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2020年6月19日 (金)

無雙神傳英信流居合兵法1抜刀心持之事1の20抜打

無雙神傳英信流居合兵法
1、抜刀心持之事
1の20抜打

抜刀心持之事20本目抜打
歩み行中に抜打に切敵を先に打心也

 大江正路の奥居合には立業の抜打は存在しません、置き捨ててしまったか、習わなかった、古伝を知らなかった。大江先生には下村茂市からも五藤正亮からも無双直伝英信流の相伝は無かったとされるのですが、大江先生は8人ほどに根元之巻を印可されていますから目録位はとも思いますが、五藤正亮からの目録ななどの資料の話は聞いたことが有りません。

 細川義昌系統の尾形郷一貫心による奥居合之部十八抜打(出合頭に斬る)正面へ歩み往きつつ、鯉口を切り右手を柄へ掛けるなり、右足踏込み、出合頭に(正面へ)抜打に斬付け、左足を右前足に踏揃へると同時に刀を納め終る。
 尾形先生の抜打の文章だけでは、抜打が横一線なのか、真向打下しなのか、片手袈裟なのか解りません。大森流の抜打は「刀を右前へ引抜き刀尖をひだり後ろへ突込み、諸手上段に引冠りて斬込み」です、英信流の抜打は「両膝を伸しつつ、刀を右前へ引抜き(膝が立つと同時に両足爪立て)刀尖を左後へ突込み、諸手上段に引冠りて斬込み」です。奥居合の二十本目抜打は「頭を下げ礼をして俯きたるまま、両手引込め鯉口と柄を執り、急に腰を伸しつつ、刀を右前へ引抜き刀尖を左後へ突込み、諸手上段に引冠りて斬り込み」ですから、上段からの真向斬下しでいいのでしょう。

 檀崎友影の奥居合には抜打に相当するものは見当たりません。
 
 山蔦重吉の奥居合には抜打に相当するものは見当たりません。

 古伝抜刀心持之事には立ったまま歩み行敵を抜打にする業が存在したのです。この業を大森流の十一本目抜打の業を立って演じる事は出来ます。「歩み行く時正面から敵が刀を抜いて真向から斬込まんとする、我は左足を踏み込み刀に両手を懸け刀を抜きかけ、敵が斬下すや左足を右足に引き付け同時に柄頭を正中線を通して左肩を覆う様に上に抜き上げ敵刀を摺り落し、左手を柄に添え振り冠るや右足を踏み込み敵の真向に斬り下す。血振り納刀す」

 全日本剣道連盟居合の12本目「抜打」:要義 相対して直立している前方の敵が、突然、切りかかってくるのを、刀を抜き上げながら退いて敵の刀に空を切らせ、更に真っ向から切り下ろして勝つ。
 是では、古伝の抜刀心持之事の抜打にはなりません。

 然し、この抜刀心持之事の抜打は「歩み行中に抜打に切り敵を先に打心也」が手附けです。無雙神傳英信流居合兵法は成立が江戸時代中期1700年代の農民と武士の中間の武芸者によって組み立てられたと思われます。武術に思想的要素を持つよりも、必ず勝つと云う思想で組み立てられていたとしたならば、敵の害意を察するや、抜打つ事が最優先であって、敵の動きに従って勝つ柳生新陰流の「活人剣」など無用だったかもしれません。
 再び、然し、それでは柳生新陰流の「色付色随」の教えを充分知る者には勝てないでしょう。次回は「色に付き色に随う」に沿った「弛抜」になります。

 

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無雙神傳英信流居合兵法1抜刀心持之事」カテゴリの記事

コメント

Leeさま
お久しぶりです、大江正路先生についてよくご研究されましたね。大江先生は明治と云う時代が刀を持って戦う武術を必要としない時代の到来だったし、廃藩置県や廃刀令で大きな変化を来した時でした。剣術の各流派も職を失い食うために他に職を求め、ほんの一握りが細々と命脈を繋いでいたに過ぎないでしょう。ですから居合などもその教える人も教わる人も無く消えてしまう処だったのでしょう。大江先生はそんな時に中学校で指導する切っ掛けを得られたのでしょう。そこから何人もの学生に居合を指導し復元された無双直伝英信流の中興の祖でいいのでしょう。
しかし、大江先生も充分な指導をうけたとは言えず、その伝書類も相伝していなかったと思われ、初伝中伝は兎も角奥や組太刀、棒、体術などは全く知らなかったと私は思っています。
 大江先生に指導を受けた学生たちによって現代居合が花開いたことは事実でその功積は大きいでしょう。それはそれで認めればいい事と思っています。
 古伝の研究は現代居合はそれはそれで、古伝は古伝として学べばいい事と割り切っています。
  ミツヒラこと松原昭夫

投稿: ミツヒラ | 2020年6月20日 (土) 09時13分

ミツヒラ様

ご無沙汰しております。個人的の事情で色々苦労してましたが、元気に過ごしています。前にもコメントした通り大江先生については私もいつも疑問を持っています。ミツヒラ様が投稿にも仰っている通り、大江先生の16代目後藤政亮についての目録などの資料が全然存在しないもの、そのような話すら私もどこでも見つけたこともないです。
どこの説明では16代目後藤政亮に師事、17代目を継承したとか下村派を学んだ後、谷村派を研究(?)したとの説明もあります。個人的な考えは谷村派を後藤政亮から師事したよりも個人的に研究したというのが当たるのではないかと思ってます。
大江先生については功罪があるといいますが、罪については大江先生個人的に維新後、職のために色々の所を渡り歩いたのもあって仕方ない事情があったのじゃないかと推察しています。(間違うかもしれないですが若い時は下村茂一先生にすべての教えを受けられなかったと思います)しかし、業について大江先生が整理、改変したといっても下村派は細川儀昌、行宗貞義等(この先生方々の弟子たちも)、16代目後藤政亮先生の高弟たちもいたのに(皆、目録や皆伝受けたのと知っています)なぜ現在に至ったのかが自分が持っている最大の疑問です。

それと'宗家'という表現ですが、最近下記の内容を読んで見ました。もし英信流では宗家と称するのは適切なことではないですが?

「土佐藩の藩政上、芸家制度というのが有り、藩主山内家より君命を受けた家系が流儀の伝承を行っていたのです。廃藩置県後、芸家は存在せず流祖から数えて何代目、何世というのが正しい表現です。」

この文章について確実には分からないです。だが大江先生が授与した巻物でも17代宗家じゃなく、17代目と書いていてこれから見ると当たるのではないかと思うのもあります。


投稿: Lee | 2020年6月20日 (土) 01時33分

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