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2020年4月 7日 (火)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の32習ふより慣るゝ

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の32習ふより慣るゝ

無外流百足伝
習ふより慣るゝの大事願くは
       数を使ふにしくことはなし

 習うよりも慣れる事の方が大事、出来るならば数を稽古する事に勝る事はない。

 柳生新陰流の尾張柳生の柳生兵庫助利厳が元和6年1620年に尾張権大納言義利に印可相伝の際「始終不捨書」を進上しています、その始めに三摩之位という一円相に三等分の点を打ち習い・稽古・工夫の三磨を示しています。柳生新陰流道眼の著者柳生延春先生によると「どこまでが「習い」であるか、「稽古」であるか、どこからが「工夫」であるのか境界なく、その三位を一円相上に追及して、循環して端無き位として渾然一体と化するように円成し、出精してつとむべきであるとの習訓である」と解説されています。

 業の動作を習っても、其の動作に慣れなければ耳学問、眼学問で終わってしまうわけで、体にその動作が慣れなければ、業は一人で演じられるものではないでしょう。繰り返し練習して初めてわざの動作が一人で演じられる様になるものです。
 業の動作に慣れて教えられた通りに出来るようになると、私は「何故」の疑問が湧いてきて、こんな状況だったら、あんな時にはどうしようと思い出すのです。そこから習ったものを軸にして稽古が始まったものです。合同稽古では、訳知り顔の兄弟子が「違う!」とすっ飛んで来るので、何故の解決は稽古日以外の日に一人稽古を欠かさずやって来ています。此処では練習では無く稽古です。そして問題解決の工夫は手当たり次第に業技法のDVDや書物で勉強しました。出来ない時は他流の門も叩いてきました。
 
 恐らく百足伝のこの歌も、教えた業の動作を手取り足取り教わるばかりでなく、自分で教えられた技を繰り返し練習して其処から業の本質を見つけ出しなさいと歌っていると思います。師匠のコピーはコピーに過ぎず、命の吹き込まれていない形にしかならないものです。
 柳生新陰流の始終不捨書の三摩之位は、習い・稽古・工夫を夫々ぶつ切りするのでは無く、それらを渾然一体として身に付ける事を示唆しています。

 形の稽古で、十分その業が出来てもいないのに、形の要求して居る事以外をやったりするとたちまち手直ししに来る者がいます。「何故そうしたのか」を少しも考慮せずに、自分流を押し付けられても少しも役に立たないものです。慣れる事によって形が出来上がってもその形には生気は無いものでしょう。遠廻りしても稽古の上で工夫を重ね、結果として教えられる形にたどり着いた方が遥かに生き生きしたものになります。
 或いは、何故、習った形が出来ないのかを、指導者はしっかり見つめて、例えば、姿勢とか手の内とか、或いは筋肉や関節の使い方を教えるとか、指導者としての工夫が必要なのでしょう。死に物の形ばかりに固執している指導者の下には出来る修行者は生まれないものです。
 最近は高齢者の入門もあるもので、いたずらに業数を指導するよりも、初伝・中伝・奥伝からピッキングして少ない業数で慣れてもらう方法なども取り入れる事も必要でしょう。中途半端に業数ばかりふやして教えて見ても中途半端は半端です。

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