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2020年1月19日 (日)

道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の22鞠を蹴る2本来の事

道歌
2、古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌
2の22鞠を蹴る
2本来の事

敵色々と有りて我を騙すとも油断する事勿れ、例えば鞠を蹴るに同じ、我が鞠と人の鞠との色をよく見る事也

本来の事より出て亊二入り
      あわれ知らばや事のふかさハ

読み
「本来の事より出でて事に入り哀れ知らばや事の深さを」。本来の事はこの様にするものと覚えてはみたが、それだけでは本来の事を果たす事さえできないと知って事の深さに気が付いて、何も知らなかったと嘆いています。
「 本来の事」の「事」とは何かの解説がありません。「亊」は「わざ」とも読まれます。恐らく口伝が有ったとも思われるのですが、沢庵が柳生但馬守に与えた不動智神妙録に「理の修行 事の修行と申す事の候」の一節が有ります。「亊の修行を不仕候らえば 道理ばかり胸に有りて 身も手も不働候」とあって、「理を知りても事の自由に働かねばならず候 身に持つ太刀の取りまわし能く候ても 理の極り候所の暗く候ては 相成間敷く候 事理の二つは車の輪の如くなるべく候」と結ばれています。
 理とは「唯一心の捨てようにて候」ですから「とらわれない心」と言う事になります。
 「本来の亊」は「亊」は「わざ」、剣術の業と捉えれば良いのでしょう。沢庵や柳生但馬守の時代は寛永の頃(1624年~1643年)徳川三代将軍家光の頃です。従って事は業と読んで見れば、歌の意味が見えて来る様です。
 本来習い覚えた業の形より始まり、更にその形の変化を相手が打ち出せば元の業も変えざるを得ません、次々に相手の打出す業の変化に手も足も出ないものです。免許皆伝は教えた事が出来ただけで得られたもの、そこから始まる奥深さに唖然とさせられるものなのです。
 然し「本来の亊」は恐らく大森流居合之事や英信流居合之事の一本目初発刀、及び横雲の亊(業)を意味するでしょう。そこから始まり更に事(業)が複雑に深まっても「本来の事」で身に付けた事が基となると云うのでしょう。
 「形だから習った通り打て」とばかりに一つ覚え、挙句は脚の幅から歩数迄整えて見ても何も意味するものは得られそうも有りません。
 亊(業)と理は人それぞれの得て不得手や、癖、或いは哲学に及ぶでしょう。その奥深さもそれぞれです。何が打ち出されるかは己を無にして応じられる迄修行するものなのでしょう。
 
 

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