は1711年~1715年、享保は1716年~1735年でこの享保17年1732年に死亡したわけです。
 林六太夫の時代は寛文・延宝・貞享・元禄・宝永・正徳・享保と7つの年号にそって生きたと云えます。年号と年齢を勘案しますと以下の様です。
 寛文0~11歳
 延宝12~20歳
 貞享21~24歳
 元禄25~40歳
 宝永41~47歳
 正徳48~52歳
 享保53~70歳
 20歳から40歳までに修行することが出来ていれば、土佐に戻って普及に尽力したのが41歳から71歳までとすればその時の最長年号は享保となるでしょう。
 従って土佐における無雙神傳英信流居合兵法は享保の頃土佐に普及されたと云えるでしょう。然し長谷川英信の居合はそれより早い元禄時代とも考えられます。
 城中での座し方が正座と定められてから普及した大森流居合が土佐の居合として今日まで居合の基礎として稽古されている事を考えますと、長谷川英信が林崎甚助の居合の何を改善したのかも知られていない現状では英信流というよりも、大森流の価値の方が高そうです。そうであれば無雙神傳大森流居合兵法の流名もあって然るべきでしょう。
 ちなみに真陰流五本の業からの転用とされていますが、真陰流の業はどういうものであったか不明です、上泉伊勢守の業であれば新陰流の「三学円の太刀」が五本の業から成り立っていますが、どの様に工夫されたのか疑問です。私はこれらの不十分な経歴にメスを入れて掘り下げるよりも一本一本の業や組太刀、棒、和術などを武術として人体の動きを明確に捕え古伝を掘り起こし解り合い語られるべきものと信じています。

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