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2020年8月

2020年8月31日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の31菱巻に巻たる柄

道歌
6、塚原卜伝百首
6の31菱巻に巻たる柄

菱巻に巻たる柄は手の内の
      悪しきものぞとかねてしるべし

 菱巻に巻いた柄は手の内がしっくりこないので、良くないと予め知っておくべきである。

 「兼ねて知べし」と兼の文字を使っていますがここは「予て」で、何かと兼ねるでは無く、あらかじめの「予」でしょう。

 卜伝の実戦より身に付けた経験値は、柄巻の糸で巻いた柄を濡れたら乾きにくいと否定し革巻きを主張し、更にその革巻きに依る菱巻は手の内がしっくりこないと否定しています。
 卜伝の云う菱巻とはどの様な巻き方であったか資料が無くわかりません。しかし現存する刀の拵えから見れば、殆んどが菱形に鮫革が覗ける巻き方になっています。其の菱巻の巻き方に、一工夫されて菱の交点の部分を工夫したひねり巻きだの何だのと名称がつけられています。
 

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2020年8月30日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の30柄はただ革にまされる物は無し

道歌
6、塚原卜伝百首
6の30柄はただ革にまされる物は無し

柄はただ革にまされる物は無し
      糸にて巻くは濡れて乾かず

 柄巻はもっぱら革に勝れるものは無い、糸で巻いてあるものは濡れるとなかなか乾かない。

 革巻きの柄の方がいいと云うのですが、その理由は糸巻きでは濡れるとなかなか乾かないからだと云います。
 革巻きに巻き替えた刀を持って居合の稽古を始めた時、藁切りの集団に参加している古参の者が、「革巻きだと夏は汗で滑って良くない、木綿巻きがいいよ」と訳知り顔に言い寄ってきます。特に稽古で夏でも汗をかいて手の内が滑った事も無く、不便を感じたことは有りません。
 木綿にしても絹にしても、汗をかくほどの事は無いので変わりは有りません。汗っかきは冬でも汗をかいていますからそれも一理あるでしょう。
 鹿の裏革で巻いた柄などは、使用経過によってさらにしっくりして来て手に馴染みます。絹は堅い感じがしてなじみ感が木綿より無いので飾っておくには良さそうです。木綿は稽古し過ぎで擦り切れてみじめです。
 
 さて、卜伝の推奨する革巻きの効能が、濡れても糸巻きは中々乾かないと云う事ですが、濡れた柄は程よい湿りならばしっくりくるでしょうが雨中の場合は滑るのでしょうか。実験して見ればいいようなものですが、後始末が厄介ですから、其の気にはなりません。卜伝の体験からの言葉でしょうから、「そんなものか」という事にしておきます。
 卜伝の時代は太刀から打刀への変遷などの、戦闘方法の変化が進んだ時代でした。一騎当千の強者の時代から、歩兵による白兵戦に於いては華美なものでは無く素朴で実用性に富んだ刀装具が好まれたでしょう。その反面実用面から非実用性の部分を削り取って行くと芸術性が高まったのではないかとも思います。武器としての日本刀の頂点にあった時期かもしれません。
  
      

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2020年8月29日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の29よき鮫の裏をば

道歌
6、塚原卜伝百首
6の29よき鮫の裏をば

よき鮫の裏をばさのみとらずして
       巻きたる柄に強くこたゆる

 よい鮫革の裏をさほど取らずに巻いたので、柄に強く影響している。

 鮫とは、此処では鮫革の略。鮫の皮(実は南方産のアカエイの近似種の皮)を乾かし製したもの。近世、輸入され、刀剣の柄又は鞘に用いた。さめ。
 さのみとは、そのようにむやみに。そうばかり。さほど、別段に。広辞苑より

 鮫革の表は乾いて硬くなったものは、ワサビの磨りおろしに使われる程、細かく硬い粒々があります。裏は特に取り去る程の凹凸など無いでしょうが大変堅いですから綺麗に慣らしておかないと柄に巻いてから凸凹したりすることは有るでしょう。
 卜伝百首はその様な柄の制作過程での巧拙を歌っているとも思えないのですが、理解できません。
 「よき鮫の」の歌い出しの「鮫」の文字は、祐持の書写した卜伝百首では「鞕(こう)」の様で文字不明です。他のものは現代風に改められ「鮫」とされていますのでそれをここでは採用して見ました。
 「裏をばさのみとらずして」の鮫革の裏から何を取るのか解りません。アカエイから剥いで日干しにされた革は非常に硬く裏側も硬く平滑ですから特に思い当るものが有りません。卜伝の時代には凹凸の激しいものが有ったのか鮫とは言え輸入ものでは無く、国産の劣悪品だったかもしれません。
 「柄に強くこたゆる」何が柄に影響し、それが斬撃の際に悪影響をもたらす原因なのかサッパリです。この時代でも柄木に鮫革を巻き柄糸を巻いていたでしょうから、現代の居合に使用している日本刀の状況から考えを巡らせても浮かぶものは見えて来ません。
 卜伝百首の歌の中で意味不明の歌としてしまうには、わが拙さの方が先行してしまいます。納得できるご教授頂ければ幸いです。
 ちなみに鮫革の事であれば、自分で朴木を削り、鮫革を巻き、牛の表革、鹿の裏革なども柄巻して本身の柄を拵えて居合に使用しています。
 



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2020年8月28日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の28柄鞘の太きを好む

道歌長い
6、塚原卜伝百首
6の28柄(鞆 とも)鞘の太きを好む

柄鞘の太きを好む人はただ
      まだもの慣れぬ故と知るべし

 柄や鞘の太いものを好む人は、単にまだ、太刀を持つ事に物馴れない為であると知るべきである。

 柄とは、刀剣などの、手で握るところ。筆の軸。欛(つか)
 祐持写しのこの歌の柄の文字に鞆の文字が使用されています。原本が有りませんから不明、誤字と見ておきます。
 鞆(とも)とは、弓を射る時に、左手首内側につけ、弦が釧(くしろ)などに触れるのを防ぐまるい革製の具。平安以後は武官の謝礼用の形式的弓具となった。
 釧(くしろ)とは、装身具の腕輪の一。臂にまいて飾りとした輪。多く小玉、小鈴をつけた。ひじまき。

 この歌心は、武器の何たるか、どの様に持ち、どの様に使い、それによってどの様な結果が出るかを知らない人に対する戒めでしょう。
 武器になれていない為に、太く丈夫そうなのを良いと思ってしまうのは、当然かもしれません。
 鞘など太いものは、握るにも力が入りにくい、重く、腰への当たりもあって長い行軍には不向きでしょう。鞘も柄も太すぎればしっかり握れないなど、自分の身に余る事の度合いが未経験の為物馴れない選択行為だと云うのでしょう。
 身に余るも足らぬもあらゆる習い事で進歩を妨げ不必要な力を出させられてしまいます。

 

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2020年8月27日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の27柄はたゞ細く長き

道歌
6、塚原卜伝百首
6の27柄はたゞ細く長き

柄はたゞ細く長きを好むとも
      さのみ長きはまた嫌うなり

 柄は、たゞ細くて長いものを好むとしても、そのようにむやみと長いのは宜しくない。

 北条五代記巻第四「関東長柄刀の事付かぎ鑓の事」(関東資料研究会発行より)
 「見しは昔。関東北條氏直時代(小田原北条五代天正18年1590年秀吉により落城す)まで。長柄刀とて人毎に。刀の柄をながくこしらへ。うでぬきをうて。つかにて人をきるべき躰たらくをなせる。・・人聞きて其むかしの長柄刀。當世さすひとあらば。目はなのさきにさしつかへ見くるしくも。おかしくも。あらめとわらひ給ふ所に。昔関東にてわかき輩。みな長柄刀をさしたりし。老士の有りけるが。此よしを聞。耳にやかゝりけん。申されけるは。いかにや若きかた〵。さのみむかしをわらひ給ひぞ。古今となれ共。其心ざしは。おなじ得のみ有りて。失なく。失のみ有りて。得なき事有るべからずと。先賢の作れる。内外の文にも見えたり。それ人をそしりては。我身の失をかへり見る。是人を鏡とすと云々。・・
 さて又長柄刀のはじまる仔細は。明神老翁に現じ(弘治2年1556年)。長柄の益を林崎かん介勝吉(林崎甚助重信の誤認でしょう。天文11年1542年生まれ~元和3年1617年奥州へ旅立ち再び帰らず(武芸太白伝より))と云ふ人に伝へ給ふゆへに。かつよし長柄刀をさしはじめ田宮平兵衛成政といふ者に。是を伝ふる。成政長柄刀をさし諸国兵法修行し。柄に八寸の徳。みこしにさんぢうの利。其外神妙秘術を伝へしより以後。長柄刀を皆人さし給へり。
 然に成政が兵法第一の神秘奥義といつは。手に叶ひなば。いか程も長きを用ひべし。勝事一寸にして伝たり。其上文選に。末大なればかならず折れ。尾大なればうごかしがたしと云々、若又かたき長きを用るときんば。大敵をばあざむき。小敵をば。おそれよと云をきし。光武のいさめを。用ゆべしと云りむかしの武士も。長きに益有るにや。太刀をはき給へり。長刀(なぎなた)は古今用ひ来れり。
 扨長柄の益といつは。太刀はみじかし。長刀は長過たりとて。是中を取たる益なり。又刀太刀長刀を略して。一腰につゝめ。常にさしたるに徳あるべしそれ関東の長柄刀。めはなのさきのさし合は。すこしき失なり。敵をほろぼし我命を助けんは。大益なるべし」

 卜伝の没したのが元亀2年1571年第三回の廻国修行を終えて国へ戻り82歳で没しています。
 卜伝70歳ごろに長柄刀が関東では流行ったのでしょう。柄が一寸長ければその分有利と説く、長刀(薙刀・大太刀・長巻・自在剣)など柄は長い、それらと太刀を合わせて長柄刀にしたと云う訳でしょう。
 卜伝は、長すぎるべきではないと云って、完全に否定しているわけでもない様です。
 戦国時代の戦闘方法の変化とそれに合わせた武器の変遷は、現代から俯瞰するとめまぐるしい様に見えますが、現代でも同様でもっと殺傷力の高いものまでもっと速い速度で進化していると云えるでしょう。

 既製品の模擬刀の柄は25.5cm~26.5cm位でしょう。剣道形の木刀寸法に準じている様です。

 

 

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2020年8月26日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の26新鍔は如何に厚くと

道歌
6、塚原卜伝百首
6のの26新鍔は如何に厚くと

新鍔は如何に厚くと切れぬべし
     たとえ薄しと古き好めり

 新しい鍔はどんなに厚くとも切れはしない、譬え薄くとも古い鍔が好みである。

 卜伝の時代は室町時代(応永元年1394年~文禄4年1595年)の200年間、其の内卜伝は延徳元年1489年生れ~元亀2年1571年死没82年間ですから室町時代中期から末期を生きたと云えます。応仁の乱から始まる戦国時代の群雄割拠の中を兵法者として生きたと云えるでしょう。日本国の統一が為される前にこの世を去ったと云えます。

 そんな中で、戦闘に明け暮れていた時代の新鍔よりも南北朝時代その前の鎌倉時代の鍔の方が好ましいと云うのでしょう。
 太刀は鎌倉時代のものに名刀と云われる物が目立つとか、鍔も、鎌倉時代に続く南北朝時代は太刀の鍔として小ぶりであったらしい。
 室町初期には薄く大きいものが使用されていたらしいが、中期に入る頃から白兵戦向きに厚く小ぶりに変わっていったと云われます。鍛えられた鉄地に花などの形を透かし彫りした簡素ながらホッとするようなデザインが甲冑師や刀匠師の手によってつくられています。室町末期には複雑な図柄の透かし鍔も作られ次の時代に引き継がれています。

 卜伝の「たとえ薄しと古き好めり」とは何時頃の誰が作ったどんな柄であったのか、手元資料からはうかがい知ることは出来ません。鍔は刀の調子を自分に合うように整え、その図柄によって心を潤す日本人らしいものであったでしょう。この歌は卜伝の趣味嗜好を歌っているばかりと思うのも寂しい。
 然し、其の人の力量に大きく影響されるもの、或いは其の流の業技法に何としても必要なものに依るとも思います。良し悪しは自分で限りなく求めていく以外に無さそうです。
 歌い出しの「新鍔は如何に厚くと切れぬべし」は当然の事ですが、鍔には刃があるわけでは無いので切れる訳は無い、太刀、刀を打ち込むには切先バランス、手元バランスによる良し悪しを言われるのですが、そのバランス調整には鍔は大いに有効でしょう。

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2020年8月25日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の25鍔はたゞ切り抜きあるを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の25鍔はたゞ切り抜きあるを

鍔はたゞ切り抜きあるを好べし
      厚く無紋を深く嫌へり

 鍔は、ただ紋様の切り抜きのあるものを好むべきで、ただ厚いだけで何も紋様の無いものは使う気はしない。

 「鍔はたゞ切り抜きある」の捉え方ですが、円形か楕円の鉄板に茎の穴を開けただけの鍔では無く、何かの紋様をくりぬいた透かしのある鍔をいうのでしょう。
 鍔の役割に、拳の楯であること、刀と使い手のバランス調整、打撃の用など実用面ばかりではなく、鍔自体にその人をふつふつと匂わせる芸術性も持ち合わせて、自分も周囲も心を和ませたり静める役割も忘れられません。

 鍔の制作者は、甲冑師、刀匠師、鏡師、太刀金具師、鍔専門も居たでしょう。
 武芸者の選ぶ鍔について、元東京国立博物館刀剣室長加島進氏、日本相撲協会医師で愛刀家の林盈六氏、松永木材会社社長愛鍔家による「日本のデザイン鍔の美」里文出版に纏められていますので引用させていただきます。ご了解ください。
「本当にいい鍔とはどういうものかを論ずるに当たって、生命をかけ、修羅場を何回もくぐり抜けて来た先人達の鍔に関する説に耳を傾けるのも必要なことと思う。
①地金・・鉄の鍛錬良好なものならば新古は不問
②大キサ・・径三寸内外(実際問題として二寸八分より三寸一、二分迄か)
③厚味・・薄手一分二、三厘、あまり高くない土手耳を可とす
④形・・長円形、木瓜以下随意(ただし、割込木瓜、碗形その他異形は不可)
⑤装飾・・小透し、地透し、腐らかし程度の肉彫、据紋、平象嵌、布目象嵌、滅金(めっき)、無地打込を可とす。生彫、高彫据紋、生透し、繋の小さな大透しは不可。」

 大きさについて「鍔の美」で云う処の3寸2分で97mmに成ります。2尺3、4寸の刀にはかなり大きめです。3尺程の太刀の鍔としては見た目のバランス的には良いのかも知れません。
 ちなみに市販の居合刀に装着されているのが72~78mm程度、剣道の竹刀の鍔は76㎜、軍刀は縦70㎜横56mm。

 

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2020年8月24日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の24皆人の知らでや恥をかきぬらん

道歌
6、塚原卜伝百首
6の24皆人の知らでや恥をかきぬらん

皆人の知らでや恥をかきぬらん
      鍔の詰めある習いありとは

 ここにいる皆の知らないからといって恥をかくなよ、鍔競り合いの習いがあることを。

皆人とは、すべての人。
「鍔の詰め」とは、鍔競り合いと読んでおきましたが、鍔そのものを以て詰めてゆく業があったのかも知れません。

 新陰流は受け太刀にならずに、往なすとかあたり拍子に転じるもの、合し打ちのような相手の打込みを切り落として勝などの兵法としては完成された術が示されています。
 鍔そのものを拳の楯のように保護的に使うのではなく積極的に使う術は知りません。
 現在の竹刀剣道などを見ていて、鍔迫り合いが見られますが、鍔を積極的に使用した詰めは見られません。

 無双直伝英信流居合兵法の古伝無双神傳英信流居合兵法の太刀打之事7本目独妙剣に鍔競り合いからの応じ方が示されています。
「相懸り也打太刀高山遣方切先を下げ前に構へ行く場合にて上へ冠り互に打ち合う、尤も打太刀をつく心持有、柄を面へ返し突き込み勝」
 このままでは読み取れない方もおられるでしょう。
 打太刀上段に構え待つ所へ、仕太刀下段に構え間境で上段に振り冠り打太刀の真向に斬り下ろす、打太刀同時に仕太刀の真向に斬り下ろす。此処は新陰流の合し打ち、一刀流の切り落としです。勝負はついてしまう処ですが、相打若しくは、双方の中間で刀を合わす、または摺り上げる様にして鍔で請け、一歩踏み込み鍔競り合いに持ち込み、仕太刀は打太刀の面に柄頭で打ち突く心持ちで、体を沈めて打太刀の小手下より柄頭を返すや打太刀の面へ柄当てする」
 この組太刀は古伝に残るもので現在では眼関落の業名で無双直伝英信流居合の形に残されています。
  いま一つは無双神傳英信流居合兵法の大小詰・大小立詰に残されたもので柄留・鍔打返の業に「相懸りに懸り我が刀を抜かんとする其の手を留められたる時、柄を放し手を打ちもぐ也」
 これは、我が刀を抜こうと、左手を鍔に掛け右手を柄に掛けて抜き付けようとする時、相手は我が柄手の右手を押さえて来る、我は右手を柄から放し、左手を以て相手の右手を上から鍔を以って打ち据える。
 現在ではこれらを演じる人も少ないのですが、特段の技術を要するものでは無く、戦いの際に起こり得る状況に応じる自然な動作とも云えるでしょう。
 卜伝から直に「鍔の詰め」を聞いて見たいものです。

 これらの応じ方が始祖林崎甚助重信から伝わったものか否かは不明ですが、そうであれば林崎甚助重信は塚原卜伝や上泉伊勢守信綱の戦国末期を生きた兵法者です。足軽による白兵戦では、兵法の形に準ずる打ち合いなど期待する方がおかしいもので、実戦で身に付けたそれぞれの得意技をもって戦ったと思います。


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2020年8月23日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の23鍔はたゞ太きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の23鍔はたゞ太き

鍔はたゞ太きに若くは無きものを
      細きを好む人ぞ拙き
別伝
太刀はたゞ太きに若くは無きものを
      細きを好む人ぞ拙き

 鍔はたゞ太いものが良いのに、細いものを好むのは兵法に拙い人である。

 別伝
 太刀はたゞ太いものが良いのに、細いものを好むのは兵法に拙い人である。

 歌い出しが「鍔」と別伝では「太刀」となっています。どちらが卜伝の原本なのか解りません。
 兵法に拙い為に鍔であろうと太刀であろうと「太きに若くは無き」の効用が理解できません。お前なんかに判る訳はない、卜伝が歌う程なのだからきっと明瞭な意味がある、と解った様な事を云うのも情けないことです。世の中にはそんな似非師匠が多いですね。
 居合いの始祖と言われる林崎甚助重信の一番弟子田宮平兵衛業政による無双直伝英信流の兵法の和歌に「鍔はたゞ拳の楯と聞くものを太くもふとく無きはひがごと」という歌があります。このくらいの事で良いのではと、思います。
 真向に打込まれた相手の刀を我も真向に応じて鍔で受ける、下段から摺り上げて鍔で受ける。ないとは言えないが情けないのは、突き込んだ際鍔が無い為右手が滑って刃で指を切る、鍔が有れば防げるとか。大きく重い鍔を付けて真向に打込むと斬撃力が高まりより両断出来る、など鍔の使い方は工夫して見れば幾つも有る様ですが、鍔も決して安くはありません。武具選びは余裕のある方にお任せしておきます。
 林崎甚助重信の生きた時代は天文11年1542年~元和3年1617年(特定できず))の頃でした。
 戦闘では太刀から打刀に変わりつつある時、さらに鉄砲伝来は天文12年1543年のこと、林崎甚助重信2歳の頃と成ります。

 別伝の「太刀はたゞ太きに若くは無きものを」は、後世の人が写し間違いをしたとも思えるのですが、全く利が無いとも言えません。
 歩兵による利便性は以前の太刀より短く軽いものが好まれたはずです。しかし室町時代末期の背景から片手打ちの初期の打刀から、重ねの厚い寸伸びで両手で操作する打刀に変わって来ています。

 「鍔はたゞ太きに若くは無きものを」は無双直伝英信流に伝わる兵法の和歌のこの歌は卜伝百首からの盗用かも知れませんが証拠は有りません。無双直伝英信流として成立した時代は江戸前期末でしょうから卜伝百首は伝え聴いていても不思議ではないと云えます。
 
 兵法の極意に達していない、寄せ集めの雑兵による白兵戦では切り合いの際、鍔によって小手を切られる処を守られたとも云えるでしょう。
 小さい鍔より大きい鍔の方が拳を守ったとも言えない事も無さそうです。

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2020年8月22日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の22今の世は太刀は廃ると

道歌
6、塚原卜伝百首
6の22今の世は太刀は廃ると

今の世は太刀は廃ると云いながら
      刀も同じ心なるべし

 今の世は使い勝手の良い打刀に太刀が廃ると云われているが、刀も何れ同じような事になるだろう。

 卜伝の生きた時代は室町時代中期(応仁元年1465年~天文23年1554年)から末期(弘治元年から文禄4年1595年)の戦国時代そのものを生きた(延徳元年1489年~元亀2年1571年)兵法者云えます。

 室町時代の初期(応永元年1394年~文正元年1466年)南北朝時代には、中間距離に有利な槍が戦闘に使われ歩兵の騎兵に対する攻撃力が増大した、騎馬戦から集団戦に変わって行った。
 切る為の太刀から突く槍、薙ぎ払う薙刀、三尺を越える大太刀が出現する。騎兵より歩兵集団への変化が従来は太刀の指副えであった打刀が徒歩には便利な為変化して来た。 
 この戦国時代の中期の戦闘方法は、徒歩戦が主力にかわり甲冑も攻撃性を高めた腹巻、刀も2尺2寸前後の片手打ちの刀が流行る。中間距離の闘争では槍が威力を発揮し騎馬に対しても徒歩戦に於いても有力であった。
 この期の終わり天文12年1543年にポルトガル人によって鉄砲が伝来し更に室町時代後期の戦闘方法や武器の変化も興っている。
 織田信長が鉄砲隊を三列銃隊に編成し武田の騎馬隊を壊滅させたのは長篠の戦いで天正元年1573年、卜伝の死後2年後のことであった。 
 鉄砲の使用によって陣頭に立って働いた武将や騎兵の役割は無力化し、鉄砲隊を主力とした歩兵の集団戦が主力と成り、甲冑も隙間の無い一枚の鉄板で出来たものが現れている。刀も片手打から寸法の伸びた重ねの厚い両手で使うものに変化した。(得能一男著日本刀辞典を参考とする)

 現存する刀の出来た時代と、戦記物に書き記されている戦闘方法の変化を合わせて歴史を見直してみるのも面白いものです。武田の騎馬隊が長篠の戦いで総崩れになった話は、戦記物の過剰表現とする人に出合いましたが、鉄砲を充分用意してその欠点を補う戦略は、楽市楽座を含め充分な資金力を手に入れる工夫を施し、従来からの戦法から抜け出れなかった武田軍を壊滅させるに十分だったでしょう。
 武田の騎馬隊についても日本の馬は小型で騎馬戦に不向きと言っていますが、この卜伝百首には武士の載る馬についての歌もあり、日本の馬は現存する天然記念物の馬よりも大きく、改良の為に海外からの輸入馬も多々あった様です。

 現在から過去を透かし見るのではなく、過去の遺物から過去をハッキリ見捉えた上で、語る姿勢が欲しいものです。卜伝百首のこの歌も、現在の打刀もいずれ廃れると歌っています。
 その心は太刀へのノスタルジアであったとすれば、其処には、乱れた天下を我が手にというよりも、兵法者として誇り高き自己実現の方が強かったと思えます。
 卜伝より遅れて生まれた上泉伊勢守信綱(永正5年1508年~天正5年1578年以降不明)は長篠の戦いを知り、兵法のあるべき姿を伝え残した新陰流を興し、その兵法を歌う柳生石舟斎の兵法百首とは、卜伝百首はまた一味違います。是も時代の変化によると云えるのでしょう。

 
 


    

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2020年8月21日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の21打籠を打ちて響きの悪しき太刀

道歌
6、塚原卜伝百首
6の21打籠を打ちて響きの悪しき太刀

打籠を打ちて響きの悪しき太刀
      帯ぬは武士の習いなりけり

 打込みをして響きの良くない太刀は佩かないのが武士の習いである。

 書き出しの「打籠」とはこのまま読めば「うちかご」試切りの為に斬りつける籠かとも思えるのですが、そんな打ち籠がこの時代に在ったのでしょうか、籠は木や蔓、竹或いはヨシや茅、稲などのしなりは有っても堅い材料で編まれている筈ですから、其れに向かって試切りすれば刃を痛めてしまいます。
 この使われ方は、打籠は打込みの当て字というより「うちこみ」と読みます。意味は、中に入れて出さないようにする、押し込める、閉じ込める。この音を「打ち込み」の言葉にあてたのでしょう。
 刀は上段に振り冠って打ち下ろしますと、「ヒュッ」という刃鳴りがします。その際の音が鈍かったり甲高かったり、或いは音もしない、そんな事を歌っているのでしょう。
 打込みが巧みであれば、木刀でも棒でも鋭い風切り音はするものです。錬磨を重ねた武士による打込みで響きが悪いものは、その人の手に余るもの、或いは調子が合わないもの、刀刃に問題があるものなどでしょう。
 
 何年か前のことですが、居合の七段位になった、藁切りの好きな人が、新たに真剣を買い求めたのです。刃鳴りが小さいと云ってすでに鎬に樋は彫ってあるのに、更に深く彫り直させています。刀はその分軽くなり風切り音も「ぴゅー」と甲高く鳴っています。
 「違うよ」と云いたい処です。居合をやる人は樋のある刀を好み、音を立てて悦に入っていますが音に惑わされて誤った運剣をして居る可能性は否めません。
 刀は生きているとは言いませんが、あらゆる性格をもっているものです。あるレベルを越えなければ使いこなすことすらできないものです。

 軽くて樋のある模擬刀で稽古している現代居合人は、基礎になる体作りが疎かになっていて如何に華麗に特定の形を演じられて居ても武術とは言えないでしょう。

 この歌も読み誤れば、刃鳴りの気分だけで刀の良し悪しを判断するのだと歌っている様に誤解しそうです。それ以前にやるべき体作りは当時の武士には出来ていたと信じたい。
 
 

 

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2020年8月20日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の20勝ち負けは長き短き変わらねど

道歌
6、塚原卜伝百首
6の20勝ち負けは長き短き変わらねど

勝ち負けは長き短き変わらねど
      さのみ短き太刀な好みそ

勝ち負けの勝負では太刀が長い短いと云う事ではどちらが勝つかは特定できない、そうであっても短い太刀を好むものでは無い。

「さのみ」とは、そのようにむやみに、そうばかり。さほど、別段に。
「・・な・・そ」とは、どうか‥してくれるな、どうかしないでください。してくれるな、なさるな。

 勝ち負けの勝負は太刀の長さで有利だとか不利だとかは、どちらとも言い難い、長い方が間を取りやすいし、殺傷力も短いより有るようなので、短い太刀を別段に選択する必要などない、短いものも、打ち込む際より間を詰めれば良いのであって大きく踏込むとか有るでしょう。あえて短いものを選択する程の事でもないよ、扱いやすい長さの太刀を持つべきだろう。そんな、歌心の様に思えます。

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2020年8月19日 (水)

道歌塚6原卜伝百首6の19切れるとて新身の太刀を帯びる人

道歌
6、塚原卜伝百首
6の19切れるとて新身の太刀を帯びる人

切れるとて新身の太刀を帯びる人
      必ず不覚あると知るべし

 良く切れると云う事で新しく打たれた太刀を帯びる人は、必ず不覚を取ると知るべきものである。

 「新身の太刀」とは、新しく打たれた太刀。
 「帯人は」とは、帯びる、帯する、佩く。

 この歌も、卜伝の実戦によって身に付けた経験値から出た歌かも知れません。「新身の太刀」の「新身」をどの様に解釈するかなのですが、戦いに使われた事の無い太刀、よりも下ろしたての太刀のように切れても、折れず曲らず刃こぼれしない実戦から評価できる太刀ならば安心して佩くことは出来ても、実戦で使われていない、其れも打たれて間がないものは信頼できないと云うのでしょう。
 その上、戦国時代には太刀の需要が著しく高くなって、粗製乱造の太刀も出回っていたのかも知れません。
 先祖伝来の太刀で戦場を駈け廻って来た、誉疵のあるものが良いとも言えそうには有りません。「新身の太刀」の意味を取り違えているかもしれません。焼き刃が固く据物切では見事に両断できても、打ち合えば忽ち刃こぼれして鋸刃の様になってしまう。それを研ぎ直したものを使用すべきだ、など頭だけクルクル働かしています。

 
 

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2020年8月18日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の18反りの無き太刀をば嫌う

道歌
6、塚原卜伝百首
6の18反りの無き太刀をば嫌う

反りの無き太刀をば嫌うべし
      切る手の内の廻る故なり

 反りの無い太刀は良くない、斬りつけると手の内で太刀が廻ってしまう。

 この歌の「反りの無き太刀」の古文書解読で「鮫の無き太刀」というのが手元に有るのですが、書き出しの「反」と「鮫」の判読間違いでしょう。
 「鮫の無き太刀をば嫌うべし手の内の廻る故也」で解釈出来ない事も無いでしょうが、手の内で握るのは柄ですから、柄糸の下の鮫革が無ければ柄糸が柄の木を滑る事は有り得そうです。鮫革を柄木に張っていない、柄糸も巻いてない柄は奈良か平安時代にはありそうですが手の内が廻るとも思えません。
 此処は反りの無い直刀を云うのでしょう。直刀は叩きつけた瞬間に防具に阻まれれば、反動で角度が変わるかもしれません。そこへ行くと反りのある太刀は反りに沿って食い込んで行く引き切れるとでもいうのでしょう。
 塚原卜伝の実戦経験から身に付いた教えでしょうからそんなものかも知れないと素直に受け止めてみました。
 そんなことを知ってか知らずか、江戸時代前期に直刀がはやったとか、維新前の志士たちの中にも長い直刀がはやったように刀剣書籍に記されてもいます。直刀の良さは突きにある様です。

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2020年8月17日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の17太刀の寸臍に比べて

道歌
6、塚原卜伝百首
6の17太刀の寸臍に比べて

太刀の寸臍(ほぞ)に比べて指しぬべし
         我が身の丈に合わぬ嫌へり

 太刀の長さは、切先を床に付けて鍔が臍の高さを越えてはならない、自分の身の丈に余る太刀を持つものではない。

 太刀ですからこの長さで良いのかも知れませんが、凡そ刃渡り3尺位の太刀になりそうです。この時代特に決められた太刀の長さがあった訳でもないので、長巻と云って刃渡り3尺柄も3尺のもの、大太刀といって刃渡り4尺から5尺に余るものなども戦場では使われた事もあったように書かれているものもあります。
 腕力に任せ刃の着いた長い鉄の棒を振り回している様なもので剣術と云えるものかどうか疑問でもあります。卜伝の剣術が太刀を佩いた状況からどの様に操作されたのか、その片鱗は古流剣術に残っているかもしれません。
 然し太刀の長さを「臍に比べて」という長さを要した運剣は新陰流に伝わる大太刀による燕飛や静流自在剣に垣間見れるのかも知れません。この歌の歌心は卜伝の剣術を知らない私には何にも聞こえてこないのは仕方のない事です。

 塚原卜伝の生きた延徳元年1489年~元亀2年1571年は下克上と戦国乱世真っただ中であり、刀も太刀から打刀への時代、薙刀から鑓への時代と移り行く時、卜伝54歳の時には種子島へ鉄砲が伝わった時代でした。

 現代では、居合をやる人が真剣を持っていたりしていますが、戦国時代末期に始まった居合で、太刀による居合だったでしょう。江戸期に打刀による居合に改変された技を研鑽しています。
 その寸法は現代刀を特注すれば別ですが、先祖伝来の刀か市販されている古刀・新刀・新々刀・現代刀を使用していますので、短すぎ或いは軽すぎ、或いは長すぎ重すぎなどを使いこなしている様です。反りも浅いの深いの、調子も手元調子ばかりではありません。 
 江戸時代初期に刀の刃渡りの長さに制限を設け、寛文10年には太刀は2尺8寸9分を以て限りとし、大脇差は長さ1尺8寸を以て限りとしています。更に刀は2尺3寸、脇差は1尺5寸などという定寸が決められたようです。

 現在は、アルミか亜鉛のダイキャストによる模擬刀が安価で本身と同じような拵も出来て、登録不要ですから容易に手に入るようになってきています。
 初心者は模擬刀から習い始めその刀身の寸法は大方販売者の進める寸法になっています。
  
  市販されている模擬刀の身長に対する長さを参考までに見てみます。主として無双直伝英信流、夢想神伝流などの居合を稽古する人を目安にしている様ですから流派によって前後が有るかもしれません。
身長140~145cm 2尺1寸~2尺1寸5分
  145~150   2尺1寸5分~2尺2寸
  155~160   2尺2寸5分~2尺3寸
  160~165   2尺3寸~2尺3寸5分
  165~170   2尺3寸5分~2尺4寸
  170~175   2尺4寸~2尺5寸
  175~180   2尺5寸~2尺6寸
  180~185   2尺6寸~2尺7寸
  185~190   2尺7寸~2尺8寸
 江戸時代に定寸が定められ、それ以上の太刀や打刀が摺上げられてしまいましたから、古刀や新刀で望んでも3尺に近い本身は現代刀として打ってもらわなければ簡単には手に入らないでしょう。
 
 

 

          

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2020年8月16日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の16三寸に足らぬ馬

道歌
6、塚原卜伝百首
6の16三寸に足らぬ馬

三寸に足らぬ馬をば昔より
      軍の場には嫌うなりけり

 四尺三寸(130cm)に足らない馬は昔より軍の場(庭)には嫌うものである。

 「三寸に足らぬ」をどの様に解釈すべきですが、何処かに馬の体高の基準でもあればいいのですが見当たりません。現代の基準でポニーとされる馬は147cm(四尺8寸五分)以下です。「三寸足らぬ馬」を考えると、4尺三寸(130cm)か五尺三寸(160cm)と成ります。
 現在残って居る日本の在来種は八種ありますが其の内道産子、木曽駒、対馬馬が大きいもので135cmそこそこですから四尺五寸程で、他は120cm(4尺)足らずです。
 五尺を越える馬も居たとされますが、四尺以上を寸刻みで呼んでいた様なので四尺八寸を越える馬を「八寸(ヤキ)に余る馬」で大馬と認知していた様です。(ウイキペディアを参考に考察)
 「三寸足らぬ馬」は四尺三寸(130cm)に満たない馬という事で、軍場としては不適としたのでしょう。
 これらの馬の大きさについては当時の骨の発掘などからも推察されます。大方は平家物語や昔語りの書物からの引用ですから有名な大将の馬は過大評価されて居る事も有るでしょう。
 

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2020年8月15日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の15乗り下りとまた扱いの

道歌
6、塚原卜伝百首
6の15乗り下りとまた扱いの

 乗り下りとまた扱いの安きとて
        小馬を好む人は拙し

 乗り降りするのと、扱いが容易という事で、小さな馬を好む人は愚かである。

 拙しは、巧みでない。おろかである、劣っている。運が悪い、薄命である。(広辞苑より)
 この歌心を考えて見るのですが、乗り降りが容易で扱いやすいと云う事が「拙い」と一蹴されてしまう事の意味はどこにあるのでしょう。
 大きく逞しい馬は、乗り降りは厄介ですが、乗ってしまえば「名あるもののふ」として周囲を圧倒する風姿が得られて一目置かれるでしょう。
 見た目の偉丈夫は何かと手柄を立てる切っ掛けが得られるかもしれません。しかし、拙しと言われるには、組し易しと思われ忽ち敵に囲まれてしまう。馬の体力がなく直にへばってしまう。などあるのでしょう。

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2020年8月14日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の14癖有れど強き馬

道歌
6、塚原卜伝百首
6の14癖有れど強き馬

癖有れど強き馬こそよけれとて
      進まぬ癖の馬を乗るぞよ

 癖は有るけれどとにかく逞しく強い馬が良いだろうと手に入れたが、進めと指示しても膠着して動かない馬に乗ったのでは困ったものだ。

 馬の癖に「膠着」といい、「馬が物を見たり、異常に緊張して、動かなくなってしまった状態をいう。馬場に出た後、騎手の指示にもかかわらず動かなくなったり、ゲートが開いても発進しないケースがある。」JRAより。
 大きい、強い、逞しい、速いばかりでは、普段は問題なくとも、いざ戦闘開始という時周囲の歓声や雰囲気に「膠着」して動けないのでは機を逸してしまうわけでしょう。
 「癖有れど」歌い出しですから、馬の癖にある、グイッポ、咬癖、蹴癖、身つ食、その他の習癖は兎も角として、膠着したりあとびきでは困ったものです。
 
 


 

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2020年8月13日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の13馬はただ普通に強き肝ぞよき

道歌
6、塚原卜伝百首
6の13馬はただ普通に強き肝ぞよき

 馬はただ普通に強き肝ぞよき
      勝るゝ肝と無肝嫌へり
*
 馬はただ普通に強い「きも」であればいいので、「きも」が強すぎたり、弱々しいのは良くない。

 前回の馬の癖に紹介した、あとびき・グイッポ・膠着・咬癖・習癖・蹴癖・身っ食などが言われますが、ここでは「あとびき・膠着」などは特に戦闘では、いざという時後退りしたり、固まってしまったのでは役に立たないでしょう。
  
 肝とは、肝臓。内臓の総称、五臓六腑。精神、気力、胆力、きもだま。工夫、思案。肝・胆。広辞苑より。
 肝とは、きも、肝臓。勇気をたくわえるもととなる内臓。学研漢和大事典
 胆とは、きも、ずっしりとした勇気や決断力、きもったま。学研漢和大事典

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2020年8月12日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の12もののふの鎧の下に乗る馬

道歌
6、塚原卜伝百首
6の12もののふの鎧の下に乗る馬

もののふの鎧の下に乗る馬は
       癖ありとても強き好めり

 武士の鎧を着けて戦場で乗る馬では、癖が有っても強い馬が好まれる。

 馬の癖とはどんなものが有るのでしょう、その癖が有っても強い馬の方が良いと云います。


 戦国時時代の馬はどの程度の大きさだったかハッキリした答えは得られないけれど、武士が平均身長160cm程であれば体重60kg近辺、鎧が30kg、鞍は10kg以上はあるでしょう。それだけで100kg、更に戦闘用具が刀や薙刀、鑓、弓矢などあったでしょう。
 日本の在来種は小型な馬ばかりが天然記念物になって2000頭ほど大事にされています。其れだったなどと言われていますが、平安時代の馬にしても戦国時代にしてもモンゴル系の馬が使われていた様で、これ等と違ってモンゴル系の大型種が軍馬として使われていた様です。
 日本における馬の歴史は、5世紀ごろからで古墳から馬の骨や馬具が出土しています。
 奈良時代には伝馬や駅馬の制度なども出来、乗馬馬の牧場などもあった様です。大陸との交流から軍馬の導入などもあったと思われます。
 平安時代には競馬や騎射などが行われ、馬による武術の研鑽も盛んだったようです。平家物語にもある様に馬と一体になった話も伝わっています。馬の産地は関東以北に発展した様です。
 このころにはいい鎧を着た武士が馬に乗って騎射するなど盛んだったと思われます。
 鎌倉時代以降には、騎馬隊なども編成されて、馬術はますます盛んになって行ったのでしょう。一騎打から騎馬隊への変遷もあって当然馬は大きく力強いものが好まれたと思います。
 現存する天然記念物を頭に描くのは間違いでしょう。少なくとも体高140cm以上を要求されたと考えられます。それではなぜ天然記念物の馬が小さいのかの答えに、大きくて強い馬は軍馬や農耕や荷馬車などに持っていかれ劣った馬が残されたと解説されているものもあり、一概に嘘とも言えません。

 武田の騎馬軍団などは話だけの嘘などと云う人も居ますが、日本の歴史をたどり他国との交流を考えれば当然モンゴル系の馬もヨーロッパの馬も輸入されたでしょう。馬を使い慣れれば騎馬軍団なども編成する事は可能です。
 生き残るには時代の最先端を行く心づもりが無ければ、置き去りにされても仕方がないことで、歴史は語っています。

 馬の癖が今回の課題でした。JRAによる馬の癖を紹介しておきます。

あとびき:運動中あるいは馬をつなぐ時などに後退する癖。後退癖の俗称である。

グイッポ:馬の有害な癖の一つであるさく癖の俗称である。上歯を馬栓棒や壁板などにあて、それを支点にし、頭に力を入れ、空気を呑み込む癖をいう。退屈あるいは他馬のまねが原因であり、空気を呑み込むために風気疝(ふうきせん)になりやすい。軽度のうちは矯正できるが、習慣性となった場合は矯正は難しい。

膠着:馬がものを見たり、異常に緊張したりして、動かなくなってしまった状態をいう。馬場に出た後、騎手の指示にもかかわらず動かなくなったり、ゲートが開いても発進しないケースなどがある。

咬癖:人や他の馬をかむ癖。

習癖:馬の馬房内または運動時の忌むべき様々な癖の総称であり、略語で表されているものなど、調教や飼養管理面で矯正を行う必要がある。

蹴癖:人や他の馬を蹴る癖である。蹴癖馬は人馬に危険を及ぼすため、厩舎では目印として尾に赤い布をつけ危険防止に努めている。

身っ食い:馬が自分の体を噛む癖のこと。稀には馬体に傷が残る程激しいものもある。退屈、ストレスが原因である。


 

 

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2020年8月11日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の11武士の其の名を挙げる例えには

道歌
6、塚原卜伝百首
6の11武士の其の名を挙げる例えには

武士の其の名を挙げる例えには
       昔も今も馬をこそ言え 

 もののふの名を挙げるための例には、昔も今もその持ち馬を讃えるとも云える。

 良い馬に乗る武士は、馬の良し悪しで其の心得を推し測られるのは昔も今も変わらない。と歌います、前回が「もののふの実知るべきは馬なれや心懸けぬは愚かなるべし」でした。
 人馬一体に依る戦場往来は、馬共に凛々しく惚れ惚れとした気に敵味方ともさせられたのでしょう。
 戦国時代の逸話の一つに山内一豊の妻の故事にある様に、貧乏でも駿馬を欲しがる一豊に、実家から嫁入る際に「事有る時に」と持たされた大金を渡して手に入れさせた内助の功の話はほほえましい。
 平家物語では梶原源太影季のする墨と佐々木四郎高綱のいけずきの宇治川での先陣争いなど名場面の一つでしょう。当然、駿馬を乗りこなす馬術も無ければのことです。
 そんな駿馬は当時の日本には居なかった、武田の騎馬隊も、馬上での一騎打ちも嘘っぱちと、私を笑った人が居ます。天然記念物として生き残りの日本固有の馬は確かにポニーで背丈140cm以下です。不断テレビで見る馬はサラブレッドでヨーロッパで開発されて歴史的には短いものです。戦国時代には蒙古馬や西洋との貿易による馬なども輸入され高値で売買された様です。
 日本の歴史はその時代を生きた庶民や、其処での暮らし、其の家畜などは上の空です。
 おかしなブログに左右されて、信じ決めつける人は幸せです。当時の牧場で飼育された馬は強く逞しい馬は商売になっても、きゃしゃで臆病な馬は売り物にならない。それでも荷物運びなどに使われたでしょう。騎馬武者が不要になって来た戦国末期には馬の市場も縮小されたか廃業でしょう。江戸時代ではもっと極端に軍用馬の需要はなくなり、農耕馬とか荷物運び一部は乗馬用、放置されて野生化した馬を見て日本固有種は使えないなど嘘八百でしょう。
 話半分でも信実に至ろうとするのは、史料が何処にあるのか誰に聞けばよいのかそれだけでたった57577の和歌に翻弄されて、寝ていても思いつけば跳び起きる程です。これ、不幸では無く真実の幸福かもしれません。

 

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2020年8月10日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の10もののふの実知るべきは

道歌
6、塚原卜伝百首
6の10もののふの実知るべきは

もののふの実知べきは馬なれや
      心懸けぬは愚かなるべし

 もののふの本当に知るべき事は馬であろうか、心懸けないのは愚かな事である。

 「もののふ」は、武士と書きます。上代では朝廷に仕えた官人であったのですが、時代が下れば武勇を以て仕え、戦場に立つ武人、つわもの、ぶし。(広辞苑より)
 卜伝の場合は、鹿島神宮の鹿島氏の卜部で神卜を司る家柄の神職吉川左京覚賢の次男で、鹿島氏の支城の一つ塚原城主の塚原土佐守安幹の子新左衛門安重の養子となっています。生来は塚原城主となる事を約束されていたはずです。茨城県剣友会編「茨城の武芸」より。

 卜伝は1489年生まれで1571年に没しています。
 82年の生涯の内廻国修行に3回出ています。茨城の武芸より(林崎明神と林崎甚助重信年表より引用)
 第一回は16歳~29歳 13年間
 第二回は33歳~44歳 11年間
 第三回は67歳~82歳 15年間
 通算すると廻国修行は39年間になります。塚原城でのことは29歳から33歳の4年間と44歳から67歳迄23年間と云えるのでしょう。兵法者ではなく「もののふ」として暮らした時期は廻国修行より短いものです。
 「もののふ」としての弓、馬はその期間は特に心がけて手放せないものだったのでしょう。廻国修行には馬に乗り替え馬も数頭連れ、門人は300とどこぞの講釈師が喋っています。

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2020年8月 9日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の9弦はただ太きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の9弦はただ太きに

弦はただ太きに若くは無かりけり
       細きは根矢をささぬものかは

 弓弦は太い方が良いので、細い場合は戦で矢が敵に刺さらないものだ。

 根矢とは、征矢、鏑矢、狩(雁)股などの矢の俗称(広辞苑より)。鏃(矢の根)を含む矢の事でしょう。
 弦は現在では丈夫な合成繊維のケプラー、ザイロン、アラミドなどが使用されて、細くて硬く強いものが出来ています。
 細ければ弓の返りが早く弦音も高いが弦は切れ易い。太ければ弓の返りも遅く、弦音も低いなどで上級者は細い弦を好むとか言われている様です。
 卜伝百首では、弦は太い方が良いと云って、細ければ敵に当たっても弱く刺さらないなどと云うのです。卜伝の時代では麻かカラムシの弦が主だったでしょう。天然繊維としては丈夫で強いとは言え細ければ直に切れてしまい戦闘では予備を持つとしても、ほど良い丈夫さと鋭敏さが必要だったのでしょう。

 カラムシは其の繊維で衣服なども作られていたものです。麻は弥生時代から使用されていた様ですが、カラムシはもっと古くからのものの様です。栽培されているものは知りませんが、現在でも畑の周辺や野原などにも自生しています。ついでに木綿は戦国時代以降に栽培されている様です。
 現在では弓の強さに対し太さの基準なども明確になっている様ですが、卜伝の時代ではどうだったのでしょう。
 

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2020年8月 8日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の8夏冬に好む矢

道歌
6、塚原卜伝百首
8夏冬に好む

夏冬に好む矢の根有る物を
      知らぬは射手の不覚なるべし

 夏冬の季節によって良い結果の出る鏃(矢の根)がある事を知らないのは射手の不覚である。

 歌のままの直訳ですが、さて、前回の近い敵遠い敵に対する鏃の選択の習いに、更に夏だ冬だと云う時の矢の根の選択を知らないのでは不覚を取ると云われています。
 次いでですが、雨と晴れ、雪や風なども矢は影響されるのでしょうね。
 残念ながら、歌の意味は解らないでもないのですが、状況に応じた矢の根の選択について解説されたものが手元にありません。卜伝百首の解説者としては「不覚なるべし」です。
 現代の弓道などでも的場の的と射る場所は屋根付きでも吹き抜けですから、季節にも雨風にも矢は影響されるでしょう。近間用のもの遠間用、巻き藁用などが用意されている様です。
 鏃の遠近夫々、夏冬のそれぞれについて現代の稽古用鏃にも工夫があるのでしょうか。
 整備された弓道場での稽古では何ら支障のないものでも、いざ戦闘と云う事であれば使用する用具の準備や熟練した扱いがなければ効果は薄いものだったでしょう。
 参考文献などご存知の方は、コメントでご教授頂ければ幸いです。

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2020年8月 7日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の7近き敵遠き敵をば

道歌
6、塚原卜伝百首
6の7近き敵遠き敵をば

近き敵遠き敵をば射る時に
      矢の根の習いあると知るべし

 近間の敵や遠い敵を射る時には鏃についての習いごとがある事を知らなければならない。

「矢の根」とは、鏃(やじり)の事でした。鏃にはどんなものが有るのか、戦国時代に使用された鏃を形と使用法を調べる事になります。
 矢は、稽古用の的矢(まとや)と戦闘用の征矢(そや・せいや)とに分けられると思います。
 的矢は現代でも使われている矢の先端にかぶさるように装着している鏃か、鏃の先端の鏃身部(ぞくしんぶ)が短くさして鋭利ではないものが使われていたかもしれません。
 此処では征矢についてどのような形や性能を持つ鏃を遠近によって使い分けろというのでしょう。空気抵抗の少ないもの、茎部の長い、短いもの、などによって飛距離や殺傷力の強弱があって、幾種類かを使い分けていたのでしょう。
 
 鏃(板付・矢の根・根)の種類(刀剣ワールド鏃の基礎知識より)
 尖矢(とがりや)
    柳葉(やないば)・槙葉(まきのは)・尖根(とがりね)・たて割・のみ形・椎形・十文字・長のみ形・長椎形・剣先・鳥の舌
 平根(平根)
 雁股(かりまた)

 戦闘用では大まかに言えば遠間には鏃は小さく鋭くて軽いものと云えますが、距離によってどれが適切であるかなどは手持ちの鏃による経験値や、射る角度などあるのでしょうね。近間は幅広で大き目は有効でしょう。鎧を射通すならば細身で返しなど無い方が良さそうです。

 卜伝百首の8首目の歌も矢の根について歌っています。戦国時代では、鏃の形状によって、使い分けていたのでしょう。どれをどのように使用するのか、弓を持ったことも無いので付け焼刃では此処までが精一杯です。弓を学ばれておられる方にお任せしておきます。

 

 

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2020年8月 6日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の6矢の根をば細く

道歌
6、塚原卜伝百首
6の6矢の根をば細く

 矢の根をば細く穂長きに好みたり
      當る矢先の抜けよかるべし

 鏃の部分は細く、矢の穂の長いものを好むのである、矢が当たっても矢先の抜けが良い。

 文字のまま読んで見ましたが、どうでしょう。もっと奥に重要な事が隠されているかもしれない、とも思えるのですが。
 それよりも書かれた文字や古語の言い回しが読み切れていないかもしれません。

 「矢の根」とは、鏃(やじり)、板付、根。
 「矢の穂」とは、矢の竹の部分、矢柄。
 「當る矢先」とは、鏃が命中した所に突き刺さる状況でしょう。

 「抜けよかるべし」とは、鏃が細く矢の竹が長ければ、鎧の上から射ても抜けが良いだろう。刺さった矢をわざわざ抜くことを強調するとも思えませんので、こんな風に読んで見たのですが如何でしょう。

 矢の根は鏃(やじり)と云う事ですが、鏃は先端の鏃身部(ぞくしんぶ)と柄部の頸部と茎部(なかごぶ)で構成されています。その茎部は竹で出来た矢柄に挿入されているので細く長いものであれば簡単にずり落ちる事も無く刺さっても鏃は体内に残っても矢柄は容易に抜き取る事が可能です。此の事を指して歌っているかもしれません。然しこと、獣を射た場合の事ならいざ知らず、戦場で敵に刺さった矢を抜き取ることを意図した配慮であれば疑問です。
 
 別の解釈は、是と云って思い浮かばないのですが、ご存知の方はご教授ください。

 

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2020年8月 5日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の5予ねて知れ軍の場に持つ弓は

道歌
6、塚原卜伝百首
6の5予ねて知れ軍の場に持つ弓は

予ねて(兼ねて)知れ軍(いくさ)の場(にわ)に持つ弓は
         少し力の勝る好めり

 あらかじめ知っておきなさい、軍場で持つ弓は、力量より少し強めの弓の方が好ましい。

 原文は「兼ねて知れ」ですから前の歌「弓はただ己の力にまかすべし手に餘りたる弓な好みそ」で手に余る強弓は好むべきではない、と歌っているのに対し、「でもね、合わせて知っておきなさい、軍場では少し強い方がいいのだよ。」と云うのかも知れません。
 此処では「兼ねて」を「予ねて」の文字に置き換えてみました。

 「兼ねて」は、ある事のみでなく他の事物をもあわせふくめる、一つで二つ以上の用をする、二つながら持つ。などでしょう。
 「予ねて」は、前以って、あらかじめ、前々から。などです。
 この歌の卜伝による直筆のものであれば良いのですが、後世の者による写し書きですからその人の思いが狂わせることもあります。
 「かねて」の文字は「兼ねて」で「祐持写」が為されています。他の天保十年田代源正容による写しも「兼ねて」ですから「兼ねて」でしょう。

 歌心は、軍場では、火事場の馬鹿力の譬えを連想しましたが、さてどうなのでしょう。昇段審査や奉納演武の際一段上の強い弓を引かれる話も有りやにも聞きます。居合をされる方が同様に普段は模擬刀で稽古しているのに真剣を持ち出して昇段審査や奉納演武をされていますが普段の稽古より「気」が入る事を仰います。

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2020年8月 4日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の4弓はただ己が力

道歌
6、塚原卜伝百首
6の4弓はただ己が力

弓はただ己が力に任すべし
      手に餘りたる弓な好みそ

 弓はただ自分の力に任すものだ、手に余る弓を好むのではないぞ。

 直訳して見たのですが、歌心が伝わってきません。弓を引くためには自分の力を越える様では役に立ちそうにありません、力量に合った強さの弓を持つべきで、力量以上の強弓は好むべきではない。
 「好みそ」の「そ」は何々してくれるな、と使われた禁止の意味を持つ「そ」を引用しました。

 弓の強さを卜伝の当時はどのように表していたのか、気になります。

 平家物語の那須与一「・・これを射損ずる物ならば、弓きりをり自害して、人にふたたび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんと思召さば、この矢はづさせた給ふな・・小兵といふぢやう、十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きッたる・・」
 矢は大兵のつわものが十五束を引くので多少短いが、弓は強いと言って居ます。

 同じく平家物語の弓流「・・いかがしたりけむ、判官弓をかけ落されぬ。うつぶして鞭をもって、かくよせてとらう〵どし給へば、兵共、「ただ捨てさせ給へ」と申しけれども、つひにとッて、わらうてぞかへられける。おとなどもつまはじきして、「口惜しき御事候かな。たとひ千疋・万疋にかへさせ給うべき御だらしなりとも、いかで御命にかへさせ給べき」と申せば、判官、「弓のをしさにとらばこそ。義経が弓と言はば、二人してもはり、若しは三人してもはり、をぢの為朝が弓の様ならば、わざとも落としてとらすべし。尫弱(おうじゃく)たる弓を、かたきのとり持ッて、「これこそ源氏の大将。九郎義経が弓よ」とて、嘲弄せんずるが口惜しければ、命にかへてとるぞかし」とのへば、みな人これを感じける。」弓に弦をつける事を張るといい二人かかりが二人張り、三人がかりを三人張りという、保元物語の為朝は五人張りだったそうです。
 
 弓に関する知識は全くありませんのでネットで調べたもので、信頼性には乏しいかもしれませんが、武器は時代と共に進化します。
 古いものを其の儘用いる事も当然なので、何時からそうなったなどの事は大まかなものほど流れが解りやすいので参考にさせていただきます。
 弓にも歴史があって縄文時代はイヌガヤを削った単一素材で長さ160cm程という。
 弥生時代以降は2m以上の長い弓が威力や飛距離の必要性から改良されて来ている。
 平安中期までは単一素材の丸木弓で、神事などの儀式にも用いられ精神性を持つ武器となってきている。
 平安中期以降に木と竹を張り合わせた弓となりより高い威力を持った。
 平安後期から鎌倉時代では「三枚打弓」といって木芯の前後に竹を張り合わせたものが出て来る。
 室町時代中期には「四方竹弓」で木芯の四方を竹で囲んだ作りとなる。
 戦国時代後期では芯を竹ヒゴとし、外竹、内竹、側面を木とした「弓胎弓(ひごゆみ)」があらわれ現代でも使用されています。

 弓の強弱による「弓力」を現代での目安は「体重の3分の1×70~80%」ですから体重60kgの人ならば14kg~16kg。
 若しくは「握力の半分×70%~80%」ですから握力40kgの人は14kg~16kgを目安とするなどの事があるようです。

 この歌の様に己の力量を越える弓はダメだと云う事は戦場に出た際の実戦での取り廻しの容易性の事と思います。稽古には力をつけるために力量を越えるもの、「かたち」を整えるには、弱い弓を引くなど工夫次第でしょう。

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2020年8月 3日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の3もののふの射るや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の3、もののふの射るや

 もののふの射るや弓矢の名に立てゝ
        国を治むる試なりけり

 もののふの射る弓矢は名誉にかけて国を治めるための試みなのだ。

 此処は、弓矢に懸けて国を治めるのだというのです。もののふの勤めはそうでなくてはならない、人として名誉あることと歌います。
 是だけのことを歌い上げるのですから塚原卜伝の環境はどうなっていたのか、兵法者として生きたのでしょうがその思いは何処にあったのか、前回の柳生石舟斎宗厳とどこが違うのか、塚原卜伝の出自を調べざるを得ません。

 延徳元年1489年 鹿島神宮神官鹿島氏の四家老の卜部覚賢(あきかた)の次男として生まれる。
 父卜部覚賢は飯篠長威斎家直の高弟

 後、鹿島家の分家で、もと平氏姓の塚原土佐守安幹(やすもと)の子新左衛門の養子となる。
   鹿島氏は坂東平氏の一族で大掾氏の分家常陸鹿島の武家(軍事貴族)在庁官人、後地頭として鹿島神宮の惣大行事職を世襲する。

 概略この様な系譜で、戦国時代末期近くの武家として由緒ある出自と云えるのでしょう。この歌の裏には、何時の日にか「国を治る」地位を得たい思いがあるのかも知れません。然し卜伝の生涯は兵法者として名を残した事ばかりが伝えられています。塚原氏の常陸鹿島神宮での役割は何であったのでしょう。それが卜伝の生涯とどの様に繋がっているのか興味のある処ですが、どなたかにお任せします。ミツヒラブログは卜伝の兵法を学ぶ事が主眼です。


 

 

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2020年8月 2日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の2もののふの魂なれや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の2もののふの魂なれや

もののふの魂なれや梓弓
      春日の影や長閑からまし

 武士(もののふ)の魂であろうか、春の日にうつる弓の影は静かに落ち着いたものである。
 
 「武士の」書き出しは、2首目の書き出しは仮名による「む士」、一首目の書き出しは漢字の「武士」と使い分けていますが、卜伝百首では「もののふ」の読みで良いのでしょう。
 塚原卜伝の生きて来た時代は「武士の魂」は弓であって、太刀・刀では無かった様です。戦国時代末期に鉄砲の伝来があって戦闘方法も大きく変わり、飛び道具は弓から鉄砲へと移って行く、その寸前に世を去ったと云えるのでしょう。
 江戸時代では飛び道具は鉄砲が主ですが、武士の持つものは大小二本差しですから「武士の魂」は刀に移行した。武士の魂が「弓」と卜伝に言われて違和感を覚えるのもそのためでしょう。
 現代では刀を神聖視するのは、その面影を拠り所にする、「日本人の魂」といって一部の商売人や、懐古趣味の人ぐらいのものでしょう。
 最近の刀剣女子の出現によって、芸術性が見直されています。拵えを含めた刀の芸術性を全ての刀剣に当てはめるのは疑問です。
 神聖視か芸術性は兎も角先祖が大切にして来た刀への個人的思いの方が強いかも知れません。
 一方では遺産として残された子孫の方が迷惑がって引き取り手を求めるのも頷けます。

 「梓弓」は「あずさゆみ」、梓の木で造られた弓を表しています。弓に懸る枕詞ですがどうでしょう。弓の材質の時代考証はその道の先生にお願いするとして、卜伝の時代の弓は竹と木の張り合わせた弓で梓の木で創られた弓では無さそうです。

 卜伝のこの歌の心を読み取るのは夫々の思いでいいのだろうと思います。農作業に従事する人がクワや鎌に己の魂を抱くのも有りでしょう。ゴルフクラブでもいいのかも知れません。
 「いやいや、命を懸けて戦う時の武器なのだからそんなものではない」と言われるのも「ごもっとも」です。
 居合で真剣を携えて稽古も演武もしています。「真剣と模擬刀では思いが違うよ」と云われ、そうかとやって見ますが、此の処木刀でも真剣でも、果ては素手でも何等違いを感じる事はありません。
 武器を象徴としてその良し悪しを論ずるより、武術は心の置き所にあるのでしょう。

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2020年8月 1日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の1武士の名に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の1武士の名に

武士の名にあうものは弓なれや
        深くもあおげ高砂の松


 武士(もののふ)の名にあうものは弓で、高砂の松の様に人々から深く敬われるであろう。

 武士と書いてここは「もののふの」と読むのでしょう。もののふは武勇をもって戦陣に立つ武人、つわもの、ぶし。武士は弓矢をとり用いることを勤めとすること。ゆみやとり、ゆみとり。武士とは武芸を習い軍事にたずさわった者、さむらい、もののふ、武者、武人(広辞苑より)

 高砂の松とは何処の土地の相生の松を卜伝は言って居るのか解りません。一般的に知られているものは兵庫県高砂市の高砂神社境内にある黒松と赤松が基部で結合した相生の松を指します。
 百人一首では「たれをかも知る人にせむ高砂の松もむかしの友ならなくに」と歌われています。卜伝は廻国修行の途中で高砂の松を見知ったとも思われますが、私は小倉百人一首にある、或いは古今集からこの歌を聞き知って、高砂の由来を引用したのだろうと思います。
 この歌の作者は9世紀から10世紀の人で藤原興風古今集に収録されています。小倉百人一首には、鎌倉幕府の御家人宇都宮頼綱が京都嵯峨野の小倉山に別荘を建てた際、その襖に付されています。其の百首が小倉百人一首なのです。歌は藤原定家によって選ばれています。

 武士のことを「ゆみとり」と云ったのは卜伝の生きた時代背景から、太刀・薙刀・弓を扱う武人を云い、弓への憧憬は源平盛衰記や平家物語の時代への思いからによると思います。那須与一の扇を射る話や、義経の八艘跳などでも武士の持つ武器のメインでもあったのでしょう。種子島の伝来は卜伝54歳の頃でその威力が喧伝されるのは卜伝死後10年の長篠の戦い以降でしょう。武器も薙刀から鑓、太刀から刀、弓から鉄砲へと大きく変わって、戦闘方法も変化していく時代だったと思います。
 そんなことを思いながら、この卜伝百首の一首目を読んでいました。この歌で卜伝は何を伝えたかったのでしょう。武士の象徴であった弓について卜伝は何を残していったのでしょう。
 卜伝の時代には意味のある歌も、現代ではと云うより私には何も心に響いて来ない。

 塚原卜伝は延徳元年1489年生まれ元亀2年1571年83歳で没したとされています。 

 この期間の主な出来事
長享元年 1487年  愛洲移香斎愛洲陰流を興す
  2年 1488年  香取神道流飯篠長威斎没す
延徳元年 1489年  塚原卜伝出生
永正2年 1505年  塚原卜伝第一回廻国修行に出る
                                (卜伝16歳)
  5年 1508年  上泉伊勢守秀綱上州大胡に生まれる
                               (卜伝19歳)
*上泉伊勢守は卜伝より19歳年下となります、
   卜伝が上泉伊勢守に師事した話がありますが、さて如何なものでしょう。
      15年1518年  塚原卜伝第一回廻国修行より帰る
                                (卜伝29歳)
  16年1519年  北条早雲没す
大永2年 1522年  塚原卜伝新当流を号す。
            塚原卜伝第二回廻国修行に出る
                                (卜伝33歳)

天文2年 1533年  塚原卜伝第二回目廻国修行より帰る
                                (卜伝44歳)

  3年 1534年  織田信長生誕
  6年 1537年  豊臣秀吉生誕
  11年1542年  林崎甚助重信生誕
            徳川家康生誕
      12年1543年  種子島伝来
弘治2年 1556年  塚原卜伝第三回目廻国修行に出る
                                (卜伝67歳)

永禄2年 1560年  織田信長桶狭間の戦い 
  4年 1561年  川中島の戦い
  10年1567年  伊達政宗生誕
元亀2年 1571年   塚原卜伝第三回廻国修行より帰る
                                (卜伝82歳)
                                 塚原卜伝没す82歳)
天正10年1582年   本能寺の変
慶長5年 1600年   関ケ原の戦い

 

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