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2020年7月11日 (土)

道歌5柳生石舟斎宗厳兵法百首5の87旅にして勝とばかりの兵法は

道歌
5、柳生石舟斎宗厳兵法百首
5の87旅にして勝とばかりの兵法は

兵法百首
多ひ尓して勝と計能兵法は
      い川連も地うちと多ん成介り

たびにして勝と計りの兵法は
      いづれも地うちとたん成けり

旅にして勝つとばかりの兵法は
      何れもちうちとたんなりけり

 旅に出て、何時でも何処でも勝てるとばかりに思う兵法は、その場では何れも間違った打込みで、その時の愚かなはずみに過ぎないよ。

 「ばかり」とは、「計る」数量を計る。物事を推し考える、考える・分別する・推しはかる・予測する。
 「ちうち」とは、「ち」は地の文字ですが「智・知」か「痴」でしょうが此処は「痴」として、おろかなこと・おろか・無知・正しい認識の欠如。
 「とたん」とは、ちょうどその時・はずみ・ひょうし。 

 この歌の歌心が何となくわかる様で、解らない。上の句は兎も角下の句の「何れもちうちとたん」をどの様に読むのか解りません。心の赴くままに石舟斎の思いはここかなと、精一杯読み解いてみました。旅に出なくとも、お前の腕ではそんな処か、と云われそうです。
 此処まで87首読んで来ているわけで、こんな事を云いたかったのだろうか、あんな事かも知れないと思う次第です。新陰流に少しは入りこめて来たような。突き放されそうな。

 あまり考えずに、これでもいい感じです。「旅に出て我が新陰流は何処でも勝てると思っていても、何れも地面を打ったり、覚束なくトタントタンと棒振りしているばかりだ。」
 是ではいくら「ミツヒラ 思いつくままに」でも酷いかな。
 作家の村山知義氏は「無刀の伝」の中で「宗厳も当時の兵法家の常として、文字のたしなみなく、この「兵法百首」は歌になっていないものが大半だが、いま私がいかに首をひねって考えて見ても、意味のつかめないものがたくさんあるのには困ってしまう。」と書かれています。ついでに「これを宗厳より35歳年長で、元亀2年1571年に死んだ塚原卜伝の「卜伝遺訓抄ー卜伝百首」とくらべて見ると、少なくとも卜伝のは意味のつかめないものはない。しかも卜伝のは遥かに実戦的、実用的であり・・」とされています。
 此処まで言われたら卜伝百首も読まないわけにいきません。この石舟斎兵法百首の後にこの7月27日から「卜伝百首」に取り組みます。

   

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