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2020年6月 5日 (金)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の51兵法にさそく奇妙の軽業は

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の51兵法にさそく奇妙の軽業は

兵法百首
兵法耳さそく奇妙能可留王さハ
      弟子乃お与者奴奈らい成介り

兵法にさそく奇妙のかるわさは
      弟子のおよばぬならい成けり

兵法にさそく奇妙の軽業は
      弟子の及ばぬ習い成けり

 兵法に於いて機に臨んでの速やかに応じる優れた身のこなしは、弟子の及ばない修練の賜である。

 「さそく」はかんじでかけば「早速」で現代の慣用語では「さっそく」です。意味は、機に臨んで速やかに処置すること・機転・さっそく。
 もう一つは「早足」意味は、軽快な足捌き・すばやく足を動かす。
   「奇妙」は、珍しいこと・ふしぎなこと・普通とはかわってすぐれていること。
 「軽業」は危険な曲芸を身軽に演じるもの・甚だしく冒険的な計画または事業。(広辞苑より)

 新陰流の柳生兵庫助利厳が元和6年1620年に尾張大納言義利(義直)に印可相伝の際自らの公案「始終不捨書」を進上しています。その始めに「三摩之位右重々口伝有之」として、円相の上に等分に三点を描き之を「三磨」とした「習い・稽古・工夫」の教えを顕わしています。
 解釈の仕方はいろいろ在るでしょうが、私は「習い」とは師匠に手取り足取り形を習い、その理合も習った、それを師匠と同じ形に成る様に動作の順番を記憶し、足は手は刀はと繰り返すのは飽くまで習いの範囲と理解しています。
 稽古とは、機に臨んで同様な状況であれば事理一致で、頭で動作を思い出し手足に伝達する様な事では無く、自然に体が其の機に応じる迄稽古する事としています。
 さらに「工夫」とは、同じ条件でもより早く確実に応じられる身体操作の工夫を凝らします。ですから工夫からが本当の修練と考えています。其の上工夫では、相手の打ち込む角度や速さによっては足捌き体裁き運剣など仮想敵相手に繰り返します。
 ですから「習い・稽古・工夫」の三磨(摩)之位は夫々の間がぶつぶつ切れて、習った見本通りに出来るようになったから次に稽古に入る、稽古充分となって初めて工夫するなどの事では無く、時には習い工夫稽古も辞さないのです。場合によっては業を工夫したら他の形の業となっていたなど当たり前と思っています。
 


 

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道歌5柳生石舟斎兵法百首」カテゴリの記事

コメント

ありがとうございます。

その後調べてみると、二個目の歌は、宮本武蔵?石舟斎?作の
”切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 一足踏み込め そこは極楽”
でした。
懐に入りこめばどうとでもなるということですね。
武道だけでなく、一般社会で新しいことを始める際の心構えにもなるかと思います。


貴重な情報、大変たすかります。
引き続き、ブログ楽しませていただきます!

投稿: あつし | 2020年6月 8日 (月) 09時54分

あつしさま
コメントありがとうございます。
お尋ねのお師匠様の歌の一部に相当する歌は石舟斎の兵法百首には見当たりません。
余り業技法に相当する歌は石舟斎は読まれていない様です。
参考にした石舟斎の兵法百首は竹田七郎へ柳生宗厳が慶長6年1601年に授与したもので宝山寺蔵による原文写真に依ります。
全編写し撮りしたものと、今村嘉雄氏の史料柳生新陰流下巻掲載の兵法百首の二つを読んでいます。
読みと解釈は総て今ある実力の範囲で、・・ミツヒラ 思いつくままに・・によります。
  ミツヒラこと松原昭夫

投稿: ミツヒラ | 2020年6月 6日 (土) 10時26分

私も柳生の剣を学んでおります。
兵法百首は常々読みたいと思っておりましたが、資料が高価で手が出せないでおりました。
解説いただいてとてもありがたいです。

私の師匠がぽろっとよんだ
-池に移った月を斬る
-懐に入れば極楽
みたいな歌があるのですが、これも百首に入っているのでしょうか?

投稿: あつし | 2020年6月 5日 (金) 22時13分

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