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2020年3月24日 (火)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の17我が流を使いて(無外流真伝剣法訣)

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の17我が流を使いて

無外流百足伝
我が流を使いて見れば
      何もなくして勝つ道を知れ

 無外流の事(わざ)を学んで見るならば、何も之と云った、決まりごとの業や技巧を凝らす訳でもない、ただ勝つ道を知る事になるのである。この歌を直訳すればこんなところでしょう。
 「これでは無外流を知らないので歌のままでは何も伝わってきません」と云ったならば「お前如きに解るものか」と訳知り顔の、無外流を習いも稽古もしたことのない、へぼ先生にあざけられてしまいます。
 しかし、どの武術流派でも根本的な処は単なる業の形を追うだけでは、大道芸に過ぎないもので、初心の稽古形としてとか同じ形を毎日繰り返すことに依る禅的修行や老人体操には良しとしても、武術としては程遠いものでしょう。其の業を身に付けるには、その業のもつ精神的な理も知らなければならない。そうでなければ、相手の害意を察した顔をして一方的に斬り殺さざるを得ません。
 
 中川申一著無外流居合兵道解説には載せられていませんが、無外流には「無外流真伝剣法訣」という伝書がありその中に十剣秘訣と云う、無外流の流祖辻月丹が書いた無外流の心得が残されています。それは形の順序を示す様な業手附ではなくどの流派の業にも適用できる精神面の心得を綴ったものです。
 無外流百足伝のブログ3月21日4の4「とにかくに本を勤めよ末々はついに治るものと知るべし」の処で紹介してあります。
 辻月丹は伝書に「伝を誤り真をみだし或は奇抜俗をまどわす、連城の声ありと雖も甕瓦の功に異ならず、嘆ずるにたうべけんや」と云い、形が崩れるのはその精神が伝わらず形ばかりの形骸だけが誤って伝わる事を恐れて書き残された十則の教えです。
 この教えだけで充分研究課題としては素晴らしいものです。無外流の方々のブログにアップされていますのでそちらを開いてご研究をお願いするだけにしておきます。
 さわりだけと云う方には、大森曹玄著剣と禅の「一法無外へなへな剣の都治月丹」をお勧めします。これだとて十剣秘訣の教えを充分解読された剣法書と云えます。

 武術は人としてあるべき何物にも侵されない姿、然し優しく和する心を持った、平常心によって何時如何なる場合でも瞬時に応じられる修業を基としています。
 其の為には、基軸となる思想はもちろん、姿も軸がしっかりして居なくてはなりません。
 相手の思いは、暗がりで物を見ようとしても目に見えるものでは無いように憶測であってはならない。従って、憶測で物を言わず、動かず、相手の僅かな言葉や動作に従って反応すべきものです。しかし、人は眼に見える動きや、聞える言葉の裏に本性があるもので、表の状況に惑わされやすいものです。己を無我の境地で相手に接する必要があります。
 そのように、相手も澄み切った心であれば、水に写る月のように実態はないものです。
 無我の境地で相手に従って応じて行けば、次々に打ち出される事毎にも応じられるものです。そんな打ち合いに於いても、打つべき時には躊躇せずに全身全霊を以て打込むべきもので、此の事は業形によってなすものでは無く心に映じたものによって、手足が動くものです。手足が状況に応じて自由に動くには、日々の稽古によるあらゆる状況に応じられる修業と同時に、無我の心を養うものでしょう。

 流派に依る、業の違いや、運剣動作が如何様に有ったとしても、勝つべき道は一つと歌っている様です。
 
 

 

 

 
 

 
 
 

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