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2019年9月28日 (土)

曾田本その2を読み解く42大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑42の4林崎先生

曾田本その2を読み解く
42、大阪八重垣会幹事?剣道錬士河野稔氏との文通質疑より
42の4質問を受けたる事項

1、林崎先生

1、A 林崎先生は北条泰時第二子説。B 宗時▢▢説。C 足利末期説の三説有之様にて私は▢見的研究の結果、A、B、両説は単なる伝説の様考へられ、小冊子には、足利末期説をとり、足利13代義輝の頃(永禄、元亀)と致して居りますが当研究▢▢▢ます

◎先生(虎彦を指す)の御説の秀吉御学被成云々より致しましても足利末期説を其とするに足る様考へられます
◎北条五代時頼より秀吉迠340年
◎三代泰時ー秀吉迠360年
◎足利五代義量ー秀吉迠160年
◎足利末期十三代義輝より秀吉迠は37年にて何れよりするも足利末期説確かの様ですが如何でせうか。

1、(大森流始祖は大森六郎左衛門との御説に依り確信を得まして心より感謝致します)
 A 就きましては其時代(九代林六太夫先生)迠は正坐大森流はなく、
 B 長谷川流の立膝は英信の初めたものとすれば英信以前には立膝及び正座は無き訳ですが無双神傳流として林崎より伝来せしものは(現今の業を以て称へば)今の奥居合の居業立業のみであったのですか。
結論
1、奥居合の居業、立業は林崎先生以来伝来今日に至る。
2、立膝は英信に始る。
3、正座は(始祖大森六郎左衛門)にて九代林先生の頃より始まる。と見て差支無いでせうか。

◎然して現今大森流を(九代以来)附属せしめて之を無双直伝英信流と称すとして差支へ無之▢(候)也。

 河野先生の曽田先生への質疑は、疑問に思った事の抜粋の様な書き方なので、その謂れが見えません、突然林崎甚助重信の存命した時代を北条泰時の第二子説から始まっています。
 北条泰時は鎌倉幕府の執権ですから元久2年1205年源実朝時代の執権で元久2年から仁治2年1240年まで勤めています。北条時宗は文永5年1268年から弘安6年1283年の期間の執権となります。
  足利時代は延元3年1338年足利尊氏が将軍となり天正元年1573年足利義昭が織田信長に追放されて足利幕府が消滅する迄続いています。
 秀吉の時代は天正10年1582年織田信長が明智光秀に本能寺で攻められ滅ぼされ、豊臣秀吉として関白となったのは3年後の天正13年1586年です。慶長3年1598年に死没し、5年後の慶長8年1603年には徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開いて居ます。
 どの様な、資料から鎌倉時代まで林崎甚助重信の生まれを辿ったのか、昭和の初めには様々な、嘘が飛び交ったのかも知れません。結局何を根拠としたか不明ですが、足利末期の人とされたのでしょう。
 林崎甚助源重信公資料研究委員会の「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年1991年発行では重信の生年については「重信の生年については諸説があり確説は無い。参考に文献に記されたものを書いてみよう。」とされています。
 天文11年1542年 林崎明神霊験記
 天文11年1542年 東邦新聞史談
 天文11年1542年 居合神社記
 天文17年1584年か天文13年1544年 武術太白成伝
 天文2年1533年か享禄4年1531年 増補大改訂武芸流派大事典
 明治20年の林崎明神霊験記の著者林多少氏は、代々の別当家であるので、天文11年生まれは口碑として伝承されていたものであろう。とされ、武術太白伝および武芸流派大事典は生歿に不合理で疑問とされています。
 同書の略年表では天文11年林崎甚助重信生誕、幼名民治丸とされています。
 足利末期説で良いのですが足利義輝ではなく足利義晴の時代となります。恐らく、河野先生は、武術太白伝辺りを資料とされたのでしょう。
 
 就ましては、以降の業項目の整理については大江先生も、河野先生も、現今の無双直伝英信流居合兵法では明確な成り立ちの教授はされていない様です。
 大森流は大森六郎左衛門の居合を第9代林六太夫守政によって附属せしめた事も、大江居合の正座之部として稽古されているばかりでその経緯さえ明確に示されていません。
 立膝之部も同様ですが、この立膝之部が長谷川英信によって創作されたと云う明確な資料は見当たらず、英信がどのように優れた人で本来無雙神傳林崎流と云うべきを無雙神傳英信流と云うと古伝神傳流秘書にも記されている程度のものです。
 現今の無双直伝英信流の流名呼称の名付けの由来も大江先生に依る程度の事で不明瞭です。まして正座之部、立膝之部、奥居合之部の業の関連性やそれぞれの部との武術的違いなどの明確性も不十分です。
 次いでですが、正座の部一本目前と立膝之部一本目横雲の違いを武術的根拠をもって説明できないにも関わらず、正座之部は入門業、立膝之部は中級者向け、奥居合之部は上級者向けなどと云うのはナンセンスでしょう。正座の八重垣の受払、立膝の虎一足、奥居合の脛囲は同じ動作に過ぎません、何處が初中上なのでしょう。無理やりこじつけても意味のないことです。
 古伝は、大森流は陽進陰退で「・・開き納又左を引て抜付打込み・・」、英信流は虎一足で「左足を引き刀を逆に抜て留め・・」、抜刀心持之事では柄留で「虎一足の如く下を留めて打込」でした。業名、手附の微妙な違いに反応できる想定によって稽古の質を高めれば理解出来ていくはずです。
 第9代林六太夫守政が土佐にこの居合を持ち込んだ時に、其の侭並行的に附属せしめたにすぎず、大江先生も改変する際にその関連性や武的向上を求める手立てには手を付けられずに終わったのでしょう。居合抜の名人であってもこの辺の資料の研究がなされていないわけですからその流派の権威者と思しき人の発言に依って決めつけてしまうのは、疑問を説いたことにはならいでしょう。  思いつくままに

 

 

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