« 道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の15兵法の奥義は | トップページ | 道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の17我が流を使いて(無外流真伝剣法訣) »

2020年3月23日 (月)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の16我が流を使はゞ

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の16我が流を使はば

無外流百足伝
我が流を使はゞ常に心また
       物云ふ迄も修行ともなせ

 我が流の亊を使うならば、常に心もまた物を云うまでに修行しなさい。古伝を読んでいますと「亊」の文字が使われて「業(わざ)」と読ませています。曽田本でも「亊」ですが曽田先生は是は「業ではないか」とされていますが強いて文字を変えていません。
 「我が流を使はゞ」については、無外流と言う武術ですから、業技法もその考え方も「使う」事になりますから、それを単なる刀法に絞らずに「亊」として読んでみました。動作は体が覚えて行くのですが、体を動かすのは心である、心が物を云い体を動かす様に修行せよと云うのです。心が物を云う訳は無いので、無心と成れば、状況に応じて習い覚えた動作が自然に発して来る迄修行せよと云うのでしょう。
 
  宮本武蔵の五輪書火の巻は実戦の場に臨んで、敵に打ち勝つ要諦を書きあらわしたとされています、その序文の末尾に「此道の達者と成り、我が兵法の直道世界におゐて誰か得ん、又いづれかきわめんとたしかに思ひとって、朝鍛夕練してみがきおほせて後、独り自由を得、おのづからきどく(奇特)を得、通力不思議有る所、是兵として法をおこなう息なり」意味は、この道の達人となって我が兵法の正しい道を知り、極めようと思い立ち、朝鍛夕練して磨き上げて見ると、何物にも縛られる事のない心の自由を得、心が特別な働きをしてくれる。万事に不思議な力があるところを知り得た。是が武術を修業する本来の心意気というものである。

 柳生宗矩著兵法家伝書の殺人刀に「平常心是道」という景徳伝登録巻28の言葉があります。是は「道は修を用いず、ただ汚染する事なかれ、何をか汚染となす、ただ生死の心ありて造作し趣向するは、皆是れ汚染なり。若し直にその道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり。
 いわゆる平常心は、造作なく是非なく、取り締まり無く断常なく、凡無く、聖無」渡辺一郎校注より。
 宗矩は「此の平常心をもって一切の事をなす人、是を名人と云う也。・・いつとなく功つもり、稽古かさなれば、はやよくせんとおもふ事そ
ゝのきて、何事をなすとも、おもはずして無心無念に成りて、・・この時我もしらず、心になす事なくして身手足がする時、十度は十度ながらはずれず、その間にも、いさゝかも心にかゝりたれば、はづるゝ也。無心なる時、皆あたる也。無心とて、一切心なきにあらず。唯平常心なり。」

 

 

 

|

« 道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の15兵法の奥義は | トップページ | 道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の17我が流を使いて(無外流真伝剣法訣) »

道歌4無外流百足伝」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の15兵法の奥義は | トップページ | 道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の17我が流を使いて(無外流真伝剣法訣) »