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2020年3月13日 (金)

道歌4田宮流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の6吹けば行く

道歌
4、田宮流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の6吹けば行

百足伝
吹けば行く吹かねば行かぬ浮雲の
         風にまかする身こそやすけれ


 風が吹けば流れていく、吹かなければ其処に留まっている浮雲のように、相手の動きに身を任せて応じるのは容易ですよ。

 田宮流居合歌の伝に「居合とはつよみよはみに定まらず兎にも角にも敵によるべし」。居合と云うのは我が方から仕掛けて強くとか弱くとか云う事では無く、兎にも角にも相手次第である。と云うのです。新庄藩の林崎新夢想流元禄14年1701年では「居合とはよわみ計りてかつ物をつよみて勝は非かた也けり」と田宮流と少々異なる歌心が詠まれています。
 風におまかせする雲と同じような応じ方を良しとするのでしょう。
 しかし一方、曾田本居合兵法の和歌では「待もする待っても留る事ぞ有懸待表裏二世の根元」といって、相手の出方を窺うとは言え懸る様にして待つ、待つようにして相手を誘い望みの所に打ち込ませて裏をとる、懸待表裏、の根元とも歌っています。曽田本の原本は文政2年ですから1819年に書かれた伝書です。1700年代半ばに第9代林六大夫守政が江戸から土佐の持ち込んだものでしょう。

 他流派などでそこそこ修行して来た人で、新たに稽古に来た時など、何故か負けてはならないと思うのでしょうか。むきになって強く打ち込んで来たり、打ち込めばこれまたむきになって請け太刀になって、居付いています。この百足伝の歌を読みながら、この歌は業技法の根元を歌っているよりも、初心の者が稽古をつけてもらう際のもっとも大切な心構えを歌っている気がしてきました。
 指導する人の一言も聞き漏らさず、云われた通りに打込んだり、受けたりする中から、その流の根元を知る事ができるのに、道場破りの気分でやって見ても何にも身につかずに終わってしまう。そんな顔が幾つも浮かんできました。相手に身を任せれば容易に知り得る術理をもったいないことです。

 更に修業が進んで再びこの歌に出合って、相手の動きを知り得る様になれば応じ方も自然に出て来る事が分ってきます。
 然し此処で武術はそんな安易なものでは無い、相手は我が打ち込みを誘うように隙を見せている、其処へうかうかと打ち込めば、ハッと思った時には我が太刀は外され相手の剣先が喉の寸前で止まっています。

 柳生新陰流の教えに截相口伝書の懸待有之事では「懸は意待に在り、待は意懸に在り。」
 更に始終不捨書では「懸の内の待、待の内の懸。懸々に非ず、待々に非ず。此の如く用いる者世に多し。懸々、待々、有々と位に備る所を知る者少し」と述べています。有とは働きと解説されています。(柳生延春著柳生新陰流道眼より)

 一刀流兵法本目録でも懸中待・待中懸の教えがあります。笹森順造著一刀流極意に依れば「・・進み懸る際にも敵の色を見て其の急変に即応する心構を失ってはならない。・・待つばかりでわれから攻める陽の気がかけたら勢がなく、敵に先んぜられ、敵の隙に乗ずることが出来ない」とされています。

 この歌は、初心から修行を積んだ人までも、其の歌心の深さを感じさせてくれる歌なのでしょう。同時に武術は人生を全うするあらゆる事象に対応できるものであって初めて武術と云えるのでしょう。 
 


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