道歌6塚原卜伝百首6の92もののふの迷う処は何
道歌
6、塚原卜伝百首
6の92もののふの迷う処は何
・
もののふの迷う処は何ならむ
生きぬ生きぬの一つなりけり
*
武士が迷う処は何かと云えば、生きよう生きようとするそれだけである。
山本常朝の葉隠では「武道の大意は何と御心得候や、と問い懸けたる時、言下に答ふる人稀なり。かねがね胸に落着きなき故なり。さては、武道不心掛の事知られたり。油断千万の事也。武士道といふは、死ぬ事と見附けたり・・」と冒頭から語られています。
常朝といえば、鍋島藩の侍で鍋島光茂に仕え、追腹禁止令の先駆けを寛文元年1661年に光茂が出している。追腹した者の子を取りたてるべき状況が既に無く、平和な時代には、かえって弊害の方が大きくなりだした。其の後寛文3年1664年には幕府によって全国的に殉死禁止令が公布されている。
山本常朝は追腹を許されず隠居し田代陣基と出合い葉隠が残された。鍋島藩は柳生但馬守との関わりも強く小城の鍋島元茂は兵法家伝書を相伝している。その相伝の元茂の代理で山本常朝の叔父村上伝右衛門が柳生宗矩から受け取っている。(黒木俊弘著肥前武道物語より)
常朝の武士道は二つに一つを選ぶなら迷わず死を選ぶのが武士道と決めつけ、今の侍は心が坐って居ないという。潔く死ねるのは祖先の名誉を汚す事無く子孫に花を持たせてあげられる時、現実性があるかもしれません。然し追腹禁止とは、追腹した家臣の子弟を取り立てる事がむしろ弊害と解って来た武士社会の変化によるもので、追腹したとて何も残せない時代と成って来たことを表しています。
出来の悪い子弟に役目を引き継がせるよりも、出来の良い若者を新たに採用した方が良いに決まっているでしょう。
卜伝の嘆きも時代に乗り切れない彼の潔く死を選ぶ安易なものでは無く、「生きる」生きている間に夢を追って望みを遂げようとする、武士が公家の下に置かれていた時代から、本格的な武士社会の到来した事を表している様な気がします。
現代でも、武士道精神などと云って、葉隠れにあこがれ意味不明な懐古趣味の「おっさんたち」がいるようですが、武士道精神も時代と共に動かなくてはならないのでしょう。封建的な上から下を見る社会に於て、上が望む事に下が合わせる事で、生き死にの基準を求めた社会が常朝の立場であり思想でしょう。
卜伝は、小さいながらも城主でもあった様ですから、それと、兵法者として生き残る事は思想の根底に無ければ成り立たないと思うのです。臍を曲げて「生きぬ生きぬ」は「死ぬ死ぬ」だと読むのも一つでしょう。その時の「死ぬ」は何でしょう。
コロナウイルスの緊急事態宣言によってステイホームを要求され、自宅勤務による多くの変化が明らかに見えて来ました。
企業の存在は場所では無く、そこへ行かなくとも企業活動に関われること。残業や早出の評価より業務達成度の方が大切な事。学校に行かなくとも勉強が出来る事。通勤通学の電車の混雑やエネルギー消費の無駄が無くなる事。高い事務所費用もその周辺の住宅街の集中などの緩和も。さがせばいくらでもでてくるでしょう。
反面同僚とのかかわりが薄れ、所属意識が低下する。人間関係が企業人関係から新たに作られるなどなど。
生産工場ではロボット化・機械化・AI化の促進によって出勤日数や時間の短縮なども夢ではない。
それは、今までの常識である、ある特定の場所に参加する人が集まって事を為すのではない時代を要求されたことに外ならない。
ミツヒラ 思いつくままに(2020年5月21日書之)
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