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2019年12月16日 (月)

道歌1秘歌之大事(林崎新夢想流 新庄藩)1の17ひしとつく

道歌
1、秘歌之大事(林崎新夢想流 新庄藩 元禄14年1701年)
1の17ひしとつく

非しと徒く知ゃうと留ハ居合也
       知ぬ尓きるハ我を害す春る
読み
ひしと突くちょうと留るは居合也
       知りぬに切るは我を害する
(ひしとつくちょうととめるはいあいなり
       しりぬにきるはわれをがいする)
*
 勢いよく突いて来るのを丁と受け止めるのが居合である、それを知っているのに斬ったのでは突かれてしまう。と直訳気味に読んでみました。
 然し現代居合の大森流も英信流も相手の突き業を発止(ハッシ)と受け止めるチャンバラは無い。敢えて言えば組太刀の中に見られますが、それとて業が上達して来れば請け太刀と為らずに、摺り落すとか、往なすとかの技に変化させ刀と刀を打ち合わせるなど初歩的な運剣にいつまでも拘る様では情けないものです。
 上達すれば請けと同時に斬るとか往なした瞬間に斬って居るとかにならなければ、後の先の意味も無いでしょう。そんな事を思いながらこの歌をなんども読んでいるうちに、「柄口六寸」のこの流之極意を思い描きました。敵が至近から抜き付けんとするその拳に、我は丁「ちょう」と抜き打ってしまう、これが本来の林崎甚助重信が神傳によって得られた居合の極意なのです。
 現代居合の「敵の害意を察して、肩や首、こめかみに抜き付ける」仮想敵相手の後の先と称する不意打ちとは異なるものです。
 下の句は居合の根元である「柄口六寸」のことを知りながら、居合抜とばかりに遮二無二相手の体に抜き付ければ、外されて突きを入れられてしまう。そんな景色が見えてきます。
 「林崎明神と林崎甚助重信」の新庄藩のこの秘歌之大事「ひしとつく」は下の句が「突(つか)ぬにきるは我を害する」と天童郷土研究会長は古文書を読まれていますが、伝書の文字は「知ぬ尓」と読めます。
 この読みから歌心を読み取れば、「ひしと突くちょうと留るは居合也突ぬにきるは我を害する」ですから、相手が突いて来るのを受け止めるのが居合だが、突いてこないのに知って居ながら斬るのでは悪人となってしまうよ、と諭している様に読んでもおかしくないでしょう。

 妻木正麟著詳解田宮流居合歌の伝では「ひしとつく」で始まる歌は二首あります。「ひしとつくちょうと留まるを居合つかぬを切るは我を害する」もう一首は「ひしとつく敵之切先はずすなよ刀をたてに身をばよくべし」。一種目は新庄藩の歌と同じとみていいでしょう。二首めは是は居合とは言えそうにありません。田宮流は居合から剣術に移行した傾向が見られる筈です。
 曾田本その1の居合兵法の和歌にはこの歌は見当たりません。
 新庄藩寛文3年1791年では「ひしと徒くちやうと留れハ居合也▢▢耳切盤我越害す類(ひしとつくちょうと留めれば居合也▢▢に切れば我を害する)」
  新庄藩明治44年1912年では「ひしと徒く丁と留るハ居合也つ可ぬに切ハ我を害春る(ひしとつくちょうととめるはいあいなりつかぬにきるはわれをがいする)」

 新庄藩の元禄14年1701年の下の句の伝書の「知りぬ尓きるハ」の文字は「突かぬ尓きるハ(突かぬにきるは)」が正しいと思われます。
 さて、本来の歌心は、相手が突いてこないのに斬ったのでは、不意打ちになってしまい、我が身を害するよ。とするのか、相手に突かれる前に相手の抜き手を止めてしまう、「柄口六寸」の教えを覚えなければ突き業には応じられない。と読み込むのか。田宮流居合の二首目「刀を楯に身をば避くべし」なのか、将に武術の力量次第の処でしょう。私は「柄口六寸」を以て励みたいと思います。抜かんとする相手の拳を抜き打ちに制する、現代居合が忘れているものを学ぶ事です。
 

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