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2020年8月 2日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の2もののふの魂なれや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の2もののふの魂なれや

もののふの魂なれや梓弓
      春日の影や長閑からまし

 武士(もののふ)の魂であろうか、春の日にうつる弓の影は静かに落ち着いたものである。
 
 「武士の」書き出しは、2首目の書き出しは仮名による「む士」、一首目の書き出しは漢字の「武士」と使い分けていますが、卜伝百首では「もののふ」の読みで良いのでしょう。
 塚原卜伝の生きて来た時代は「武士の魂」は弓であって、太刀・刀では無かった様です。戦国時代末期に鉄砲の伝来があって戦闘方法も大きく変わり、飛び道具は弓から鉄砲へと移って行く、その寸前に世を去ったと云えるのでしょう。
 江戸時代では飛び道具は鉄砲が主ですが、武士の持つものは大小二本差しですから「武士の魂」は刀に移行した。武士の魂が「弓」と卜伝に言われて違和感を覚えるのもそのためでしょう。
 現代では刀を神聖視するのは、その面影を拠り所にする、「日本人の魂」といって一部の商売人や、懐古趣味の人ぐらいのものでしょう。
 最近の刀剣女子の出現によって、芸術性が見直されています。拵えを含めた刀の芸術性を全ての刀剣に当てはめるのは疑問です。
 神聖視か芸術性は兎も角先祖が大切にして来た刀への個人的思いの方が強いかも知れません。
 一方では遺産として残された子孫の方が迷惑がって引き取り手を求めるのも頷けます。

 「梓弓」は「あずさゆみ」、梓の木で造られた弓を表しています。弓に懸る枕詞ですがどうでしょう。弓の材質の時代考証はその道の先生にお願いするとして、卜伝の時代の弓は竹と木の張り合わせた弓で梓の木で創られた弓では無さそうです。

 卜伝のこの歌の心を読み取るのは夫々の思いでいいのだろうと思います。農作業に従事する人がクワや鎌に己の魂を抱くのも有りでしょう。ゴルフクラブでもいいのかも知れません。
 「いやいや、命を懸けて戦う時の武器なのだからそんなものではない」と言われるのも「ごもっとも」です。
 居合で真剣を携えて稽古も演武もしています。「真剣と模擬刀では思いが違うよ」と云われ、そうかとやって見ますが、此の処木刀でも真剣でも、果ては素手でも何等違いを感じる事はありません。
 武器を象徴としてその良し悪しを論ずるより、武術は心の置き所にあるのでしょう。

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