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2019年12月 1日 (日)

道歌1秘歌之大事(林崎新夢想流 新庄藩)1の2早くなく

道歌
1秘歌之大事(林崎新夢想流 新庄藩 元禄14年1701年)
1の2早くなく

早くなく於僧くハあらし重く奈く
     かる幾事をあし幾とそ云

読み
早くなく遅くはあらじ重くなく
     軽き事を悪しきとぞ云う
(はやくなくおそくはあらじおもくなく
     かるきことをあしきとぞいう)

 この歌も明治以降の新庄藩の林崎新夢想流に伝わっています、「早くなく遅くはあらじ重くなく軽きは悪しき拍子とぞ云う」。
 また妻木正麟著詳解田宮流居合にも「早くなくおそくはあらしかるくなしおそきことをぞあしきとぞいふ」。
 曽田本その1の居合兵法の和歌には「早くなく重くあらじな軽くなく遅き事おや悪しきとぞ云」、此れを田宮平兵衛業政之歌として文政4年1821年山川幸雅先生伝として坪内清助に坪内長順より伝えています。

 仮名で書かれた和歌は、もう特殊なものになってしまい原書のまま見せられても読めないものになってしまいました。読みを入れておいても意味が通じないと云う、情けない時代でもあるのです。更に読んでも単語の意味は解っても何を言って居るのか解らないのがこの歌かも知れまん。

 何せ、「早くてもダメ、遅くては役に立たないよ、じゃ重ければどうだそれもダメ、軽ければもう全然悪い」と此の歌に言われてしまいます。
 この歌の意味を、刀の振り方の「早い、遅い、重い、軽い」位のことで論じる程度の意味合いでの歌であれば、剣術が対敵に応じる武術である事を忘れた一人遣いの棒振り踊になってしまいます。腕力を鍛え重く長い刀を打ち振って得々とするようなものです。軽くて短い刀をひょいひょいと振って見ても相手に何も感じさせません。刀や体力などで議論しているうちは、この歌から「ダメ」って言われてしまいそうです。
 居合でよく耳にするのに「重い刀を軽く振れ、軽い刀を重く振れ」とか訳知り顔に聞いたものです。是も独り芝居の殺陣まがいの演舞に過ぎないと思います。
 居合は仮想敵相手の一人演武なので「気の抜けた居合」とか「居合は業に丸味が無ければ真の居合では無い」など、とやかく言われます。
 河野百錬著「無双直伝英信流嘆異録」では「居合に限らず如何なる業も其の極致はすべて丸みが無ければならぬ事は勿論だが、居合の成り立ちが敵に対する刀法である限り、敵の心魂に貫通する(その刀に触るるすべての者に)無限の迫力のある事が第一条件で、しかもその業に丸味があり、侵すべからざる気の位ひを備へた生き活きと躍動するもので無ければ真の居合とは申しがたい。見る人をして「気の抜けた居合」と感じさせる様な居合は、元来平素修錬の乏しい人の居合にしばしば見受ける処で、初心の間は角張った、堅いゴツゴツした居合が幾千万と練磨の功を積んだ後、所謂る丸味を会得する事が道である、初心から丸味などの言葉に迷はされて日々の修練を怠る者は、所詮は終生気の抜けた居合に終わらねばならぬ」と言われています。
 是も此の歌の本意とは言えそうもありません。
 対敵意識はあったとしても相手の拍子に応じる事が語られていない様で間抜けであったり拍子抜けであったりしても良しとされそうです。

 もう一つ河野百錬著「居合道真諦」に「居合の本義は抜討の一瞬にあり。而してその修養の眼目は正・速・強・威なり」として居合の本義と眼目が語られています。
 正 とは流儀の掟に於いて体の構へ。運剣の仕方。を始め其の流儀の形を正しく身につける事。
 速 とは形の正の上に業の理合いを弁へて練磨を重ね、運剣の速度を早くする事。
 強 とは正と運剣の速の上に斬撃の効果を十分ならしめるため、当りの強みを錬磨する事。
 威 とは正速強を身に得て百錬の暁き、流儀の体を自得し、遅速、緩急、強弱を悟り、残心を会得し、而して格調高き無限の品位と風格のある境地に到達する事。
 だいぶん歌心に近づいた様ですが、形に捉われすぎて居付いてしまいそうですし、不必要な刀の速度であったり、強みを見せようとして力任せの運剣であったり、それを良しとする傾向に陥りやすく、業の理合を弁えない唯の棒振りに陥り、残心ばかり決まっているジジイの居合でしょう。
 相手の意図する事に自然に応じていく拍子を身に着けることが望まれているとミツヒラはこの歌を解します。
 同時に相手を思う処に付け込ませる活人剣の教えが見え隠れしていると思います。
 宮本武蔵の五輪書地之巻には「まづあふ拍子をしって、ちがふ拍子をわきまへ、大小・遅速の拍子の中にも、あたる拍子をしり、間の拍子をしり、背く拍子をしる事、兵法の専也。兵法の戦いに、其敵其敵の拍子をしり、敵のおもひよらざる拍子をもって、空の拍子を知恵の拍子より発して勝つ所也」と拍子について述べています。
 仮想敵を描くにも人それぞれに相当の武的力量の差が有るもので、強い早いばかりの竹刀剣道では理解できず、年と共に衰えて若者に負ける始末を嘆くことになりそうです。何も攻撃を仕掛けて来ていない仮想敵に「敵の害意を察して」という察する事も無く抜き付ける居合や、形も「順番」や「足運び」など「かたち」ばかりを良しとしていても、武術の術には至れないものです。

 中川申一著「無外流居合兵道解説」の百足伝に
 「兵法の先は早きと心得て勝をあせって危うかりけり」
 「兵法は強きを能きと思いなば終には負けと成ると知るべし」
 「兵法の強き内には強みなし強からずして負けぬものなり」

 此の歌も、前回の「千ハ品木草薬とききしかどどの病にとしらで詮なし」も冒頭から修行練磨の厳しさを免許皆伝に託して歌われていると思い知らされるばかりです。
 
 

 

 
 
 
 

 

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