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2020年9月

2020年9月30日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の61もののふの足踏み延べて

道歌
6、塚原卜伝百首
6の61もののふの足踏み延べて

もののふの足踏み延べて仰向きに
      寝ては勝負に勝たぬもの哉

 武士たるもの足を広げ大の字になって寝たのでは、勝負に勝てないのは当然だ。

 仰向けに寝るのは当たり前と思っていたのですが、駄目だと云うのです。仰向けに寝るのは良いとしても、大の字になって寝る様な、前後不覚に寝る様では、何時如何なる状況にも応じられる、心構えとは言えないと云うのでしょう。
 全く他人を意識しない様な環境ならばいざ知らず、室町時代中期からの下克上や夜盗の横行を考えれば、普段から寝ていても周りの変化を認識できる訓練をして置く、刀をいつでも取れる状態に置く、刀が無ければ代る物、他人の存在を意識する所では爆睡はしない。
 
 この歌を卜伝が歌った時、弟子の誰かが廻国修行の際、前後不覚の爆睡状況で、つついた位では起きる事もしなかったのかも知れません。訓練次第で相当敏感に反応できる睡眠状態は作り出せるはずです。
 現代でも、地震・津波、豪雨・洪水・山崩れ、火事。など反応は人それぞれでかなり違います。危険予知能力は訓練できそうです。

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2020年9月29日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の60もののふの軍の場(にわ)に持つもの

道歌
6、塚原卜伝百首
6の60もののふの軍の場(にわ)に持つもの

もののふの軍の場(にわ)に持つものは
        梅干しにますものはあらじな

 武士が軍に臨んでその場に持つものは、梅干し以上のものはある訳がない。

 梅干しを中国渡来の薬として伝来し梅の木も伝わった様です。平安中期の「医心方」の食養編に記録されているのが古いものです。「医心方」とは宮中の官医鍼博士丹波康頼が書きあらわしたものです。
 その梅干しの薬効は「味は酸、平、無毒、気を下し、熱と煩懣を除き、心臓を静め、四肢身体の痛みや手足の麻痺なども治し、皮膚のあれ、萎縮を治すのに用いられる、下痢を止め、口の渇きを止める」(トノハタ梅と日本より)。 梅干しは中国から伝来した当初は、烏梅(うばい)と云って梅を燻製して乾燥させた真黒いものだったとか。日常お目に掛かる梅干は梅を塩漬したものとは製法が違っていた。
 梅干に含まれるクエン酸が血液さらさらや疲労回復、殺菌、防腐効果をもたらし、食中毒カルシュウムの吸収を促し、ピロリ菌の活性を抑制し、 虫歯予防、バニリンはダイエット効果も期待できる。梅干しの酸味からパロチンの分泌を促し食欲増進。ポリフェノールは抗酸化作用がある。
 梅干屋さんの宣伝文句からの抜粋ですが「医心方」の漢方の効能は経験値によるものでしょうが凄いものです。

 梅干しの庶民への普及は江戸時代、戦国時代の薬物から携行食となって、梅林が各地に出来普及していったのでしょう。卜伝の時代比較的安価な万能薬でもあり、製法も簡単。
 見ているだけで唾液が促進され食欲が進み、薬物として効くとあっては「梅干しにますものはあらじな」と云うのも頷けます。
 現代でも梅干しは好まれている食べ物と云う感じがしますし、製法も昔と変わらないのも凄いと思います。クエン酸の効果だけを期待するならば薬品などあるでしょう、食べ物ではレモンが梅の4、5倍含まれています。加工食品ではやっぱり梅干しでしょう。
 

 

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2020年9月28日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の59もののふの坂と馬上に指す刀

道歌
6、塚原卜伝百首
6の59もののふの坂と馬上に指す刀

もののふの坂と馬上に指す刀
       反りを打たぬは不覚なるべし

 武士が坂道や馬上では腰に指す刀は、反りが無いのは不覚である。

 この歌の「指す刀」ですから腰に佩く太刀ではなく刀です。卜伝の生きて来た時代は、武士は馬に乗って腰に佩いた太刀を片手で持って斬りつけていた。
 戦闘方法が変化し、雑兵に槍を持たせて攻め込み、白兵戦になると腰に指した刀を抜いて戦った、此の時の刀は両手で持つように変化してきている。
 卜伝の経験値から、坂や馬上では反りのある刀が良いと云う。では何故そう言うのかは卜伝の解説は無さそうです。識者の著書や発言から求めても納得いく答えにはなりそうもない。
 馬上では抜刀しやすい反りが要求されるのか、片手斬りつけには反りが深い方が有効なのか、いくつか意見は有っても反りの深い太刀から、短目の打刀ならば、反りなど気にするほどのことでもない。
 まして「坂」でのことでは、帯刀した場合、2尺3寸程度の刀で反りが深いとか浅いなどは問題なく、抜刀にも支障は感じない。卜伝の時代に戦法の変化や太刀から刀への移行があったが、太刀の反りは大方7分から1寸程度、刀は3分から8分程度の様です。
 卜伝の歌心は、今まで使い馴れた状況が変わってしまい使い勝手に違和感を感じるのか、懐古趣味の強い一面を表しているのか、そんな気もします。
 刀の長さ重さバランス反り柄の太さ長さ鞘との相性そんな事を気にして見ても、何振りも刀を試すわけにもいかず、如何に調子よいものでもその場に無いとか、折れたとか、この歌で云う場の条件が変わってしまうとか。
 私は、寧ろ、状況次第でどのような刀でも問題なく抜き付け出来、業を打つ事が出来る稽古に身を入れたいと、居合を始めた時から思っていました。刀が合わなかったから死ぬのでは武術とは言えないでしょう。
 
 

 

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2020年9月27日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の58もののふの味好みするな

道歌
6、塚原卜伝百首
6の58もののふの味好みするな

もののふの味わい好みするなただ
        常に湯漬けを食するぞよき

 武士は食べ物の旨い不味いと味わい好き嫌いをするものではない、ただ常に湯漬けを食べているだけで良い。

 卜伝独特の食に対する発想でしょうか、湯漬けさえ食していれば武士は良いのだと云うのでは、現代風に言えば食が偏って満足に体を維持できない。
 卜伝の教えには大きく変化していく室町時代に何処か時代を受け入れられず、坂東の田舎暮らしから抜けられず戸惑っていた雰囲気が漂う気がします。
 卜伝の生きた室町時代は、歴史教科書では足利尊氏が建武式目を制定し将軍となった1336年から15代足利義昭が織田信長に京都から追放された1573年237年間のことになります。卜伝は1489年生まれで1571年に没しています。室町時代中期から後期に生きたわけです。
 この時代、国内は戦争に明け暮れていた時代であると同時に、海外から多くの文化がなだれ込んできた時期でもあり、日本文化も著しい変化と発展を来した時代でもあったのです。
 食生活も、以前は一日二食であったものが、雑兵に雇われたりして庶民は戦場での習慣などから一日三食に変わり始め、食事内容も醤油が使われ始め、味噌を使った味噌汁が呑まれ、食事の品数も増えて来た。茶の湯や懐石料理なども始まり、米を炊いて食すようになり、漁業の発達から魚料理や、漬物も出されるようになってきている。

 楽市楽座などで豊富な食材も手に入るようになったと云えるでしょう。農業の発達から農民も裕福な者が現れ、武器を持った郷士なども現れたと云えるでしょう。最も厳しい時代でもあるが、生き生きとした時代でもあったと思います。
 現在の日本の基礎的文化はこの時代に形成されたと云っても可笑しくないでしょう。

 それなのに卜伝の歌は一昔前の暮らしを愛でるが、幾つもあって何故それが好ましいのかの解説が聞こえて来ないのです。何時の時代でも底辺を生きる人は、衣食住に変化は起こせない、だからと云ってそれに合わせるのでは、兵法など学ばなくとも良い、変化し進歩するから底辺にも恩恵があるもので、其処から抜け出られる事もあり得るものです。
  

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2020年9月26日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の57もののふの刀のつめ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の57もののふの刀のつめ

もののふの刀のつめを知らでこそ
      常に不覚のえてしあるらめ

 武士が刀のつめを知らないのであれば、常に不覚をとるであろうな。

 「刀の徒免(つめ)」とは、「つめ」を武術的な発想で漢字に書けば、詰・積・摘ぐらいでしょう。刀を兵法に置き換えた刀法の間積もりや間を詰める事、相手の出足を摘み取るなどを知った上でさらに命を懸けて相手と立合はなければ、必ず不覚を取るであろう。スポーツ剣道や古伝の形の伝承位のレベルでのことでは、卜伝の兵法の詰めが出来ません。
 卜伝の兵法の基礎は飯篠長威斎の起した天真正神道流とされています。長威斎直伝との話もある様ですが、長威斎の死後卜伝が生まれたと云う事の様で疑問です。卜伝は実父吉川覚賢から家伝の鹿島中古流と戸田系の外之物を学び、養父塚原土佐守安幹から神道流は習ったとさています。
 武術流派は幾つも起こり消えていくのも常のことでしょう、現在稽古されている流派の形やその業の数々は決して流祖の起こしたものと同じとは言えません。然しその奥の奥に残っているかもしれない。それが他流とどれほどの違いがあるのかは計り知れないと云うより、究極は同じ所に行き着く、そして死ぬまで求め続けることになる、と思っています。

 卜伝は武器の良し悪しをどの様に捉えていたでしょう。此処では刀と云う武器の「刀のつめ」ですから刀の材質あるいは鍛造にかかわる「詰」について、「刀の性質を知らないのであれば、常に不覚を得るのは当然である、」と読むのも一つかもしれません。
 鎌倉時代には既に刀の製造技術における「鍛刀法」、鉄を打ち、鍛え、日本刀とする技術は完成されていたと云われます。「折れず曲らず良く切れる」のが日本刀と云われます。その構造は刃の部分は炭素含有量の多い堅いもの、内側の芯は炭素量の少なく柔らかいもの。その組み合わせに四方詰・本三枚詰・甲伏などの方法があります。
 甲伏は柔かい芯鉄を堅い皮鉄でくるむ二種類の鉄でできている。本三枚詰は三種類、四方詰は四種類と云うようになります。卜伝はこの様な鍛造法で作られた刀をどこで作られたのか知る事で刀の良し悪しを知ったのでしょう。大和・山城・相州・備前・美濃の五箇伝を指していたかも知れません。

 「卜伝百首の歌心も知らないで良く解説するよ」と云われても、歌を読んで弟子に語った口伝を知らない、卜伝の新当流を知らない、卜伝の兵法の奥義を知らない、卜伝百首の原本をそのまま書写したものを見た事も無い。まして百首を正しく読み下し、解説したものを知らないの知らないづくしなのですから、この歌など現代の誰が解説しても其の人の力量の範囲でしか解説されないはずです。
 恐らく古文書読解の大家でも、剣術の大家でも歌心の周辺を掠るのが精一杯と思います。
 
 

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2020年9月25日 (金)

第34回・35回古伝研究会

第34回・35回古伝研究会

 無雙神傳英信流居合兵法(無双直伝英信流・夢想神傳流の古伝)の研究会を7月より再開しています。
 今年の課題である抜刀心持之事(現代の奥居合の古伝)を中心に古伝神傳流秘書に沿って研究いたします。
 尚第8回違師伝交流稽古会はコロナ感染予防として来年度に延期いたしました。来年度は抜刀心持および古伝神傳流秘書による坂橋流之棒を 研究発表致します。
「古きを尋ねて新しきを知る」ご参加いただいた方々が夫々「逢人皆我師」である事をご認識頂き、ご自由な意見を出され共に学ぶ研究会です。「俺の指導に従え」と云う「習い稽古する」稽古会とは異なります。古伝を読み参加者が自ら「工夫する」研究会です。 尚、「無雙神傳英信流居合兵法抜刀心持之事」は6月1日~6月22日までのミツヒラブログにその手附及び解説を投稿してあります、古伝研究会ご参加ご希望の方は出来れば事前にご参照下さればと思います。
 
1、第34回 
  10月8日(木)  見田記念体育館
  13:00~17:00
  10月22日(木) 鎌倉体育館
  15:00~17:00
2、第35回
  11月12日(木) 見田記念体育館
  15:00~17:00
  11月26日(木) 見田記念体育館
  15:00~17:00
3、住所
  見田記念体育館
  248-0014鎌倉市由比ガ浜2-13-21
  Tel0467-24-1415
  鎌倉体育館
  駐車場鎌倉体育館駐車場
  248-0014鎌倉市由比ガ浜2-9-9
  鎌倉警察署向い側
4、アクセスJR横須賀線鎌倉駅東口下車徒歩10分
5、費用:会場費等割勘つど500円
6、参加申込直接見田記念体育館にお越しください
      *コロナ対策として事前に参加連絡をお願いいたします。
   sekiun@nifty.com
7、研究会名:無雙神傳英信流居合兵法
     
湘南居合道研修会 鎌倉道場
8、御案内責任者:ミツヒラこと松原昭夫
    
sekiun@nifty.com

9、注意事項:
  ◉コロナ対策として以下の事項に一つも該当しない事
  ・平熱を越える発熱
  ・咳、のどの痛みなど風の症状
  ・倦怠感、息苦しさ
  ・嗅覚や味覚の異常
  ・体が重く感じる、疲れやすいなどの症状
  ・新型コロナウイルス感染症「陽性」とされた者との濃厚接触があった
  ・同居家族や身近な知人に感染が疑われる方が居る
  ・過去14日以内に、政府から入国制限、入国後の観察期間を必要とされている國・地域等への渡航又は当該在住者との濃厚接触がある
  ◉マスク着用、3密を避けるetc

     2020年9月25日ミツヒラこと松原昭夫 記
   


   
  

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道歌6塚原卜伝百首6の56もののふの踏むぞ拙き

道歌
6、塚原卜伝百首
6の56もののふの踏むぞ拙き

もののふの踏むぞ拙き皮草履
      児や女のかざりなるべし

 武士が足に履く粗末な皮草履は、稚児や女の飾りに過ぎない。

 此処では「皮草履」の文字があてがわれています。「足袋」とは違うのでしょう。草履ですから材質が皮であっても鼻緒のついた突っ掛けでしょうから、戦場で履くような代物にはならないというのでしょう。履物によって行動の仕方も変わってしまいます場に臨んでは場に合う履物と云うのでしょうか。
 卜伝の歌は、俺はこう思うが先に有って、何故そうする、そうすればこうなる、が読み切れません。実戦経験からくる教えだから.兎や角云わず其の儘信じろと云われても困ります。
 

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2020年9月24日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の55もののふの寒きを侭に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の55もののふの寒きを侭に

もののふの寒きを侭に足袋はきて不覚をかゝぬ事はあらじな

武士が寒いと云う侭に、早々に足袋を履いて不覚を取る事は無かろう。

 鎧を着た場合の足は、この歌では素足が当たり前のように聞こえるのですが、読み間違いがあるのでしょうか。
 平安時代から大鎧の足は貫(つらぬき)という毛沓で毛皮製の袋状の浅い沓を履いています。武士や漁師なども履いていた様です。戦国時代では革もしくは木綿の足袋を履いたとされています。下級武士や雑兵も足袋に草鞋履きです。
 寒ければ動きが鈍る、卜伝の生国は北関東ですから寒さは厳しかったでしょう、それだけに、多少の寒さで足袋を履く様では冬の寒さをしのげない、寒さに慣れるのも必要でしょう。足袋を履いた方が不覚を取らないはずです。

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2020年9月23日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の54もののふの帯は狭きを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の54もののふの帯は狭きを

もののふの帯は狭きを好むべし
      広きは刀抜けぬ所なり
別伝
もののふの帯は狭きを好むべし
      広きは刀抜けぬ故なり

 武士の帯は狭いものが良い、広い帯は刀を抜けないからだ。

 珍しく、何々だから何々という何故を読み込んであるのですが、この帯は着物の帯なのか鎧の帯なのか、刀と云っていますから太刀では無く打刀です。抜けないのは鞘ごと帯から抜き取るのか、刀を抜き付ける時に鞘送りも鞘引きも出来ないと云うのか何の解説もありません。
 此処では鎧を付けた場合の上帯と云う事で其の上帯の幅が広いと上帯に直接差し込む刀が抜きずらくて不覚を取ると云うのでしょう。上帯も二重若しくは三重に巻きます。
 胴丸の上から巻いて前で結ぶ長さは12尺程度、幅は2寸ほどで麻の角帯ですから、現在居合などで着物の上から巻いて袴を着ける角帯と同じ様なものと思えばいいでしょう。

 私は絹織り袋帯の400cm×9cmの角帯を締めて居合を稽古しています。帯を臍下に三重に巻いて一重の上に刀を差しています。無双直伝英信流の場合は小太刀は帯下に差す習いです。腰がグット安定して気持ちが良いです。

 此処で云う「広きは刀抜けぬ故なり」の状況は感じた事はありませんが、剣道の黒い木綿の帯ですと、刀が落し差になるので嫌いです。
 
 

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2020年9月22日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の53もののふは女にそまぬ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の53もののふは女にそまぬ

もののふは女にそまぬ心もて
      是ぞ誉の教えなりける

 武士は女に染まってしまわない心を持つものだ、これこそ名誉なことという教えである。

 「女にそまぬ」とは、女に感化される、女にかぶれるなどが本来の意味ですが、さてどの様に卜伝は思っていたのか疑問です。
 卜伝は82歳の生涯と云われています。その内三度の廻国修行に出ています。
 第一回が16歳から29歳までの13年間、第二回33歳から44歳の11年間。第三回が67歳から82歳の15年間です。
 82歳の生涯の内39年間は廻国修行で16歳で第一回廻国修行に出ていますから、16歳から82歳の66年間が成人した卜伝でそのうち39年は廻国修行であれば27年間は国に居た事になります。生涯独身の様でしたが、29歳から33歳の4年間、44歳から67歳に23年間つごう27年は生国ですから其の辺りで娶っていたかもしれません。
 嫁をもらっていても、いなくとも女に現を抜かしたり、かぶれたりしない事が武士の誉だと云うのです。卜伝には三人の男子がいて家督を譲る際、彼らの器量を試した逸話があります。「自分の居間の入り口の暖簾の上に小さな鞠をのせ、潜ればすぐ落ちる様に仕掛けてまず嫡子彦四郎を呼んだ。彦四郎は見越しの術をもって頭上の鞠を見つけて、そっと取って妻戸の側に置いて部屋に入った。卜伝は又、もとのようにして次男源五を呼んだ。源五が暖簾を上げて入ろうとすると鞠が落ちてきた。アッ!とおもわず腰に手をかけたが、鞠であることに気づいて静かに座した。同じ様に三男や弥藤太を呼んだ。弥藤太が暖簾を開と鞠が落ちてきたので、刀を抜いて之を斬った。三子の動作をみて卜伝は長子彦四郎に一刀を授けて「汝能くその器にたへたり」と賞して家督の相続を許したという。(武芸小伝)」

 彦四郎を養子としたことは史実上のこととされていますが、実子三人のことは疑問です。茨城の武芸(剣の巻)より。

 

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2020年9月21日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の52もののふの身に添て指す

道歌
6、塚原卜伝百首
6の52もののふの身に添て指す

もののふの身に添て指す刀には
       椿の油みねにぬるべし
別伝
もののふの身に添て指す刀には
       椿の油身にはぬるべし


 武士が身にそえてさす刀には、椿の油を峯に塗るものである。
 別伝は「椿の油身にはぬるべし」で峯だけでなく刀身に塗るとなります。

 この、椿油を刀に塗るのは刀身を錆から防ぐために塗るのか、鞘から容易に抜き付ける滑りやすさの為なのかと疑問が湧きました。それは刀に椿油を「刀の峯」に塗るのだと云うからなのですが、椿油は乾燥しない植物油ですから鞘の中で行き渡るのかな、など取り敢えず置いておきます。
 刀の錆止め油には「丁子油」が知られていますが、丁子油は寛文12年1672年頃にインドネシアモルッカ諸島あたりから輸入されてきたもので、卜伝の時代には丁子を香料として使用していた程度の様です。
 椿油は8世紀位から搾油されて使用されていた様で料理にも、髪の毛の手入れにも、刀の手入れにも重宝な油だったのでしょう。

 刀の手入れは、刀身を鞘から抜き出し、柄をはずし、和紙で油を拭い、打粉を打って油と錆などを拭いとる。布に丁子油を含ませて刀身に塗るのです。この時植物油の椿にしろ丁子にしろ酸化するので長い間放置して置くと錆の原因となります。
 江戸時代の刀の手入れ法は作法に従って丁子油で手入れをしていますから、現在でも武術とその刀に特別な思い入れを持って精神性を保持している様な人はその範囲を一歩も出ることは出来ません。

 近年は、拭い紙は何度も繰り返し和紙を使用するのも錆を塗りたくっている様なものですから、ティッシュペーパーで拭い捨てる事がお勧めです。
 打粉には内曇砥の砥石の粉が含まれているので疵の原因と成るので使用を刀屋さんは嫌います。
 
 居合などでは納刀の際に何度も峯を鯉口に当て辷らせますので峯に当たり傷が出来、そこから錆がでます。切先なども指で触れる業など有って錆びやすいのです。
 刀鍛冶の方の手入れ法は、油をまず拭き取り、打粉を打って拭き取り、又打粉を打って拭き取り、三度程打粉を打って拭き取り、それから丁子油を塗る、と話されています。

 現代の刀屋さんの方法は、まずティッシュペーパーで油をふき取ったら、ベンジンを綿などにしませて刀身を拭く、一拭きで古い油は拭き取れるので、刀の膚に疵をつける打粉は打たない。次に機械油(ミシン油)を一塗りする事で充分、と話されています。ベンジンや機械油に化学変化の起る危険性は特に無さそうですが、打粉や植物油より良いはずです。油なら何でもと云って菜種油やゴマ油などは乾燥性ですから不向きです。

 刀は武士の魂と云って、武士でもない人が武士の真似をしたがる様な人は従来の侭が好ましでしょう。
 昔の武士はもっとおおらかに新しいものに接し、取り入れていったはずです。現代の武術趣味の方は、懐古趣味と云うより何処かずれていて、世の中の為に役に立つのか疑問です。
 
 上泉伊勢守信綱が柳生石舟斎宗厳に訓示したとされる一文「兵法は時代によって、恒に新たなるべし。然らざれば、戦場戦士の当用に役立たず。また忠孝節義の道を践み行うことはできない。」柳生延春著柳生新陰流道眼、始終不捨書序文より
 
 
 

 

 

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2020年9月20日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の51もののふのいつも身に添え持つ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の51もののふのいつも身に添え

もののふのいつも身に添え持つべきは
        刃つくる為の砥石なるべし

 武士が何時も身に付けているべきものは、刃を立てる為の砥石である。

 この歌で「いつも身に添え持つ」べき砥石の「いつも」とは、合戦に赴く時は当然のこと、卜伝の様に廻国修行を年中している人もでしょう。武士が刀を差して家を出る時は、携行用の砥石を忘れないで持つべきなのでしょう。前回の携行食は冬は「炒り豆」、刀には「砥石」

 切れ味の悪くなった刀の刃を付けることを寝刃といいます。この寝刃を砥石で研ぐために卜伝はいつも持ち歩けと云う、この砥石は円い砥石に真中に穴を開けて紐で吊るして持ち歩くなどの話もあります。寝刃を研ぐ事を「寝刃合わせ」といいます。

 窪田清音の剣法略記の「ねたばの事」原文の儘載せておきます。
 「ねたばとは引けたる刃を附するを謂う。此の称の起る所以を知らざれども猶剃刀の手合せのごとし。戦場には絶えて用ひず。こもりもの放し打等にもねたばを附けざること多し。但ためし等には古へより為せしことゝす。
 刀の刃は引け易きものなれば、引けたる刃を改め、刃業をよくせんとすることにして、引けざる刃には無用のことゝす。据へ物の試み等は折れ屈り刃味を試むる習はしなれば、能く刃を立てゝ斬るべきを例とす。
 ねたばの合せ方は鍛へに応じ、日の程に由り、刃の剛柔に由り、きり(横に刃を附くるを謂ふ)にも、たつ(縦なり)にも筋違にもつくることならひなり。
 其の方先づじょうけんじ砥石を以て筋違につけ次に中名倉砥を以て前のとめを去り、又こまなぐらをかけ、其の後合せ砥をかくるを順とす、然れども少しく刃先の引けしは合せ砥のみ引て刃を立つるなり。
 又ほうのきねたば、炭ねたば等の合せ方あり。其の詳は累々試みざれば知り難し。又砥石、炭などを用ふることなく其の処に有り合せたるものにても、仮りには附くものなり。然れども刃かたく、かけ易きものは砥石に非ざれば能く立ち難し。」

 無双直伝英信流居合の古伝無双神傳英信流居合兵法の「当流申伝之大事」に砥石で研ぐ以前に血糊を拭う話があります。
 「早拭之大事ひえたる馬糞へ太刀を差込候得ば如何様の血糊にても其のまま除き申す也。詮議之時なんを逃る秘すべし秘すべし。亦一伝芋がらを煎じ其汁に奉書の紙を浸して干し上げて後、ヒダを付け、其のヒダに真菰(まこも)の黒焼きを入れ置く也、刀の血を拭うにすき(すぐ)と除く也。久しくして血コガリ付きたるには息を吹きかけて拭う也」
 効果あるのか無いのか、申し伝えです。 
 

 

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2020年9月19日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の50もののふの冬の軍に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の50もののふの冬の軍に

もののふの冬の軍に炒り豆を
      持たずは不覚知らではあるべし
別伝
武士(もののふ)の冬の軍に炒り豆を
      
持たずは不覚得てしあるべし

 武士が冬の軍に臨む際、炒り豆持たずに出たのでは不覚を取るのは当然と知るべきである。
 別伝も同様の解釈で良いのでしょう。

 この歌の何故は「冬の軍に炒り豆を持つ」事とはどの様な理由に依るのでしょう。何せ、くどいようですが武士の食時は一日二回だけにせい、と云いながら出陣前には湯漬を食って行けという、今度は、冬の軍には炒り豆を持てと云うのです。
 炒り豆ですから、間食の食べ物、所謂携行する行動食でしょう、冬と限定して炒り豆を持たなければ不覚を取るとまで言いっ切っています。入炒り豆は大豆でしょう。
 大豆は味噌、醤油の原料としても日本には定着している弥生時代に中国から伝わったと云われています。

 無双直伝英信流の古伝無双神傳英信流居合兵法に「兵糧丸」の作成の心得があります。
「蕎麦の粉、能く酒に浸して日に干し堅め、又酒に浸して堅め、三度酒に浸して仕申す也。
 白米粉に而
 人参和人参吉
 たとえば蕎麦粉三匁に白米一匁、人参も一匁を交ぜ合わせ、直径三分位に丸目、米の粉を衣に懸けて良く干し堅め持つべし。一粒服すればニ三日飢えず、是を食する時は気力常より強く、勇力大いに増す也。蕎麦粉を仙粉と云う。米を寿延と云う。但し糯(もちごめ)大いに吉。
 平常の用心には人参入れずしても吉、旅行等に用意すべし。」

 この様な兵糧丸は、言い伝えで江戸武士も知って居たと思いますが、大豆を炒ってそのまま持参するのは簡単で良さそうです。蛋白質もとれるし、ぼりぼり噛むのも心を落ち着けそうです。

 卜伝の軍の場に臨む食事は、食事らしい食事は一日に二食とする事。いざ出番の前に湯漬けを一杯かき込め、携行食は冬は炒り豆が良いと言って居ます。冬以外の携行食はどうなってしまうのでしょう。他の季節でも炒り豆でいいとは思いますが。

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2020年9月18日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の49もののふの軍の場(にわ)に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の49もののふの軍の場(にわ)に

もののふの軍の場(にわ)に出る時
       湯漬けにしくは無きと知るべし

 武士が戦場に赴く時には、湯漬けを一杯食して行くに越したことはない。

 へそ曲がりなので、前回の歌を直に思い出してしまいました。「もののふは妄りに食をせぬぞ良き日に二度ならで好みはしすな」でした。日の出と共に起き出して、朝飯を食べて敵情を見るにまだ突き込んで来る様子が見られない。「いざ!」という時に湯漬け一杯を流し込んで駈けだして行く。そんな光景が浮かんできます。
 「一日二度しか食べるなって言ったのにな~。朝飯が湯漬けじゃな~」

 朝飯は一日の大切なエネルギーとなるはずです。ご飯二杯に干物、みそ汁一杯、たくわん。「いざ出陣」の時湯漬け一杯にたくわん。兵糧丸はここぞと云う時に一粒。
 そう云えば、若い時に登山をして居ました。朝食はお米のご飯に味噌汁、おかずは漬物と干物位。昼飯は無しで夕食はカレーライス、か、ごった煮。登山中は携行パックを日数分用意し、随時チョコレート、ビスケット、アメなどを口に入れて歩いたり、岩を攀じたり。何か似ている。

 
 

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2020年9月17日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の48もののふは妄りに食を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の48もののふは妄りに食を

もののふ(武士)は妄りに食をせぬぞ良き
         日に二度ならで好みはしすな

 武士は、むやみに食をとらないのが良い、日に二度以外には好きな時に食べるものでは無い。

 武士の食事は一日に二度で良い、食べたいときに食べるものでは無いというのでしょう。二度と云う事ですと朝と晩で、昼は食べないのでしょう。
 「日に二度ならで好みはしすな」、適当な時に食べないで決まった時間に食べるのだと云うのでしょう。「食べ物の選り好みをするな」とも聞こえて来そうですが、この歌も卜伝の戦場往来の経験から得たものなのでしょう。
 戦場では明るくなってから起きて朝食をとり戦いの場に出る、暗くなったら互に引いて夕食などと云う事が約束事とはあり得ないでしょう。それとも朝飯前の一稼ぎをして遅い朝食、当日の状況で引くなり叩いて置いて夕食、どれも定時は無理のようです。
 人の食と健康を考えると朝・昼・晩の三食が医学的には好ましいとか、戦場で戦うともなれば「腹がへっては戦はできぬ」というように、消耗したエネルギーは随時補う事も良い方法でしょう。
 卜伝の経験値なのか昔からの言い伝えなのか、このまま受け入れる気にはなりません。「腹八文目」にしておかないと、満腹では動作も鈍ると云われますが、そうであれば間食の必要性は高いでしょう。何事も、自分の体で試してみて一番よい方法を自得すべきでしょう。その方法が守られない状況は有り得るのですから、想定によって稽古をしてその時どうなるか経験して置くのはやるべきでしょう。
 戦争は異常時です、その中で常に平常の身心を維持する事が出来るとすれば、起きた時に一食、寝る前に一食、間は兵糧丸などでつなぎ空腹に陥らない様にして、軍に集中する事かも知れません。

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2020年9月16日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の47置く刀夏は枕に冬は脇

道歌
6、塚原卜伝百首
47置く刀夏は枕に冬は脇

置く刀夏は枕に冬は脇
      春秋ならば兎にも角にも

別伝
夏冬を知らで立置く太刀刀
      かならず不覚あるとしるべし
*
刀を置いて寝る時は、夏は枕許に横にして置く、冬は布団の脇に置く、春秋ならば兎に角いずれでもよい。

別伝
夏冬の太刀刀の置く位置を知らずに、壁に立てかけて置くのでは、必ず不覚を取るであろう。

 刀を置いて眠る場合の春秋の位置に就いて、指摘しています。何故その様にすべきかが解説されていないので自分で研究して見る以外知り様がありません。
 枕許、左右の脇、それらの柄の位置など研究した上で、季節による違いを認識して自得せざるを得ません。
 卜伝が言うのだからと云って素直に受け入れる人も居るでしょうが、その様な気持ちは持ち合わせていないので困ったものです。

 別伝などはもっと不可解なもので、太刀刀の置く位置を知らずに立てて置くなどとんでもない、不覚を取るであろうというのです。
 夏冬の違いも別伝にはこの歌では何も歌わず、寝る時か起きている時かもわかりません。
 同じ信友の書写した別伝には47首目に「置く刀夏は枕に冬は脇春秋ならば兎にも角にも」と48首目に「夏冬を知らで立置く太刀刀必ず不覚有ると知るべし」と並べられています。二首で歌っているのでしょう。二首で歌っても「何故」の答えは読めません。
 どこが尤も良い位置なのか、解ったとしても、時と場合で其の位置に置けない事もある。何処に有ろうとも即座に取って抜刀できる状況になる工夫の方が良さそうです。
 更には、無刀で応じられる稽古もすべきものでしょう。
 日中でも人と接する場合、目上の者には座した右脇、同輩や下級の者には左脇等の決まりを稽古でしてきましたが、其の抜刀については殆ど稽古されていないものです。水鴎流に有ったと記憶しています。

 卜伝のこの歌から、決まりは有っても無い様なもの、時と場合でどのように始末しておくのかよく考え、対応しなさいよと云われている気がします。
 マニュアル人間には兵法ではなりたくないものです。
 

 

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2020年9月15日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の46草摺と蓋手(こて)臑当と脇立は

道歌
6、塚原卜伝百首
6の46草摺と蓋手(こて)臑当てと脇立は

草摺と蓋手臑当てと脇立は
     好み好みに兎にも角にも

 草摺(くさずり)と蓋手(こて)臑当(すねあて)と脇立(わきだて)は、好きなようにすればいい。

 鎧の部位の名称が上げられています。広辞苑を参考にしてみます。
 草摺とは、鎧の胴の下に垂れた大腿部の被護物。大鎧では騎馬の際の防護で前後左右の四間草摺、徒歩武者は胴丸の開発に随い歩きやすい八間草摺に変化して、卜伝のころは八つに分割された八間草摺が普通だったと思われます。雑兵は草摺無しであったようです。

 蓋手は籠手、肩先から左右の腕を覆うもので、布帛(ふはく)の袋をつくり鎖、鉄金具をつけて仕立てる。

 臑当は膝から下踝までをおおう武具。鉄または皮で作る。

 脇立は兜の鉢の左右に立てて威容を添える装飾。

 大鎧を参考に解説されている様ですが、日本の甲冑は大鎧を元に改良されていったと云えますから充分でしょう。但し雑兵の鎧はかなり簡略化されていた様です。
 卜伝の歌の対象は上級武士を描いているようです。卜伝の死後鉄砲が伝来し戦闘に用いられ、関ヶ原の戦い迄30年そこそこですから当然鉄砲対策の当世具足も南蛮具足も知らない事になります。

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2020年9月14日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の45いつとても鎧の下の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の45いつとても鎧の下の

いつとても鎧の下の肌巻は
       綿入る絹にしくはなかりけり

 いつであっても、鎧の下に着けるは肌巻(ふんどし)は、綿の入った絹の布に変わるものは無い。

「肌巻」とは、はだおび、ふんどし。
 木綿の到来は、8世紀に入って来ているのですが定着せず、戦国時代になって輸入品として定着して来たとされています。絹、麻、カラムシ、木綿などの中から動物性繊維は絹で高価であっても膚には良いものだったのでしょう。「綿入る絹」は綿は綿状のものの総称で、此処では真綿から織った絹のふんどし、吸湿性もあって肌着には最適と云われる。
 この内容はNETで調べた程度のものです。ミツヒラは繊維や衣類については専門的知識はありませんので、興味の有る方は其の道の専門家にお尋ねください。



 

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2020年9月13日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の44心ある昔の人の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の44心ある昔の人の

心ある昔の人の着し鎧
     胸板ばかり札(実 さね)厚くせり

 心得のある昔の人が着ていた鎧は、胸板の札を厚く作ってある。

 卜伝の云う昔の人とは何時頃の人で其の鎧とはどの様な鎧なのか特定できません。胸板の札を厚くするのは矢で射られても貫通して心臓に到達しない目的でなされている筈です。
 鎧の歴史を駆け足で勉強して見ました。
・弥生時代 短甲といわれるもので胴を守る金属製のもの、兜、草摺、肩鎧、籠手、脛当てなどもそろい、古墳の埴輪から伺い知ることが出来る。
 革や鉄の小札を繋いだものも出来始めてきている。兵士たちはコート状の布に革や鉄片を綴じ付けたもの綿襖甲を着けていたと云われます。
 現存しているものは見た事もありませんし、鎧の呼称などは後世の人に依るのか解りません。
・平安時代 弥生時代の延長上で改良が為されていたでしょうが、武士階級の台頭により現在見ることが出来る大鎧が平安末期には出来上がっています。大鎧は騎馬戦に対応したもので馬上での騎射や片手打ちの太刀に対する全身防護鎧。徒歩武者は昔からの軽装の胴丸を着用していた。平安末期には軽く着用が容易な胴丸に兜、袖、籠手、脛当をつけ、元々胴丸に附属していた草摺と共に上級武士も着るようになった。
・鎌倉時代 戦闘方法が変化し騎馬の武士に対し、下級の徒歩武者が増え、上級武士も馬上から降りた白兵戦向きに胴丸が主流になって、大鎧は権威の象徴となって行く。
・南北長時代 胴丸が更に簡略化され腹当、腹巻となって背中の開いた胴の前を防護する鎧に変化して行く。更に札の縅方も小札を横に縅していく毛引縅から、間隔を荒くし縦に並べる素懸縅に簡便化された。
・室町時代 更に、小札を縅すのではなく、一枚板を使った板札を並べて行く。
・室町時代末期 南北朝時代後半から簡略化して徒歩による白兵戦、鑓の使用などの戦闘の変化に合わせ変化して来た腹当、素懸縅、板札による時代は、鉄砲の伝来から其の使用によって当世具足へと変わってゆく。(笹間良彦著「図説甲冑のすべて」を参考としたネット情報より)
 甲冑とその兵法については、特段の興味は持ち合わせていませんので、不十分な処はご容赦ください。

 卜伝の歌う鎧とは、大鎧は既に象徴として着られたとしても、実戦では胴丸の簡略化された、毛引縅か、腹当あたりを指すのかと思います。其の胸の辺りを厚手の小札で威すか、板札の胸の辺りを厚板にする事だろうと思います。
 大鎧の胸当ては左右に有って、左脇を覆う鳩尾板(きゅうびいた)、右脇を覆う栴檀板(せんだんいた)でカバーされています。 
 
 

 

 

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2020年9月12日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の43鎧をば其色々に縅とも

道歌
6、塚原卜伝百首
6の43鎧をば其色々に縅とも

鎧をば其色々に縅とも
     たゞ手軽きにしくはあらじな

 鎧を色々の色の糸や革紐で札(実)を結んだとしても、たゞ手軽に着用できることにお及ぶことはあるまい。

平安・鎌倉をへて南北朝辺りまで、鎧の札を縅す紐を草木で綺麗に染め、赤糸縅とか、美しく仕立て上げる風潮があったのでしょう。平家物語などでも語られ賛美されたのでしょう。室町時代に入ってもその風潮は残って雑兵にも広まっていたのかも知れません。
 卜伝は鎧で己の身分や地位を誇示する個人戦から集団戦に変わりつつある時、きらびやかな事よりも実用性を語ったのでしょう。

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2020年9月11日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の42甲をば軽く手軽く真甲の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の42甲をば軽く手軽く真甲の

甲をば軽く手軽く真甲の
      実の厚きを好み着るべし

 甲(兜 かぶと)は軽くて手軽で真向の実(さね)が厚いものを着るのが良い。

 鎧兜の兜の良し悪しを述べています。軽くて手軽に被れ、兜の鉢の真中の板が厚いものが好ましい。と云います。

 兜の変遷も調べて見ると面白そうですが、そちらの趣味の方にお任せしておきます。
 古墳時代の埴輪にも甲冑を着た武者が埋葬されて素朴な姿に懐かしさを感じます。平安・鎌倉時代の大鎧、南北朝時代から室町末期までの鑓、長刀など武器に対しての対応と集団戦法への変化が読み取れます。
 武器と其の防具の開発は現在でも限りなく続いているのです。
 然し、国境なきコロナウイルスのようなものの攻撃に対し人類の対抗すべき相手は、同じ人類では無い時代に突入したことを強く感じます。

 やるべき事は人同士の殺し合いの武器の開発者やそれを駆使する軍人の手には負えないものであろうと思います。更には、限られた区域の為政者の権力維持の為の旧態依然たる思考にも手を付ける時代とも云えるのでしょう。麒麟は来るのでしょうか。
 
 

 

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2020年9月10日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の41長き柄の鑓は短くする

道歌
6、塚原卜伝百首
6の41長き柄の鑓は短く

長き柄の鑓は短くするとても
      其時々に障りあらじな

 長い柄の鑓を短くしたとしても、其の戦いの時々の状況によっては障りはないだろうな。

 鑓の柄を短くしても差し支えないだろうと思うよ、と解釈したのですが、この頃の文書の解釈として正解であるかはなんとなくスッキリとはしません。
 前回(6の40)の歌が「鑓の柄は長きにしくは無きとても所しらずば不覚たるべし」でした。
 卜伝の「其時々に」があくまでも個人対個人の戦いならば、鑓が長かろうが短かろうが場に応じたものであれば問題は無いでしょう。兵法の極意は、心を静め相手の動きに応じて新陰流ならば「色付色随事」、相手が動かなければ、動くように仕かけて動いた処を打つ、鑓の場合は突く。
 是が、集団戦法で槍衾を作って攻め込む場合では、まちまちの長さより統一した長さで尚且つ相手集団も鑓隊であれば、長い方が有利かもしれません。
 卜伝のこの歌は一対一の個人戦を私は想定して、相手の得物が太刀であろうと薙刀であろうと鑓であろうと、自らの手に合う鑓であれば十分であり、後は相手より力量が勝っているか否かであろうと思います。但し前回の歌による、場所次第による考慮は欠かせない事をも意図していると思われます。
 卜伝百首で何を示そうとしたのか、時々疑問に陥ります。

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2020年9月 9日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の40鑓の柄は長きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の40鑓の柄は長きに

鑓の柄は長きにしくは無きとても
      所しらずば不覚なるべし

 鑓の柄は長いものには及ばないとしても、戦う場所の状況を知らなければ不覚を取るであろう。

 鑓の穂先も「槍の穂の長きにしくは無きぞとて其身重きは不覚なるべし」と歌っていました。穂先の長さが三尺に近いものも大身鑓では残されている様です。
 此度は槍の柄の長さが、相手より長いものが有利というわけですが、所によっては長さが仇になる事は充分あり得ます。木の枝はもとより地形にも左右されそうです。

 戦国時代の槍衾を作り突き懸けていく集団戦では二間鑓3.6m三間鑓5.4m、信長は三間半6.3mと長く、この長い鑓で多人数を以て鑓衾を組んで攻め込まれると壮観だったでしょう。
 卜伝の歌の鑓の戦いは、集団戦を指しているのか一対一の試合を意図しているのか、説明されていませんし、長柄の鑓は戦国時代後半の戦法の様ですから廻国修行などで持ち歩くなら九尺鑓か二間鑓位が、持ち運びにも鑓術を繰り出すにも適当だろうと思います。 

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2020年9月 8日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の39羽なくて空に走り登る

道歌
6、塚原卜伝百首
6の39羽なくて空に走り登る

羽なくて空に走り登るとも
      手さえぬ鑓に勝はあらじな
別伝
羽なくて空には得てし登るとも
      手さえぬ鑓に勝はあらじな

 羽もなのに空には走り登る事が出来ても、手の冴えない鑓にでは勝事はないであろう。

 別伝の「得てし」は、ともすれば。ややもすれば。よく。ですから、「ともすれば登る」で祐持の書写と心は同じでしょう。羽が無いのに空に登ってしまう程のすばしこさが有っても、鑓の腕前が冴えないのでは勝てる訳は無い。と云うのですが「手さえぬ鑓」で冴えた鑓使いが見えて来ません。
 鑓は戦闘の道具でもあったでしょうが、一般では獣を捕獲する道具であったはずで、すばしこい獣を突き刺して仕留める事は猟師ならば可能でしょう。然し人との対戦では、相手が刺突の速さが上回っている、或いはより長い、突いたら叩き落されて逆に突かれるなど、長物の闘争術が必要でしょう。
 鑓は刺突の武器とばかり思って、その直線的操作での稽古形はそれらしいのですが、決められた演武形は形だけならば難しいとも思いませんが、棒や薙刀、太刀の操作も知るべきでしょう。 そんな事を歌っている様にも思います。

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2020年9月 7日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の38鑓の穂の長きに

道歌
6、塚原卜伝百首
6の38鑓の穂の長きに

鑓の穂の長きにしくはなきとても
                   さのみ重きは不覚なるべし

別伝
鑓はたゞ刀に合わせ持ぬべし
       尺に余れる穂はし好みそ

 鑓の穂が長い事には及ぶものは無いとは言え、むやみに重いものは不覚である。
 
 別伝
 鑓の穂は単純に刀に合わせ持たないのである、尺を越える穂は良いであろう。

 鑓は有史以前から使用されていたことは知られています。木、竹、石、銅、鉄と変遷して一般庶民が動物や魚の捕獲に使用されていた。同時に戦いにも使われていた筈で突く事を目的にしていますが叩く効果も大きかったでしょう。
 日本では鉾(ほこ)・矛・戟・鋒などの文字があてられ「ほこ」とよまれています。やりは鑓は槍の字ですが「ほこ」とも読むのもある。
 鉾と鑓に区別は、現在では穂を柄の上から被せるものが鉾、柄に茎を差し込むのを鑓と区分けしているけれど、何れも刺突の道具であって使い勝手では意味は無さそうです。
 平安、鎌倉時代には鉾、鑓に関する記述は顕著で無いのは、私見では貴族や武士の持ち物では無く下級の兵士や従者の持ち物で、名のある武士の持ち物では無かったのではと思います。薙刀なども同様の事を推察します。その頃の戦では一騎打ちのような目立ったことを興味本位に書き込んであるようで、当然一騎打ちの前後に雑兵の白兵戦もあっただろうと思います。武将が長刀を揮う時代は室町時代前後からで、鑓による戦闘方式が表面化するのは室町時代に入ってからが顕著でしょう。槍を揮う武将の物語は、雑兵から出世した武士などからより広まっていったとも思います。この辺の整理は小笠原信夫著「日本刀日本の技と美と魂」を参考にさせていただきました。

 という事で、雑兵による鑓の集団戦は卜伝の頃から見られたでしょう。
 鑓は刺突する事が目的でもあり、相手を叩くことを考慮すれば、穂先が長い事は打撃の効果は大きい筈です。然し重くなってしまうのでせいぜい一尺程が妥当だろうと、歌っているのだろうと思います。

 卜伝百首も書かれてから年月が過ぎると順番の入れ替わりや、文言の違いも起こる様です。この歌も別伝とは異なります。
卜伝百首の参考資料を紹介しておきます。
1、此処での藤原祐持の書写した卜伝百首は弘前図書館に収蔵されているもので慶応2年8月1866年のものです。綿谷雪先生によるもの。
2、別伝としたのは、田代源正容の写しによるもので天保10年1838年のものになります。
3、今一つの別伝は今村嘉雄編者代表の日本武道全集第2巻の卜伝百首で加藤相模守藤原信俊の元亀2年1571年に原本から書写されたものを天明6年1786年に信俊の孫によって書写され沢庵の序文の入ったもの。この写本がいくつか現存すると思われます。
 元亀2年1571年は卜伝が第三回の修行より戻り、没した年でもあります。


 

 

 
 

 

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2020年9月 6日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の37太刀刀持たる敵に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の37太刀刀持たる敵に

太刀刀持たる敵に小長刀
      しすます(為済ます)時に相打と知れ

 太刀や刀を持った敵と対する時に、我は小長刀を持って応じる、「しすます時(為済ます時)」に相打と成ると知れ。

 祐持によるこの歌の下の句の書写の文字は「志春満須時耳」の草書体です。通常の読みでは「しすます時に」か「しずます時に」になります。
 「しすます時に」とすれば「為済ます時に」ならば広辞苑では、しとげる。なし遂げる、なし終る。まんまとしとげる、うまくやる。

 卜伝の歌心は「太刀や刀を持った敵に小長刀で打ち合っても、うまくやれても相打ちが精一杯だと思いなさい。」前二首と合わせ考えるとこんなところでしょう。
 いずれにしても小長刀では長所は生かしきれないよ。と歌っているのでしょう。
 北条五代記に長柄刀の優位性に関東では太刀、刀の柄を長くするのが流行ったと記されています。一寸でも柄が長ければその分有利と広まったそうです。居合の始祖林崎甚助重信(林崎かん介勝吉)・田宮平兵衛業政(成政)の教えと北条五代記は述べています。
 卜伝は27首目(2020年8月27日掲載)に「柄はたゞ細く長きを好むとも、さのみながきはまた嫌ふなり」を歌い、柄も長さは程々が良いと歌ってきました。
 小長刀も大薙刀も、流行り出した長柄の鑓も卜伝は良くは言わなかったのでしょう。 

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2020年9月 5日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の36手足四つ持たる敵

道歌
6、塚原卜伝百首
6の36手足四つ持たる敵

手足四つ持たる敵に小長刀
      持て懸るとよもや切られじ

 手足の四つが健全な敵に対し、小長刀を持って懸るとまさか切られる事はあるまい。

 この歌は「手足四つ持たる敵」は、手足健全な敵と読めばいいのでしょう。敵の武器の特定も、歌からは読めません。
 上の句を敵についての状況であるとすると「手足四つが健全な敵に(が)小長刀」でそれを「持って懸ってくると」と読めます。
 それでは我は「よもや切られじ」ですから、「我は何故切られないの」と其の何故が見えません。
 前出の和歌は「長刀は二尺に足らぬ細身をば持つは不覚のあると知るべし」で、今度の歌では敵は「小長刀」ですから二尺(兵具雑記では二尺三寸以下)に足らず敵は不覚を取るはずなので、我は、斬られる事はあるまい。

 手足四つの健全な敵が小長刀を所持して懸って来る、よもや切られる事はあるまい。

 そのように解せるのですが、我はどのような武器で応じるのか読めません。前出の和歌の卜伝の故事により二尺九寸の太刀で応じる、のでしょうか。
 
 冒頭に掲げたこの歌の解釈は「手足四つが健全な敵に対し、我は小長刀を持って懸るとまさか切られる事はあるまい」としておきました。しかし、それでは前出の歌の解釈では、我は不覚にも敵に斬られてしまうはずなのに、「何故切られないの」と云われてしまいます。敵は健全な手足を持つ優れた兵法者であれば無刀でも長刀には応じられる筈です。
 前出の歌と今回の歌ともに、卜伝の三十七たびの戦場往来、或いは十九度の試合による実戦経験から示された教えと云われますが、「何故」の問いには歌は語ってくれてはいません。お前が未熟だから歌われていない心が読めないのだろうと云われても、卜伝の兵法が残されているわけでは無いので「凄い人だったのだろう」とは思う事としてもそれ以上はトレースできません。
 
少年の頃に、卜伝を讃える話は手に汗握る楽しい講談本でした。(大日本雄弁会講談社編著「塚原卜伝」、中山義秀著「塚原卜伝」)

 

 

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2020年9月 4日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の35長刀は二尺に足らぬ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の35長刀は二尺に足らぬ

長刀は二尺に足らぬ細身をば
      持は不覚の有ると知るべし

 長刀(なぎなた)は刃渡り二尺に足らない細身を持つのは、思慮が足らない事と知るべきである。

 この「長刀」は、薙刀、長刀、胴突刀。ここでは「なぎなた」と読んでいます。
「不覚」とは、精神のまともでないこと、正体もないこと。思慮のゆき届かないこと、不注意であること。卑怯なこと、臆病なこと。思わず知らずすること。広辞苑より。

 卜伝の云う「長刀」がどのようなものであったか、綿谷雪著「図説古武道史」では「薙刀」は刃の長さ二尺三寸以上を大薙刀、以下を小薙刀といい、柄は持ち手の耳の下から足もとまでが普通の標準であった=「兵具雑記」。卜伝は薙刀をつかうときは刃長二尺五寸ほどの大薙刀を用い、小薙刀の価値はみとめない。そのころ薙刀の名人といわれた梶原長門と武州川越で戦ったときも、門人どもが心配して試合を避けるよう忠告したが、梶原が一尺四、五寸の小薙刀をつかうと聞いて卜伝は、「三尺の刀でさえ思うように人は斬れないでないか。一尺四、五寸の小薙刀に斬られるようでは、斬られるほうが弱過ぎるのだ」といって、二尺九寸の刀で試合場に出かけ、何の苦もなく梶原をたおした=これも「武具要説」山本勘助談。と引用されています。

 この、卜伝の逸話が全てを物語って居るわけでは無く、卜伝の力量がそうさせたと云えるでしょう。兵法はその人の生まれながらに持ち合わせている、事に応じる認識度合いによるのでしょう。師匠についてその度合いを更に磨き上げたり、師匠の考えや癖を取り込んでいく、それが習い・稽古・工夫によるものなのでしょう。すべてを真似したのではきっと負けばかりでしょう。

 薙刀(長刀)の生まれと、その武器としての形状、使用法についての歴史的経過や容易に刃長二尺を越える物を見る機会もないのでよくわかりません。
 槍と同様に古くは雑兵の持ち物で、戦闘方法が変化して行くにしたがって、地位の有る武士にも持たれたのかも知れません。
 卜伝の刀の長さにこだわる考え方は、戦場での集団兵法のありかたによるところに由来しながら、卜伝そのものは個の技量を高めていったように思えます。後の新陰流を興した上泉伊勢守信綱から柳生石舟斎宗厳による無刀の考え方とは、卜伝百首からはまた一味異なるものを感じます。

 

 

 

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2020年9月 3日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の34目貫にはゆゝしき習い

道歌
6、塚原卜伝百首
6の34目貫にはゆゝしき習い

目貫にはゆゝしき習いあるものを
       知らで打つこそ拙なかりけり
別伝
目釘にはゆゝしき習いあるものを
       知らで打つこそ拙なかりけり

  目貫の装着には昔からの仕来たりが有る物を、知らないで打つことは愚かな事である。
別伝
  目釘の装着には昔からの仕来たりが有る物を、知らないで打つことは愚かな事である。

 目貫と目釘は戦国時代以前の太刀拵えでは同じものだったかもしれない、との話もありました。目貫を柄糸の下若しくは上に装着するのにはズレない、外れない、手の内の違和感をもたらさないなどゆゝしき仕来たりがあったでしょうし、現代拵えでもその道の達者のものと粗製乱造の模擬刀のものとは異なります。
 是も卜伝の時代には戦場で破損した柄などは、下級武士は自分で補修していたかもしれません。拵え師でも柄と茎を繋ぐ穴の位置は刀身のバランス上何処にどの角度でなど、細かい教えもあったかもしれません。柄巻の無い太刀などには目貫と目釘が一体であったものもあるように聞きますからその貫通のさせ方には特別な習いがあったのでしょう。
 江戸時代には、刀の長さが決められてきましたから、新しい刀は兎も角、戦国期の刀を長さ調節の為摺上げが行われたものも見られます。それらの古い目釘穴は摺上げられて無くなって居たり、形勢が残っていたり、古いものはそのままに新しい穴を穿たれていたりします。古いものが残って居る茎の穴の位置を見ても、何故そこに、という様なものもあって、「摺上げだから」位で置き捨てていますが、答えのない興味の湧く處かも知れません。
 真剣をもって激しく打ち合う事の無い現代では目釘の位置まで気を廻す素養が失せているかもしれません。せいぜい目釘の弛みをチェックするのが精一杯です。

       

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2020年9月 2日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の33目貫にはたゞ生き物を好べし

道歌
6、塚原卜伝百首
6の33目貫にはたゞ生き物を好べし

目貫にはたゞ生き物を好むべし
      二足四足の習い有けり

 目貫に使用するデザインはもっぱら生き物を好むべきである、二つ足、四つ足による秘事があるものだ。

 「たゞ」は、それであってほかではない意を表す。多く「のみ」と対応して用いられる、単に。その事が主となっている意を表わす、ひたすら、もっぱら、全く。わずか、たった。ただし、しかし。
 「習い」は、なれること、しきたり、習慣。世の常、きまり。ならうこと、学ぶこと、学習、練習。口授されて学ぶべき秘事など。(広辞苑より)

 目貫のデザインについては、現存する物を見ても特に生き物それも鳥や獣ばかりではなく、爬虫類もあれば花、家紋などもあるものです。
 卜伝は特に「生き物を好むべし」と云うのですから、植物も生き物と云いたい処ですが、「二足四足」と下の句にあるので鳥や獣位に絞ったのかとも思えてしまいます。
 何故そのように絞ったのかの理由は「口授されて学ぶべき秘事」があるものだと奥深そうに読んで見ました。
 柄に装着された目貫を見ながら、目貫は短くて高い(厚みのある)ものはダメで長いのがいい、次はデザインで鳥か獣と特定しているようで、そこまで厳しくチェックするほどの事を理解出来ている現代武術家と自負される先生はおられるのだろうかと首を捻ってしまいます。
 目貫は清水橘村著刀剣全書によれば「目貫なるものは、目貫穴を貫きて其柄の抜けぬやうに止める料である・・目貫に対して目釘と云ふものがあるが、これは往昔は目貫と同じものを謂ったらしいが、何時の代よりか全然別のものとなってしまったのである」
 卜伝の時代は、戦闘方式の変化により、太刀から打刀への変遷があり、柄の有り様も変わっていったと云えます。その上戦いの無い平和な時代の江戸時代には刀は武士と云う地位の象徴となってしまったのです。現代では地位の象徴である刀を以って居合など稽古し人前で演武しているばかりですし、一般の剣道家も竹刀剣道か木刀による江戸期を古流とする形に留まるにすぎません。
 目貫の存在が歴史の中に埋没してしまったとしても、仕方のない事なのでしょう。

 日本刀の本身を使って居合の稽古をしています。はじめは刀屋さんから拵え付きの刀を求めるなりお仕着せのものでも、何の疑問も持たずに我が身を合わせる様にして稽古をして来たものです。
 家伝の刀も拵えは既に消えはててしまい、或いは破損して見るに絶えない。あるは軍刀に変わってしまいなど其の儘では稽古に向かない。目貫なども無くなって刀身は錆だらけです。
 一振り研ぎに出し、拵えを作ってもらえば、小道具込みで30万~40万円は飛び出て行きました。熱心に稽古すれば痛むのも早いもので柄は汗と油とともに擦り減って来る。鞘もいつの間にか鯉口が削られ甘くなる、塗りは当たり疵で情けなくなる。
 一念発起して、自分で柄を革巻きに直し、目貫も骨董屋さんの店頭で見かけた素朴なものを買い求めて付け替え、鞘も鮫革を張って塗装し直すなどやって、細かい所は兎も角一腰モデルチェンジさせて見たものです。
 既に何年も一日も欠かさず稽古して来ましたが何ら不具合を感じません。卜伝百首を読み解きながら、道場での空間刀法による居合の稽古では刀の良し悪し以前の運剣の術理の良し悪しすらおぼつかない、藁など据え物を切って見ても同じ事です。
 戦場で刀を以って命を懸けて戦い抜く事とは全く異なる事で、現代を生きる者には理解できない事を、卜伝は歌っているとしか言いようは有りません。
 
 
 

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2020年9月 1日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の32目貫をば長きを好む

道歌
6、塚原卜伝百首
6の32目貫をば長きを好む

目貫をば長きを好む方はよし
      短く高き目貫嫌えり

 目貫の長いのを好んで柄に添えるのは良いが、短くて背の高い目貫は好ましくない。

 この歌の祐持写しは「長きを好む方はよし」と書写していますが、別本は「目貫をば長きを好うてはらて短き高き目貫きらへり」と読んでいます。
 卜伝百首の原本は現存しているのかいないのか不明です。それなりに卜伝百首が読まれていますので参考にしながら勉強しているのですが、別本の「好うてはらて」は私には「長いのは良い、腹て短く高い目貫は嫌う」と読んで見ますが「腹て」とはでつまづきます。
 卜伝の実戦から身に覚えた良し悪しですから、其れなりにと思いますが、和歌の短い文章ではすべてを語り切れていないために泣かされます。「卜伝の刀の柄巻は菱巻を嫌って、革紐を平に巻き付けた柄巻に目貫を柄巻の上に添え柄紐で押さえ漆で固めた」のかなと勝手に想像してしまいます。
 其の為柄を握った時、目貫が短く背が高いと手の内に違和感があり、斬撃の際に影響するのかなど思いめぐらします。

 卜伝の言いたいことが聞こえて来ないのは、室町時代中期から末期の日本史レベルの情報はあっても、刀剣に関する情報は細切れの「刀身・鎺・切羽・鍔・縁金・淵頭・柄・鮫革・革糸・目貫・目釘」などが主で、それも部品ごとの材質やデザインなど細切れ情報に過ぎません。

 戦う際の柄の太さや、長さ、固さ柔かさ、柄手の握方などの情報が無い。部品から読み取れと云っても無理でしょう。読み取るには卜伝の業技法に通じなければ読み取れません。
 刀装具としての部品の材質や形、芸術性は十分あっても、兵法の有り様は、それでは読み切れないものです。
 戦国期の部品類は江戸期にも、多少色香が変わっても同じ部位に使用されているのですから、其処から夫々の流派の極意業を持って読み取ることになるのでしょう。
 

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