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2020年3月14日 (土)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の7山河に落ちて

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の7山河に落ちて

百足伝
山河に落ちて流るゝ栃殻も
      身を捨てゝこそ浮かむ瀬もあれ

 この歌は空也上人の空也上人絵詞伝とされる様ですが、空也上人は延喜3年903年から天禄3年972年頃の浄土教の上人で、この絵詞伝が成立したのが天明2年1722年の事と聞きます。
 谷川に落ちて流れる栃殻も、実を犠牲にすれば浮ぶ事も出来るであろう。と歌っています。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という事で知られる、難問にさいなまれていても自分を捨てて懸れば助かる道も開けよう、という事に使われます。
 捨て身の人になれば、という事ばかり前に押し出し徒に懸って行ったのでは相手の思うつぼに過ぎませんが、ここでの歌心を稽古における心構えとして捕えてみます。
 いくら稽古をしても、形は何とかなっていても、術が決まらない、そんなことは誰でもある事ですが、自分より下位の者には容易に決まるのに、上位の者には刃が立たない。特に竹刀剣道を長くやって少しは実績を残した人に多く見られる現象です。
 習い覚えて結果を出してきた、体の使い方が古流剣術には通用しない事は多々あります。悔しいので「形はかたちだから」と嘯いて見ても其の流の、足遣い、腰、肩、手の使い方が出来なければ業にはなりません。もがいて見ても、力任せにやって見ても出来ないものは出来ない。今までやって来た良しと思えること毎を一度忘れ去って、白紙の自分になった時、其の流の業技法が目の前に浮かび上がって来る事があります。
 過去に良しとしたことを捨てて見るなど、簡単に出来ないかもしれませんが、習うという事はそんな事から始めなければ習いにならないのです。
 「身を捨てて」ほどの大袈裟な事では無いと思うかも知れませんが、其処まで思い切らなければ、習い・稽古・工夫のどれも出来ないのは当然です。どんなに思い切って捨てて見ても、習い覚えた仕草は、折りに触れ出てしまうものです。
 
 
 

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