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2020年3月21日 (土)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の14とにかくに

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の14とにかくに

無外流百足伝
とにかくに本を勤めよ末々は
       ついに治まるものと知るべし

 この歌は、どの様に解釈すれば歌心が読み取れるのでしょう。とにかく武術の基本をしっかりと身に付ければ、自然とものになると思いなさい、とでも歌っているのでしょうか。
 ここでの「本」とは何を言うのでしょう。「治まる」とは何が治まるのでしょう。百足伝は無外流の始祖が残された和歌ですから、無外流の基本となる「本」を知らなければなりません。武術は流派の違いは有っても至る所は同じと考えてもいいのですが其の流の治まる処は何かある筈です。
 中川申一先生の無外流居合兵道解説の序文に、無双直伝英信流第20代宗家河野百錬先生もお書きになっていますが「思ふに真の剣道を知らんと欲せば、真剣日本刀を以てする居合に依らなければ、その真髄は得難く、竹刀剣道の叩き合いのみでは真の剣道とは言い難い。この両者が相まって始めて真の剣道となるものと確信する。・・道は一つであり、他流の者と雖も本書によって、斯道の真髄を体得し得るであろう。」と述べられています。
 中川申一先生は石井悟月先生の序に依れば「先生は先師から伝えられた目録によって失われた技を探求し、各流の師家を訪ねて研究され、五用、五箇、走り懸り、五応、内伝に分類され、更に他流に殆ど失われている、脇差の形と居合の形を集録されて茲に大成された。」と、述べられ、失われた無外流の業を整理されて居られます。
 中川申一先生の自序では、「居合はスポーツに非ずと合同を拒んだ全日本剣道連盟が、昭和31年に居合道部を設置」を、当時遺憾とされておられます。更に「正しき理念と正しき術とを指導する者がなければ、真の精神や術は失われることとなり、只刀を振るだけならば大道芸人と何等異なる所がない。」とも書かれています。此の事は現代居合を指導される先生方も今一度考えてみるべきもので、単なる業技法の統一的指導に終わらせない事が今後の「何の為に居合を学ぶのか」の問いに明確に答えられる指導者を育てなければならない事でしょう。
 中川申一先生は自序の終りに、多くの方に助けられて本を出されていますが「お陰を以て本の体裁をなすに至ったが、内容に至っては自分では満足してはいない。殊に精神面の説明表現に至っては、忸怩たるものがある事を自ら認めている。」と残念がられています。

 この百足伝の和歌に戻ります。どの流であれ剣術や居合を学ぶ者は、立姿や座し方、刀の握り方、構や、斬り付けをその流の形として教本にも書かれて指導されています。流に依る独特の形は教本や一律な講習会指導では見いだせないものです。其の上連盟と称する団体の昇段基準や競技判定基準によって流独特の方法は何処かへ行ってしまった様な気もするものです。従って現代では指導され教本にある形で出来たとしていればそれなりです。それをこの歌の「本」と捉えるのはお粗末すぎると思うのです。其の流の業を全うできる手の内や、体の使い方は他流とは異なって然るべきものですし、それも状況次第で出来なければ武術とは言えそうにありません。
 例えば無外流の五用の一本目真の正座から斬り込まんとする敵の右脇の下への切り上げは、無双直伝英信流の正座の部一本目前の横一線の抜き付けとは明らかに異なります。
 武術としての抜き付けと、現代居合による演舞用の抜き付けで良しとしていたのでは考えさせられてしまいます。

  中川申一先生の全日本居合道新聞昭和38年4月1日の論説の一部です「無外流兵法の祖辻月丹の伝書である無外真伝剣法訣の序文中に「劉輪之巧妙非糟粕(たくりんのこうみょうそうはくにあらず)の語がある。荘子の天道篇の中にある比喩である」
 これは、書物では本当の処はわからないのであって、糟を読んでいるようなものだということとして知られています。
 中川申一先生は「居合なども古人の糟粕に過ぎないのである。然らば抜刀納刀や刀の振り方姿態のみに捕らわれ、外形のみを事とする時は一生糟粕を嘗め続けるもので祖師の苦心の作も一介の瓦のかけらに過ぎない。・・祖師の居合を行ぜんとするならば、その居合を行ずる事によって悟りを得て、既に滅せる心術を把握し極妙の精を再び我が物とした時に始めて祖師の居合を行じて居る事となるのである。故に居合を志す者は他を批判する前に先ず己の心の修行こそ大事である。心の修行未だ至らざるに拙者の居合こそ◯◯流の正しい居合で彼の居合は正しからざる居合であるなどと広言を吐く達人を見るが、これは己の屁の臭きを知らずして他人の屁を嗅いで廻る卑劣な行為で自己を冒瀆し自己の下劣さを暴露して居る人である。また居合道範士等の肩書を有する人で技の理合や理論も充分説明し能わずして兎角自己を高く見せんがために云う人があるが、いやしくも最高称号の受有者ならば如何なる居合の技でも充分に説明し得る迄研究して貰いたいものである。また居合修行者として大切な事は技術・理論も然りであるが歴史についても研究していただきたい。・・・無外流の流祖は「劉輪之巧妙非糟粕」の一句を伝書に入れて後進者に強い教訓を与えている。」

 お前もその一人だ、と諭されています。だからこそ本物を求めて日々道場に立って一本ずつを抜いているのですが、習い覚えた22代、23代の居合が自然と出て来るばかりです。少しずつでも前に進められたらと思うばかりです。 

 

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