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2020年1月24日 (金)

道歌2古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌2の27鞠を蹴る7唱うれば仏も

道歌
2、古伝神傳流秘書より抜刀心持引歌
2の27鞠を蹴る
7唱うれば仏も

敵色々と有りて我を騙すとも油断する事勿れ例えば鞠を蹴るに同じ我が鞠と人の鞠との色をよく見る事也

唱うれハ仏も我も無かりけれ
      南無阿弥陀佛の声計りして
読み
「唱うれば仏も我も無かりけれ南無阿弥陀佛の声ばかりして」お経を唱えてみても仏も我も何処にも無い、南無阿弥陀佛の声ばかりするよ。歌心は神仏を頼みに唱えて見ても、仏も我もどこにも見いだせない、お経の声しか聞こえないよ、無心になる以外に道は開けない。こんな歌心と読んでみましたが、へそ曲がりですから私などは仏に頼る事など考えた事はないのです。とことん稽古するとか勉強して場に臨んでは無心になる以外に己を導く方法など思いつかないのです。
 
 この歌は時宗の一遍上人が修行の際、「唱うれば仏も我も無かりけれ南無阿弥陀佛の声ばかりして」と歌えば、師の心地覚心禅師はまだまだと突っ返してきた。次に「唱うれば仏も我も無かりけれ南無阿弥陀佛なみあみだぶつ」と歌えば「出来た」と許されたという一遍語録にある歌です。
 仏と我が個々に独立した歌は、前の歌で我も仏も一体となって唱えるのが後の歌とされています。仏も我もでは無く我其のものが仏となり一心不乱に無心となる事を示唆しているものです。この歌心を古伝神傳流秘書は居合心のあるべき心としているのです。
 神も仏も日常の生活からいつの間にか、遠のいてしまった様な現代社会においても、様々な場面で学び修行した事が自然に行われるには、頭で考えてから行動するとか、習い覚えた事だけで、頭が一杯になって場に不都合なのに無理やり対処するのでは解決できるわけはありません、どの様な場面でも閃くなかで自然に応じられる修業が求められるのでしょう。
 

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