« 道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の7沈成体に勝 | トップページ | 道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の10行違の太刀 »

2020年1月 5日 (日)

道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の9抜かば切れ

道歌
2、古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌
2の9抜かば切れ

居合と申は第一に太刀抜かぬ以前に勝亊大事也 歌に

抜は切れ抜すバ切な此刀
     たゝ切る事二大事こそあれ

あまた尓て勝れざりしと聞しかと
     心明剱の太刀を楽しめ


居合と申すのは第一に太刀を抜かぬ以前に勝亊が大事である 歌に

「抜かば切れ抜かずば切るなこの刀ただ切る事に大事こそあれ」この歌は我なのか相手なのか首を捻ってしまいます。この歌の上の句の別な歌い方に「抜かば切れ抜かずば切れよこの刀ただ切る事に大事こそあれ」とあると曽田先生は追記しています。
 
 神傳流秘書の巻末に居合兵法の和歌として田宮平兵衛業政の歌として次の歌が有ります。
「居合とは心を静ずめ抜く刀抜けばやがて勝を取るなり」
「居合とは人に切られず人切らず唯受け止めて平らかに勝」
「居合とは心に勝が居合也人に逆うは非刀としれ」
「居合とは刀一つに定まらず敵の仕掛けを留る用あり」

 これらを読んでいると、居合道歌は矛盾している様に思えるのですが、「抜かば切れ抜かずば切れよ・・」では相手が抜くならば切れ、抜かなくとも切れ・・。となって是は人殺しでしょう。もっとひどいのは、敵と決めつけて、一方的に抜いて切ってしまえ、抜かなくとも切るんだ・・。としたらどうなあるのでしょう。
 下の句の「・・ただ切る事に大事こそあれ」は、切り付けるならば遮二無二切る事、抜き始めて躊躇するなと云うのでしょう。そうでなければ、田宮平兵衛業政の歌が死んでしまいます。
 相手が抜いて来るならば切れ、抜く気配がないなら切るな、居合は抜けば躊躇なく切るものだ、と云うのだろうと私は思います。
 歌の読みはそれでいいかも知れませんが、「居合と申すは第一に刀を抜かぬ以前に勝亊也」の心持ちはもっと考えてみるべきものだろうし、第九代の江戸から持ち込んだこの居合の抜刀心持の解釈にはなり切れません。古伝神傳流秘書の「神妙剣」を思い出すものでしょう。
 
 次の歌は「数多にて勝たれざりしと聞くのであるが、(その時には)心明剱の太刀を楽しめ」です。敵が複数では勝事は難しい、多ければ勝てない、と言われている、その様な状況では「心明剱」の太刀を楽しみなさい。
 戦う事ばかりを思い描く者を戒めている歌で、文字は違いますが「神妙剣」の事だろうと思います、「彼れ怒の色見ゆるときは直に是を知って怒りを抑えしむるの叡智あり、唯気を見て治むる事肝要中の肝要也、是戦に至らしめずして勝を得る也。彼の気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剱と名付けたるなり」私はこの教えを取りたい。
 業の術理や動作は、先天的な器用さや、武的身体操作の出来ている者は容易に目録位には達せるでしょう。戦わずして勝事は心の修行によるもので、古伝神傳流秘書の随所にその心を教えているのですが、「我と敵」ばかりを描いて演武してしまうのが現実です。「相手と我」という使い方は何を意味するのかでしょう。
 正座の部大森流居合之事も立膝の部英信流居合之事も、我が動作ばかりを稽古させ相手の動作は想定に任せているので初歩の段階での居合抜ばかりを知っている師匠に指導を受けると「相手」は「敵」とイコールになってしまい「相手と我」でもなく、「人と人」ではなくなってしまうかも知れません。
 相手と云い始めるのは「太刀打之事」からです。これは「遣方と相手又は打太刀」、「仕方と打方」、「仕太刀と打太刀」として組太刀の用語となっています。何故「敵と我」とは言わないのでしょう。
 稽古形なので打太刀は上位者で仕太刀は下位の者が指導を受けるからとばかりに思うのも一つですが、術理の稽古形は本来実戦に即応できるもので、演武会の出し物や、居合の間と間合いを覚える程度のレベルのものではない筈です。常に同じメンバーで仕打も決まっている稽古ばかりしている武的演舞好きはそれで良しとしても、仕打の入れ替わりは勿論、相手を変えて稽古しなければ稽古にはならないものです。
 古伝神傳流秘書は「相手」と呼んでいますが、江戸末期の谷村亀之丞自雄の伝書では「敵と我」と変わっています。
 曽田先生による五藤孫兵衛正亮伝来の業附口伝も「敵と我」となってしまっています。
 「敵」という呼び方がイメージさせるものは我を害するものであって、憎むべきものなのでしょう。
 「相手」は我と同じ「人」であって我との違いは人としての哲学の違いや、其の人の守るべき環境をイメージします。第9代林六太夫守政のもたらした居合の根底に流れる武術の思想がうかがえる気がします。

 第7回違師伝交流稽古会は大小詰、大小立詰でした、手附に依って夫々素晴らしい術をお見せいただいたのですが、小手返しなど腕を逆手に固めたり、其の侭投げれば骨折も有り得るもの、業が終了してから斬り倒したり、命を奪う動作を補完されているのを見たり、これ見よがしに複雑な技を演ずるのを見ていて是は違うと感じてしまいました。相手を傷めずに、するりと持ち込める業が出来なければ古伝神傳流秘書の奥義には程遠い者に過ぎないと強く感じたものです。
 
 「心明剱」の文字によるものでは「先ず我が身を敵にうまうまと振るまうて、敵と我と互に打ち下ろす頭にて只我は一途に敵の柄に(柄口六寸に)打込むなり」という極意をも指しています。まさに古流剣術の極意業です。

 また、多勢との戦いでは「敵大勢我一人の時は敵を向へ一面に受くる良し。大勢は向こう両脇より掛かる、我其の時右の敵に合うよしに見せて左の敵に合う、左の敵に掛かる由にて右の敵を打つべし、働く内に我が左の敵に付きて廻すべし。されども敵大勢故前後左右に取り廻さんとす。我其の時は知るべし。敵追って来る事大勢故、一同に来たらず先き立ち来る敵を、或は開きて打つ、或は伏して打つべし、又逃ぐる良き間を考えるべし」と大道之事に書かれています。

 どの様に戦ったらよいのかを教える歌とも取れるし、戦わずして勝つ心の修行を求める歌とも取れるものです。

|

« 道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の7沈成体に勝 | トップページ | 道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の10行違の太刀 »

秘歌之大事」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の7沈成体に勝 | トップページ | 道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の10行違の太刀 »