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2020年10月

2020年10月31日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の92もののふの迷う処は何

道歌
6、塚原卜伝百首
6の92もののふの迷う処は何

もののふの迷う処は何ならむ
       生きぬ生きぬの一つなりけり

 武士が迷う処は何かと云えば、生きよう生きようとするそれだけである。

 山本常朝の葉隠では「武道の大意は何と御心得候や、と問い懸けたる時、言下に答ふる人稀なり。かねがね胸に落着きなき故なり。さては、武道不心掛の事知られたり。油断千万の事也。武士道といふは、死ぬ事と見附けたり・・」と冒頭から語られています。

 常朝といえば、鍋島藩の侍で鍋島光茂に仕え、追腹禁止令の先駆けを寛文元年1661年に光茂が出している。追腹した者の子を取りたてるべき状況が既に無く、平和な時代には、かえって弊害の方が大きくなりだした。其の後寛文3年1664年には幕府によって全国的に殉死禁止令が公布されている。
 山本常朝は追腹を許されず隠居し田代陣基と出合い葉隠が残された。鍋島藩は柳生但馬守との関わりも強く小城の鍋島元茂は兵法家伝書を相伝している。その相伝の元茂の代理で山本常朝の叔父村上伝右衛門が柳生宗矩から受け取っている。(黒木俊弘著肥前武道物語より)

 常朝の武士道は二つに一つを選ぶなら迷わず死を選ぶのが武士道と決めつけ、今の侍は心が坐って居ないという。潔く死ねるのは祖先の名誉を汚す事無く子孫に花を持たせてあげられる時、現実性があるかもしれません。然し追腹禁止とは、追腹した家臣の子弟を取り立てる事がむしろ弊害と解って来た武士社会の変化によるもので、追腹したとて何も残せない時代と成って来たことを表しています。
 出来の悪い子弟に役目を引き継がせるよりも、出来の良い若者を新たに採用した方が良いに決まっているでしょう。
 卜伝の嘆きも時代に乗り切れない彼の潔く死を選ぶ安易なものでは無く、「生きる」生きている間に夢を追って望みを遂げようとする、武士が公家の下に置かれていた時代から、本格的な武士社会の到来した事を表している様な気がします。

 現代でも、武士道精神などと云って、葉隠れにあこがれ意味不明な懐古趣味の「おっさんたち」がいるようですが、武士道精神も時代と共に動かなくてはならないのでしょう。封建的な上から下を見る社会に於て、上が望む事に下が合わせる事で、生き死にの基準を求めた社会が常朝の立場であり思想でしょう。
 卜伝は、小さいながらも城主でもあった様ですから、それと、兵法者として生き残る事は思想の根底に無ければ成り立たないと思うのです。臍を曲げて「生きぬ生きぬ」は「死ぬ死ぬ」だと読むのも一つでしょう。その時の「死ぬ」は何でしょう。

 コロナウイルスの緊急事態宣言によってステイホームを要求され、自宅勤務による多くの変化が明らかに見えて来ました。
 企業の存在は場所では無く、そこへ行かなくとも企業活動に関われること。残業や早出の評価より業務達成度の方が大切な事。学校に行かなくとも勉強が出来る事。通勤通学の電車の混雑やエネルギー消費の無駄が無くなる事。高い事務所費用もその周辺の住宅街の集中などの緩和も。さがせばいくらでもでてくるでしょう。
 反面同僚とのかかわりが薄れ、所属意識が低下する。人間関係が企業人関係から新たに作られるなどなど。
 生産工場ではロボット化・機械化・AI化の促進によって出勤日数や時間の短縮なども夢ではない。
 それは、今までの常識である、ある特定の場所に参加する人が集まって事を為すのではない時代を要求されたことに外ならない。
   ミツヒラ 思いつくままに(2020年5月21日書之) 
 

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2020年10月30日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の91もののふの学ぶ教え

道歌
6、塚原卜伝百首
6の91もののふの学ぶ教え

もののふの学ぶ教えはおしなべて
       その究(極)みには死の一つなり

 武士が学ぶべき教えは総て一様に極まる所は死の一つである

 武士が学ぶ教えの究極は「死」、死ぬ事を教えるのだと云うわけです。
 礼儀作法から、刀の扱い方、歩き方、構や業技法など「かたち」を習い、其の業技法の運用は形ばかりで、決まってない。その上後の先だ、先後の先だとか、教える方も解ってない敵の害意を察してとか。仮想敵相手に一人稽古して見たり。棒振りの当てっこで勝ったの負けたので一喜一憂して。そうかと思えば、抜こうとしたら柄がしらを抑えられたり、柄を取ったのに投げ飛ばされたり。随分色々学んだり稽古を重ねて来たものです。
 現代では、主君の為に親の為に命を投げ出しても、「命を懸けるのは解ったけれど死んでしまってはね~。」と云われるばかりです。

 武術はコミュニケーションの最終手段、正しいと信じた事を貫き通すには死ぬつもりが無ければならない。

 武術の業技法から一気に「死」にはつながらない。業技法を見事に演じられるには、状況を把握し即座に手足がそれに応じる回路を作り上げ、尚且つもっとも良い状況を作り出すために其処に誘い込んで、シナリオを演じる。
 然しより優れたシナリオを作り上げたものには打ち負かされてしまう。「かたち」を追い掛ける「マニュアル」が無いと何もできない人間には、コミュニケーションの最終手段にも、まして信じた事を貫き通すなど出来っこない。

 「死」の意味が、心臓が止まり脳死にいたる、生物の死をイメージしたのでは無く、もっと抽象的な死を思い描いてしまいます。
 全世界に脅威を振りまいているコロナウイルスに対応し、吾々一人一人がその立場立場で全知全能を駆使して戦っている。そんな時に「コロナウイルスを避けられなければ人類皆死だよ、お前さんどうする」と云われ「死ぬだけ」などと云って居られない。
 死は望まずとも、いずれ誰にでも来るものです。其の死と「もののふの学ぶ教えはおしなべてその究みには死の一つなり」の「死」は同じではないのでしょう。遠い昔の教えでは無く、今を生きる者にも心を揺さぶられるものとして歌を読みたいものです。

 卜伝の正しい経歴も、其の武術の内容も、ましてその心も伝わっているとは云い難いのですが、武術の究極は「死」と云い切っています。

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2020年10月29日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の90もののふの心の内

道歌
6、塚原卜伝百首
6の90もののふの心の内

もののふの心の内に死の一つ
      忘れざりせば不覚あらじな

 武士の心に常に忘れてはならない事は死である、それを忘れたのでは武士と云うわけにはいかない。

 此処での「死ぬこと」及び「不覚をとること」の根本的思想を卜伝はどのように捉えていたのでしょう。死ぬことは、如何なる人でも避ける事の出来ない運命である事は周知のことです。其の死を受け入れる事は誰でも容易なことでは無いでしょう。それを軍や真剣勝負によって「今」だと認識する事をその状況で忘れるなと云う。
 それほど死を思えと云う本当の所は何なのでしょう。
 名を惜しみ名誉の死でありたい等の死ではなく、如何に生きたかを思えと云う事で無ければ意味はない。その生きざまも、自分の幸せであったことが、身近な人々の幸せも得られたと思える満足の死である事を望みたいものです。
 
 武士とは何なのだ、武士とは国の為、主君の為、先祖の名誉を担い、今ある家族や子孫の幸せを願い、それを阻害する敵と戦い潔く死ねる者が武士なのか。
 卜伝のように国を出て三度も廻国修行し、尚且つ戦争と聞けば助っ人を買って出、兵法者の仕合とあれば真剣で立合うなどが武士らしい死と云えるのでしょうか。卜伝の武士とはこうあるべきという思想が見えて来ないのは、常に死の状況に出合っていたあの時代とは、私の今が根本的に違うのでしょうか。

 大道寺友山の「武道初心集」では死について「武士たらんものは正月元旦の朝雑煮の餅を祝うとて箸を取始るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以本意の第一とは仕るにて候。・・今日有て明日を知ぬ身命とさへ覚悟仕り候におゐては主君へもけふを奉公の致しおさめ親へつかふるも今日を限りと思ふが故主君の御前へ罷出て御用を承るも親々の顔を見上るも是をかぎりと罷成事もやと存るごとくの心あひなるを以主親へも信実の思ひいれと不罷成しては不叶候。さるに依て忠孝のふたつの道にも相叶ふとは申にて候。・・死を常に心にあつる時は人に物をいふも人の物云う返答を致すも武士の身にては一言の甲乙を大事と心得るを以て訳もなき口論などを不仕・・」天保5年1835年版 大道寺友山は寛永16年1639年生~享保15年1730年没

 山本常朝の語らいを田代陣基が書いたと云う葉隠には「武士道というふは、死ぬ事と見附けたり。二つ二つの場にて早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし、胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武士道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たるやうにするは及ばぬことなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きな方に理が附くべし。若し図にはづれて生きたらば腰抜けなり。この境危きなり。図にはづれて死にたらば犬死気違なり、恥にはならず。これが武道には丈夫なり。毎朝毎夕改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道の自由を得、一生落度なく、家職を仕果たすべきなり」宝永7年1710年に陣基は常朝に初面会しています。

 

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2020年10月28日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の89もののふの心に懸けて

道歌
6、塚原卜伝百首
6の89もののふの心に懸けて

もののふの心に懸けて知るべきは
        勝つ勝たれぬの敵の色合い

 武士の心に懸けてでも知るべき事は、この相手には勝つことが出来るだろうか、勝つことは難しいだろうか、どの様にして相手に勝つことが出来るだろうかと瞬時に把握する心の目を持ち、敵の色合いを知る事である。

 卜伝の歌の意味は、どの様にして相手に勝てるかと云う以前の、相手のすがた形、立ち居振る舞い、発する言葉からでも感じられること。この人には勝てる、勝てないの判断にとどまっているかもしれない。
 どの様な相手であっても、必ず勝つための秘策についてまで言及していないとも読めるのですが、それでは最初から勝ち負けを決めてしまう事で兵法などと云うものでは無いでしょう。

 相手の経歴や、容姿、武器から手に負えないと決めてしまえば相手も楽で良い。我はたゞ死ぬばかりで、是迄の修行は何だったろうと思うばかりです。
 どの様にして勝つかは、相手の得意とする事に引き込まれずに、我が勝口に相手を引き込み勝以外に無い。新陰流ならば活人剣であり、懸待表裏であり、色付色随事であろうかと思います。それには心の目を養い、棒心に本心が操られない心の修行が必要でしょう。
 兵法の歌で随分勉強して来ました、さて古流剣術にしても古流居合にしても稽古は、其の流の幾つもある「形」をただ、順番通り手足を動かし「かたちを決める」ばかりの武的演舞の繰り返しではそれまでです。

 

 

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2020年10月27日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の88もののふは古き軍の物語

道歌
6、塚原卜伝百首
6の88もののふは古き軍の物語

もののふは古き軍の物語
     常に聞くなば便りあるべし
別伝
もののふの如何に心の猛くとも
     知らぬ事には不覚あるべし

 武士は古い軍の物語を、何時も読んだり聞いていたりしていると、軍の便りが聞こえて来るものだ。

別伝
 武士はどんなに心が強く勇ましくとも、知らない事には不覚をとるであろう。

 卜伝の時代に手に入った「古い軍の物語」には何があったでしょう。日本はもとより中国のものなども読めたと思います。卜伝以前の戦記物を上げてみます。
 将門記・純友追討記・陸奥話記・今昔物語・保元物語・平治物語・平家物語・承久記・
 太平記・曽我物語・義経記・明徳記・応承記・永享記・応仁記 etc

 中国のものでは。
 孫子・呉子・六韜・三略・史記・論語・孟子・老子・荘子・大学 etc

 日本の古い易から見た軍法書では、訓閲集(きんえつしゅう)なども卜伝の時代に新陰流の上泉伊勢守から伝わっています。

 別伝は歌に詠まれた通りの事で、強く勇ましいばかりでは、喧嘩には勝ててもそれ以上にはなり得ない、かと言って知識だけでは喧嘩にもならない。卜伝は勉強しようと進めています。棒振りの経験値や、形稽古による習いごとだけでは、より困難な事には役に立たない、と云うのでしょう。現代では剣による兵法に依って戦に寄与する事はあり得ない時代です。ともすれば勝ち負けを争うスポーツや健康維持のための老人体操に若いにも関わらず終始してしまいます。

 

 

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2020年10月26日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の87もののふの知らでなかなか

道歌
6、塚原卜伝百首
6の87もののふの知らでなかなか

もののふの知らでなかなか拙きは
       弓馬鑓とかねて知るべし

 武士が十分知らずに上手く出来ないものは、弓・馬・鑓とであると知るべきである。

 特にここで武士の多くは、弓・馬・鑓の扱いが上手でないと云います。太刀・刀の剣術・薙刀・大太刀・棒などにまで触れていないのはなぜなのでしょう。卜伝に入門して廻国修行に従って歩いた数は、卜伝百首を書写した加藤相模守藤原信俊の奥書では「百余人の属徒を具し、鷹を据えさせ、馬を牽かせ」と大変な集団が移動して歩いたり、助っ人になったりしたようです。この一文の出処は解りません。
 
 甲陽軍鑑品第四十下によれば「つか原ぼくでんは、左様にきとくはなけれ共、兵法修行仕るに、大鷹三もとすへさせ、乗替えの馬三疋引せ、上下八十人許召つれありき、兵法修行いたし、諸侍大小共に貴むやうに仕りなす。ぼくでんなんど、是は兵法の名人にて御座候。」

 信俊の卜伝兵法百首の奥書は天明6年1786年ですが、甲陽軍鑑は最古のものは明暦2年1656年になりますから、この辺にあったかもしれません。人数などの数字は一致していません。

 卜伝は弟子を連れて廻国修行していた兵法者であったようで、その弟子に「弓・馬・鑓」は充分稽古しなさいと諭していたのかも知れません。戦国時代には、騎馬による戦闘も歩兵による鑓の集団にとってかわられ、弓は卜伝の54歳のころ天文11年1542年に鉄砲が種子島に伝えられ戦闘方法がどんどん進化している時代だったでしょう。鑓はともかく馬・弓は戦法の変化と鉄砲の参入による変化を弟子たちは感じ取っていたかもしれません。

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2020年10月25日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の86もののふは鞠琴鼓枇杷笛に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の86もののふの鞠琴鼓枇杷笛に

もののふの鞠琴鼓枇杷笛に
      心盡すは愚かなるべし

 武士が鞠琴鼓枇杷笛などの芸事に現を抜かすのは馬鹿げていることである。

 室町時代の上級武士の遊び事や芸事は、室町時代以前から引き継がれたものと、この時期に成立したものも多そうです。茶の湯・生け花・水墨画・平安時代からの能楽・連歌など現代の基礎がこの頃作られたとされています。
 卜伝が否定する鞠・琴・鼓・枇杷・笛などは卜伝の時代以前からの遊び事、習い事の様です。明日の命もままならない様な時代に心から楽しめる遊び事には、人は引き付けられていくでしょう。それが円満なコミュニケーションツールだったかもしれません。卜伝は酒も飲み過ぎないように程々は良い事とも云っています。
 
 遊び事に心を盡さずに、何に夢中になれと云うのでしょう。卜伝の兵法に打込めと云うのでしょうか。恐らく卜伝を師事して従って来た門人達の身分はどの様であったでしょう、武士でも家督を継ぐことが出来ない次男三男、なかには平民や農民、下克上で主を失った浪人達、それらは卜伝から遊びをするなと云われなくとも叶わぬ人達だったかもしれません。この歌が卜伝の上級武士や官僚を揶揄する歌であれば、犬の遠吠えの様なものです。

 
 
 

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2020年10月24日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の85もののふは軍の事を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の85もののふは軍の事を

もののふは軍の事を常々に
      思はざりせば不覚あるべし

 武士は軍の事を常々思う事も無いようでは不覚を取るであろう。

 この歌で卜伝は何を言い残そうとしたのでしょう。
 卜伝は真剣勝負十九度、軍の場に踏むこと三十七度、其の外に見聞きした軍を幾つも経験しているでしょう。事実は全くわからないものですが、卜伝と云う兵法者が室町時代中期から末期に存在したか、何人かが合わさって卜伝かも知れません。卜伝百首も卜伝の歌かどうかも読む時疑問を感じる事もしばしばです。

 過去の軍の一つ一つの事が常に頭の中を駆け巡る。勝利に酔いしれるばかりでなく、殺さずとも良かった仕合、殺すべきであった仕合、勝ち軍、負け戦。
 卜伝が大将として大軍を率いて戦った話は特に残されていないので、門人等を連れて、その戦に限り助っ人として参加したのかも知れません。
 この歌での軍(いくさ)は廻国修行での一対一の真剣勝負、山越えなどの盗賊との争いなどでもそれでしょう。生き残り勝ち残る事を常に思う。
 武器の手入れ、引き連れた門弟の状況などにも気を掛けなければならない。修行中で無くとも戦国中期から末期は至る所で小競り合いは有ったでしょうから、武士である以上は、武術は怠り無く体は何時如何なる状況でも応じられる心掛けが歌われたとしても、頷く事かも知れません。

 卜伝百首は、其のまま武術修行の参考となる歌と、その歌を表題として何を自ら模索していくのか考えさせられるところでしょう。この歌などはその良い例でしょう。

 此処までの兵法百首中85首を歌いながら、卜伝の歌には「孫子の兵法」や、平安時代の大江維時の「訓閲集」の教えの形跡が読み取れない気がしています。実戦経験から悟り得た兵法の歌なのかもしれませんが、何か物足りないのは、令和の時代きな臭い匂いはしても、平和な時代だからでしょうか。
 この歌の「軍の事」とは、軍の何を常々思い出して、次の軍の参考としようとすればいいのでしょう。卜伝の門人の中から武芸者は生まれていたとしても、一国一城を預かる武将は生まれたのでしょうか。卜伝に指導を受けた人に将軍足利義輝、伊勢の国司北畠具教、細川幽斎などが名を連ねるそうですが、護身術としての剣術を学んだのは兎も角、さていかがなものでしょう。

 
 卜伝にしても生涯に三度もの長期武者修行の旅に出て、助っ人参戦も37度と云われます。
 鹿島氏の出城塚原城の主と成る事を約束されながら、二度の廻国修行出て戻った時は44歳、此の時妻帯したとされますが十年ほどで妻を亡くし、67歳にして第三回の廻国修行に出ているのです。
 卜伝の逸話は少年時代に読んだ講談社の少年講談全集塚原卜伝に集められ講談として読んでいます、其の数々の武勇伝は楽しいものでした。それらの講釈師の話や歴史的事実を繋いで小説とした中山義秀著塚原卜伝も面白い読み物です。
 

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2020年10月23日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の84もののふの其の暁を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の84もののふの其の暁を

もののふの其の暁を知らぬこそ
       鼠取る道知らぬ猫なれ

 武士なのに夜明けが来たのも知らず気に寝ている様では、ネズミをとる事を知らない猫のようなもので役に立たないものだ。

 「暁」とは、夜は、よい・よなか・あかつきの三つに分けられ、古くは暗いうち夜が明けようとする時。よあけ、あけがた。ある事柄が実現したその時。(広辞苑)

 鼠をとる事を知らない猫なんて、昔からいたのですね。生まれて間のない子猫を貰って来たことがありました。
 或日鼠をくわえてテーブルの上に置いて、自慢そうに家内の顔を見上げたそうです。鼠嫌いの家内は、びっくりして「捨ててらっしゃい」と大声で叱ったそうです。何を叱られたかもわからず、子猫は慌てて鼠をくわえて飛び出て行ったとか。それ以来鼠を持ち込んでこなかったそうです。
 最近は野良猫は見ても鼠は見た事がない、猫の糞にコガネムシやバッタの類の甲殻部分が混じっていて野良猫も食べ物には苦労している様です。

 卜伝は武士は夜明けとともに起き出して、兵法の稽古をしなさいとでも云って居るのでしょう。ただ早起きするばかりでは意味はない。

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2020年10月22日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の83もののふの夜の眠り

道歌
6、塚原卜伝百首
6の83もののふの夜の眠り

もののふの夜の眠りを覚ましつつ
       四方の騒ぎを聞くぞゆゝしき

 武士は夜寝ている間も眠りを覚ましながら、四方の騒がしい状況を聞くのはあっぱれな事である。

 「眠りをさましつゝ」と「聞くぞゆゝしき」の語句が気になるのですが、深い眠りに落ちていても、この時代は現在の静寂とは違って全く静かで、物音ひとつ聞こえない状況とも云えるでしょう。そんな時周囲の物音に目を覚ましつつ、その騒ぎの状況を読み取る程の心掛けを「ゆゝしき(あっぱれ)」と思うと歌っていると思えるのです。
 もう一方では、「武士は周囲の騒ぎで眠りを覚ましつつ聞き耳を立てるなどとは「ゆゝしき(うとましい)」とも云えるかもしれません。小さなことを一々気にするなと云った程度のことですが、この解釈で戦国時代の一流の武士とは言えないでしょう。
 どんな小さな変化も見逃さない心掛けを持ちながら、即座に状況を判断してそこに居付かない修行を求めていると思います。

 

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2020年10月21日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の82もののふの雪にやけたる

道歌
6、塚原卜伝百首
6の82もののふの雪にやけたる

もののふの雪にやけたる手足おば
       酒温めて洗うとぞよし

 武士が雪焼けに手足がなってしまった時は、酒を温めて洗うのがよい。

 日焼け雪焼けは紫外線による火傷と同じと云われます。まずしっかり冷やし、ワセリンなどを塗って保湿し、ビタミンCや亜鉛のたっぷり含まれているものを食べる。こんな風にして来たような気がします。
 現代では日焼け止めのクリームや日焼けした時の塗り薬も有るのでそれで対処し、ひどい時は医者に行く。皮膚もほてって痛い水膨れなども出来たり、おさまって来れば日焼けで真っ黒、秋になってシミ、ソバカスが気になります。

 卜伝百首は雪目にやられた治療法は特に無いのですが、当時はサングラスなど無いので、雪野原での行進は、兜のひさしを目深にかぶるとか、手ぬぐいで光の侵入を少なくするとか眼を保護しておかないと、雪目もあったかもしれません。上杉謙信の出陣は雪の消える頃に関東に出て来り、雪の降る前に引き上げたりしていた様に、何かで読んだと記憶しています。
 遮光器具などアイヌのようなものを手作りしていたかもしれませんが、資料不足で解りません。

 雪焼けに「酒温めて洗うとぞよし」と云うのは医学的根拠から見ても充分効果のある治療法です。酒と云えばアルコールばかり思い描きますが、日本酒にはアミノ酸が数種類含まれています。
 雪焼けも日焼け同様まず「冷やせ」ですが、「酒温めて」は寒い中で冷たい水では飛び上がってしまいそうです。人膚程度に温めて塗れば良いのです。
 アミノ酸はコラーゲン等の膚を構成するたんぱく質の原料です。その上肌の角質層に含まれる天然保湿因子の主成分セリンはアミノ酸の一種です。
 

 

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2020年10月20日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の81もののふの狩り漁(すなどり)を

道歌
6、塚原卜伝百首
6の81もののふの狩り漁(すなどり)を

もののふの狩り漁(すなどり)を好まずは
         如何なることも身をかくさまし

別歌
もののふの狩り漁猟(すなどり)を好まずば
        いかなる事に身をさらさまし

 武士が狩猟や漁猟を好まないのであれば、どのような事にも身を隠すことになるだろう。

 別歌も同様の解釈で、「武士が狩猟や漁猟を好まないのであれば、いかなる事に身をさらす事になるのだろう」。武士は軍の場での戦いをする人であるが、平和な時には鳥や獣の狩りをしたり、魚や貝を取ることをして体を鍛へ、農民や商人達と接する事で人望も得られるものでしょう。それを嫌ってしまったのでは、どの様な人物かも理解されず、身を尽くしてくれる領民も現れない。この歌は「そんな事でどうする」と諭されている様に思えます。

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2020年10月19日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の80もののふの常に踏む足

道歌
6、塚原卜伝百首
6の80もののふの常に踏む足

もののふの常に踏む足心して
       事に臨みてみだらぬぞよき

 武士の何時でも踏み足のリズムを整えて置き、事に臨んでもリズムが乱れないのがよい。

 踏み足が乱れない様に、と云うのです。酔っぱらって千鳥足になったり、疲れてよろよろしたりしない。
 常に何が有っても同じ足踏みの調子を整えて置く、足踏みは心の乱れに現れる、でしょうね。体調による乱れよりも、勝負に臨んでの心の持ち様によって、不安な時、慢心の時。平常心を失ったのでは、普段の稽古もどこかへ行ってしまいそうです。

 武蔵は兵法35箇条で「足づかい、時々により大小遅速は有れ共、常にあゆむごとし。足に嫌ふ事、飛足、うき足。ふみゆする足、ぬく足、おくれ先立つ足、是皆嫌ふ足也。足場いか成る難所なりとも、構ひなき様に慥かにふむべし。」と云って、「常に歩む如し」を良しとしています。

 柳生宗矩は兵法家伝書で「歩みは早きもあしく、遅きもあしゝ。常の如くするすると何となき歩みよし。」 

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2020年10月18日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の79もののふの夜の道

道歌
6、塚原卜伝百首
6の79もののふの夜の道

もののふの夜の道には燈(ともしび)を
       中に持たせて端を行くべし

 武士が夜道を行く時は、燈火を道の真ん中の方に向けて持たせて、我は道の端を行くのが良い。

 道の右側を行く時は燈火は我が左方、左を行く時は右方に有る様にして、明かりの後に我は居ないようにする、それによって灯りを目当てに切って懸る敵は空を斬る事になるとでも云うのでしょう。
 この歌で気になるのは「燈を中に持たせて」の文言の「もたせて」の解釈の仕方ですが、従者に持たせるのか、自分が持って行くのか迷います。従者に道の中を燈火を前にして行けば、敵は従者を斬ってしまいそうです。此処は自分で燈火は持つべきです。

 何時如何なる場合でも危険を避けられる状況は先師の教えはもとより、自分でもよく考えて、工夫すること、決められた「かたち」ばかり守っている優等生では生き残れないと知るべき処です。

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2020年10月17日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の78もののふの道行く連れ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の78もののふの道行く連れ

もののふの道行く連れの有る時は
        何時も人をば右に見て行け

 武士が道を行く時に連れがあるならば、何時でも連れの人を右側に見ながら行きなさい。
 
 前々回の歌は「もののふの道行く時に逢う人の右は通らぬものと知るべし」でした。右側は不意打ちに逢い易いと云うような解釈でしょう。
 今回の歌は、同行する人はいつも我右側に見ながら行くべき、と教えています。右に見ながらですから右後ろ、右真横は 見えませんから、やや右前が良さそうです。
 相手が我に殺意があると感じた場合は特にこの心得は有効でしょう。相手が鍔に手を掛ける、柄を握る、丸見えです。相手には害意が有って身分が我より下の場合は、お先にとへり下って一歩下って連れ立つとかの場合は、露払いをしてもらうのでしょうね。我が相手より身分が低い場合は一歩下って連れ立つ、是は我に有利そうです。
 卜伝百首は卜伝の経験値から一方的に決めつけられる印象があるのは、卜伝崇拝に染まった人はそれだけに居付いてしまいますが、何故そうするのかを自分で考え、状況次第や相手次第による展開を即座に描けるものでなければ、「もののふ」などと云えそうにありません。現代風に形にはまったマニュアルがあれば楽な面はあるでしょうが、それではただの剣舞です。武術は「習い・稽古・工夫」のスパイラルで自由な発想からあらゆる状況に応じられる心と体を鍛えなければ稽古の意味は、古伝に依る健康体操に過ぎません。自分流を開きそれが次の時代のマニュアルになるものでしょう。形に拘って役立たない、変化し過ぎ奇をてらった大道芸ではすたれてゆく。そんな事を考えてしまいます。

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2020年10月16日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の77もののふの道行く時に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の77もののふの道行く時に

もののふの道行く時に曲り角
      避けて通るぞ心ありけり

 武士は道を行く時に、曲り角に出合った時は、通過する際に注意深く避けて通る事を心がけるものである。

 歌の文句通り「曲り角避けて通る」と云う分けにはいかないでしょう。注意深く通過するなり、曲るなりするのは現代の自動車の運転の注意と思えばいいのでしょう。
 道交法の定めや、交差点での信号の指示に自然にしたがっています。約束事が摺り込まれていますから市街地ではかなり安全です。郊外で信号のない道路では、見通しが良い所は楽ですが、建物や木々に遮蔽されていたりすると、安全運転は欠かせません。卜伝の時代には信号機も約束事も無かったでしょうから、見通しのよくない曲り角は無造作に通過するのは危険と考えるのが当然でしょう。
 

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2020年10月15日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の76もののふの道行く時

道歌
6、塚原卜伝百首
6の76もののふの道行く時

もののふの道行く時に逢う人の
      右は通らぬものと知るべし

 武士は道を進む時、向こうから(前から)来る人と出合うならば、其の人の右側は通らない事と知っておくべきである。

 狭い道路で、進行方向の右側を通行すると、我が刀の鞘と、前から来た人の鞘とがすれ違いざまに触れる事があるでしょう。どっちが悪いのか知りませんが「無礼者!」ってわけで喧嘩になる話が、ほんとか嘘かチャンバラ小説には出て来ます。卜伝の歌の場合は前から来る人の左側を我は通れと云うわけで、当然相手も我の左側をすれ違って行きます。
 刀は左腰に指し柄頭が我が正中線上、又は鍔が正中線上ならば刀の鐺は柄頭とほぼ水平ならば左体側より一尺程外にあります。

 この歌は、前方から来る人の右側を通るなと云うのですから、我も前から来た人も進行方向の左側を通行するなというのです。この場合は鐺が触れ合う事は無いのですから右側通行の、鞘当ての心配はないでしょう。

 卜伝の歌の教えは概ね「何故」の解説がありませんので「何故だろう、どうしていけないのだろうか」は自分で考える事になります。
 太刀も刀も左腰に位置するので、無双直伝英信流居合兵法の場合は、右手を柄に掛け右足を踏み込んで左から右への抜き付け、或いは左上から右下への抜き付け、左下から右上への抜き付けが標準的な抜付けです。
 これは正面からハチ合わせの抜き方ですが、我が右側を通行する相手ならば右足の踏み込みを相手に向けて踏み込むや抜き付けるのには、我も相手も道路の左側通行は居合抜に適していると思われます。
 我右側を通過しようとする相手には抜き付けしやすいという事で「道行く時に逢う人の右は通らぬものと知るべし」と云うのは妥当です。当然ですが後から敵が来た場合も、敵は我が左側ならば抜き付けし難いのですが、右側を通り過ぎようとするならば、右廻りに振り向きざま抜打ちするのはやり易いものです。抜刀法の「後敵抜打」で稽古されています。同様に左側から来る敵には左廻りは「後敵逆刀」が有ります。稽古ではどちらも真後に居る敵の想定ですから、形だけやっている人はその優位性が判断できないかもしれません。
 前から来る敵に対しては、我が左側を通過しようとするならば、右足を相手に向けて左方へ踏込めば良いだけなのです。右側を通過しようとするならばより容易です。
 道が狭く相手とのすれ違いの間隔が近ければ、敵が左側を通過しようとするならば間境で抜刀し左脇に刀を添えて行き違いざまに払い捨てる無雙神傳英信流居合兵法の抜刀心持之事「行違」が可能です。
 
 子供のころから剣豪塚原卜伝の小説などで卜伝崇拝の先生方も多いでしょうから、卜伝に一票ですが、私は右であろうと左であろうと相手に殺意があるならば、此方に其れを察する力が無ければ切られてしまうと思います。此処は状況次第で、道路の左側を通っていたならば立ち止まってやり過ごすとか、更に左に避けて通るなり、道路が広いならば右側に数歩前から変わるなりする事で、何とでも出来るものです。
 習慣的に武士は道路の右側通行する事は、抜打ちを避ける手立てとして行われたと思いますが、交通法規があったわけでは無いので状況次第が妥当でしょう。

 

 

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2020年10月14日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の75もののふの被ける笠の

道歌
6、塚原卜伝百首
6の75もののふのかづける笠の

もののふのかづける笠の布の緒を
        仮につくるも習いなりけり

 武士が頭に被る笠の布製の緒を、かりそめにも作ることが出来るのも武士の習いである。

 一流の武士ならば傘の緒ぐらいは、自分で付け替えることなども出来て当たり前というのでしょう。この歌も門人を育てようとする卜伝の思いから出て来る歌かも知れません。一流の武士は付き人に任せればいい様な事でも、まず自分から進んで出来る位の知識と行動力が無ければ良い付き人も得られないかもしれません。

 

 

 

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2020年10月13日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の74もののふの夜の枕に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の74もののふの夜の枕に

もののふの夜の枕に鼻紙を
     布きて寝るこそ教へなりけり

 武士が夜寝る時には、枕の下に鼻紙を敷いて寝るのは、昔からの教えである。

 この教えも、卜伝の家系故に納得できる教えかもしれません。現代では安価なティシューを箱ごと、寝ながら手を伸ばしてとる事も出来ます。寝ている時でも身だしなみを整え、見苦しい態度を晒さない事を門弟達にも語って聞かせていた歌かも知れません。
 卜伝の廻国修行に従って行った門人も、武士としての心得を持たなければ、ただ強いだけでは将来仕官するなり一国一城の主になるには不足だったと思います。

 

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2020年10月12日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の73もののふのよるの寝巻

道歌
6、塚原卜伝百首
6の73もののふの夜の寝巻

もののふの夜の寝巻の絹にこそ
       裏表をばせぬものとしれ

  武士が夜寝る時の寝巻の絹織物は、寝る時は裏を表にして着るものでは無い。

 何とも、不可解な歌です。室町時代の庶民から下級武士は主に麻や木の皮で織った布を着物にしていた様です。絹は中国からの輸入が主だったようで高価なので武士でも上級武士の着るものだったはずです。
 卜伝は鹿島神宮の神職吉川左京覚賢の次男として生まれています。卜伝十歳のころ鹿島氏の支城塚原城主塚原土佐守安幹の子新左衛門安重の養子となっています。生来は塚原城主を約束されている様な兵法者だったはずですから、寝巻にも絹織物の着物と云うのも、なるほどと云う処です。

 「寝巻の絹にこそ裏表をばせぬもの」の意味が読み取れません。卜伝の兵法の一環として寝巻の裏表を誤って寝る事が何がまずいのか。
 卜伝の城主を約束されている家名に、寝巻を裏にして寝ていると云う粗忽さ、或いは廻国修行中でも多くの門弟を引き連れて歩いて居た面子からも心がける事かも知れません。
 然しこの歌は門弟達にも聞かせるものであったとするならば、理解の範疇から外れてしまいそうです。

  

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2020年10月11日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の72もののふの夜の枕に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の72もののふの夜の枕に

もののふの夜の枕に二重帯
      置ぬはあわれ不覚なるべし

 武士は寝る時には枕許に二重の帯を置いてかないのは、かなしいかな不覚をとる事になる。 

 「枕に二重帯」とは何なのかイメージが浮かんできません。枕に二重の帯を、ただ置いておいても意味はありそうにもない。それでは枕に帯をむすんで置いたらどうなのか。スッキリ来ません。
 帯ですから着物の上から巻くものを想像します。
 一本の帯を二重にまく。
 二重ですから布が二枚重ねの一本物。
 一本の帯の両端を縫い付ければ輪になった二重帯ができる。

 綿谷雪著「図説古武道史」に卜伝百首の十一首が載っています。その中に卜伝百首のこの歌が記載され解説されています。其のまま拝借します。「二重帯とは、輪帯のことである。端がないから、つかみ取りにして二重のまま一まわりさせ、両端にくる一方を他方の輪にくぐらせ、出た部分を挟む。手早いし、結ぶ必要がない。忍者の帯は輪帯と限ったものだが、忍者でなくても心がけのよい武士は皆、そうした。」
 二重帯は輪帯だと綿谷雪先生は仰っています。そうだとしますと、その二重帯を寝る時には解いて、枕元に刀と一緒に置いて置く。何か事が起れば二重帯を寝巻に巻きつけ、刀を二重帯に指して即座に応じられる態勢を作るのかなと思いますが、この二重帯を寝巻の帯代わりにした方が早いな、など思っています。
 それと、寝る時は寝間着に着替えるとしても、帯など無くとも、寝ながら枕もとの刀を掴み、起き上がって状況を判断して応じるのが何故いけないのか疑問です。
 何処かに、寝ている時の心構えのありようを述べたものは無いのか読んで見たいものです。
 
 
 

 

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2020年10月10日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の71もののふの月頬(さかやき)剃る

道歌
6、塚原卜伝百首
6の71もののふの月額(さかやき)を剃る

もののふの月額(さかやき)を剃る剃刀を
         仮に女のてにも取らすな

 武士のさかやきを剃る剃刀を、仮にも女の手に持たしてはならない。

 この「女」は卜伝の場合は妻帯していないので、妻とも思えませんので他人を指しているのでしょう。そんな時代であったかもしれないしさてどうなのか興味はありませんが、男より女の方が危険だったのかも知れませんね。
 いやなら、自分で剃るか、総髪で過ごすのか知りません。注意を怠らない事は確かでしょう。

 「さかやき」の漢字ですが「月額」・「月代」。男の冠の下にあたる額髪を半月形に剃ったもの・額月(ひたいつき)。男が前額から頭の中央にかけて髪を剃り落したこと。また、その分。応仁の乱後、武士が常に冑をつけたから気の逆上を防ぐために起こった風といい、江戸時代には庶民の間にも行われ、成人のしるしとなった。(広辞苑より)

 兜をかぶると頭が蒸れるので、兜に穴が開けてある、空気の流通をよくするためにその下にある髪の毛を剃って、蒸れを防いだ実用上の事だったようですが、月代を剃る事が武勇を示すことにもなって、戦国時代の武士の風習だったとされます。
 

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2020年10月 9日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の70もののふの酒を過ごすぞ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の70もののふの酒を過ごすぞ

もののふの酒を過ごすぞ不覚なる
       無下に呑まぬもまた愚かなり

 武士は酒を飲み過ぎる様では不覚をとる事になる、全く飲まないのも、それもまた愚かな事である。

 「無下」とは、全くそうであること、一向、すっかり。それより下はないこと、なんとも言いようのないこと、ひどいこと。わるいこと、ひどいこと。(広辞苑より)

 「呑まぬもまた愚かなり」は、どの様に解釈すべきでしょう。酒飲みによる良かった事、悪かった事は何か人それぞれの出合う事毎にある様な。飲まない為の良かった事、悪かった事も人それぞれで、それを乗り越えて生かしていくものであって、決めつけるものでも無さそうです。

 酒の効能を酒造メーカーから拾ってみると、血行が良くなる・コミュニケ―ションが円滑になる・ストレス緩和・体の健康によい。とありますがこの場合の酒量はどれくらいの事でしょう。

 或る酒造メーカーは酒の害を述べています、注意力、判断力、記憶力の低下・心拍の異常・心筋症・高血圧、神経手足の震え・運動障害などを引き起こし、肝硬変・肝脂肪・食道炎・食道がん・胃腸出血・胃がん・大腸がんなどを病むなどと云っています。どの程度の飲酒をどの様に続ける事で起こるのかは人それぞれなんでしょうか。
 病に侵されるのは、呑みたいばかりの中毒ですからそれも大きな根本的な自制心障害と云えるでしょう。卜伝の兵法者への忠告は注意力・判断力・記憶力や心拍の異常などで不覚を取ることになる事を戒めて居る事になるでしょう。飲まない人にはコミュニケーション不足によるお互いを信じ合えない事や、酒で誤魔化してしまわず深く思いつめる事でのストレスが思わぬ障害となる事を云うのでしょう。

 

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2020年10月 8日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の69もののふの刀の目釘

道歌
6、塚原卜伝百首
6の69もののふの刀の目釘

もののふの刀の目釘見もせずに
       腰に指すこそ拙なかりけり

 武士は刀の目釘が弛んだり抜けているかもチェックしないで腰に指すなどでは、出来るとは言えない。

 竹刀や木刀しか必要としない稽古では、刀の扱い方を指導される事が無いのでこの歌の意味が分からないかも知れません。刀の目釘は刀の茎を柄に差し込み、柄から刀が抜け出さないように竹くぎを刺して茎の目釘穴を通して柄と茎を止めておくものです。目釘は通常一本ですが中には二本のものもあります。
 模擬刀でも本拵えのものは、竹の目釘で止めてありますから目釘を抜けば刀身と柄が分離でき、鍔を気に入ったものに交換したり、目釘の破損をチェックできますが、プラスチックの柄などの安価な模擬刀は目釘も容易に抜けないものも有る様です。経年変化で柄が脆くなって居たり、衝撃を受けていたりすると破損してしまいます。

 居合の稽古や演武会などの注意事項に必ず目釘のチェックを要求されます。合わせ鞘などのによる、既製品の場合は柄もがたついている場合がありますから、知らず知らずに目釘が抜け落ちていたりしますので、必ず場に臨む前にチェックすべきものです。

 刀を振り下した際、目釘が折れて刀身が飛び出し人を殺傷した話などあった様です。演武会や稽古中でも充分注意すべきものですが、是が実戦での真剣勝負や戦場でのことで、刀が柄から抜け落ちたのでは、戦う前に斬られているも同然でしょう。

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2020年10月 7日 (水)

道歌6塚原卜伝百首6の68もののふの走る刀を指す

道歌
6、塚原卜伝百首
6の68もののふの走る刀を指す

もののふの走る刀を指すこそは
      持たぬ敵を持つと知るべし

 武士が抜き付ける為の刀を指すこそが、持つ必要のない敵(かたき)を持つことになると知るべきである。
 
 「走る刀を指す」とは、軍を仕掛けるとか、武器を携帯することそのものが、持つべきではない敵を持つことになる、というのでしょう。本来人は平和を好むのか、人を蹴落として自分だけ幸せならばいいのか、仲良く暮らしていても、かならず誰かが上に立とうとする。
 卜伝の仕合の経歴が19度、軍の場を踏むこと37度と、嘘か本当かは兎も角、当時は真剣勝負もあったでしょう。武蔵は五輪書で「・・13歳にして初めて勝負す。・・21歳にして都へ上り、天下の兵法者にあい、数度の勝負をけっすといへども、勝利を得ざる事無し。その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行き合い、六十余度迄勝負すといえども、一度も其利を失わず。其の程年13より28、9迄の事なり。」と書いています。
 兵法者とは名を上げて多くの門人を持つか、時の為政者に仕官するかが目的だったでしょう。仕合して勝事が必要だったわけで、刀は抜くために指していた様なものです。
 元々武家であったと云うより、兵法者として立身出世を望む者も多かったのでしょう。名ある者に勝たねば名が上がらない。刀を捨てて国へ帰っても、食うや食わずの生活では邪魔者だったかもしれません。
 少々腕に覚えがあればと思う気持ちもあるのでしょう。
 

    

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2020年10月 6日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の67もののふの心弛めば

道歌
6、塚原卜伝百首
6の67もののふの心弛めば

もののふの心弛めば自ずから
      膚は肥えて身ぞ重くなる


 武士の心に油断があれば自然に、膚は肥えて来て体は重くなる。

 戦国時代であっても、地域によっては平和であったり、勢力の均衡が保たれたりしていると戦いの無い期間が長引く事もあったでしょう。そんな時、野山を駈ける事も、水遊びも力遊びも怠るようになる。兵法の稽古もほどほどになって心がたるめば肥えて来てから打も重くなってしまう。それでは事有っても役に立つ武士とは言えなくなる。武士たるもの何時如何なる状況でも応じられる身心の緊張を持ち続けなければ、主君の為に役に立つことはできない。また、兵法者としてはその様な事では不名誉な事である。

 この時期、新しい戦法と新しい武器の発展が激しい時代です。その対応の訓練と武器の使用法など厳しい時代だったのでしょう。

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2020年10月 5日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の66もののふは力遊びを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の66もののふは力遊びを

もののふは力遊びを常にせよ
      さらずば筋の伸びたわむべし


 武士は力を付ける遊びを常に行いなさい、そうしないと筋肉が伸びてゆるんでしまう。

 兵法を物にするには、武士たるもの野山を駈け廻り、水遊びをし、更に力遊びをやりなさい、其の上で兵法の業の稽古をするもので、基礎体力が無い者が道場で形の稽古して居ても体操にしかならないぞ、と云われている様です。
 
 若い頃は、入試だ、良い企業へ、良い実績をとひたすら歩いてきたので、スポーツもゴルフぐらいしかして来なかった人が定年と同時に武術を志して入門して来ます。
 古武術の形は強い早いを基本として成り立って居ませんから、その様な方にはもってこいの老人体操です。形の順番を覚え、其の業の何たるかを、頭で覚えますから、知ると出来る様な錯覚に陥ります。
 ところが「かたち」は出来ても技が決まらない。何故かと云えば、自分の持てる力を最大に引き出すことをした事が無いのですから、締め緩めの幅が小さくて、木刀を握った時に既に力が入ってしまい、相手の方が早く強ければ跳ね返されてしまう。その上、何時もリラックスしていただけですから、瞬時に緊張する事が出来ない。
 小手先のパワーより体全体から引き出すパワーの方が遥かに優るのに、いざ打込む時に体の中心軸の丹田からほとばしるパワーが、一番遠い小手先に移動してしまい、力もスピードも劣る事になる、更に小手先の芸をしてしまうので、切先にパワーが乗らずに、目標に当てた瞬間に抜けてしまう、そんな感じがします。

 
 

 

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2020年10月 4日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の65もののふの心に懸けよ

道歌
6、塚原卜伝百首
6の65もののふの心に懸けよ

もののふの心に懸けよ水遊び
       知らずは常に不覚あるべし

 武士の心掛けるものに泳ぎを知る事、水遊びで水を知らないのでは常に不覚を取るであろう。

 前回の歌が「もののふの暑き寒きの分ち無く野山を駈けて身を晒すべし」で、今回は「水遊び」を心掛けよと云います。野山を駈け廻って足腰を鍛え水遊びでも体を鍛える、水泳の仕方は勿論でしょう。
 それと同時に川でも海でも湖でもその地形を見て陣取りをする知識も身についてきます。水を前にするのか後ろにするのかでも心構えは違ってきます。
 卜伝の兵法は一対一の仕合兵法と国と国の戦いの心構え、それに応じられる訓練についても語っています。体を鍛え知識を豊富に持ち其上でなお剣術を稽古するそんな姿が浮かんできます。

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2020年10月 3日 (土)

道歌6塚原卜伝百首6の64もののふの暑き寒き

道歌
6、塚原卜伝百首
6の64もののふの暑き寒き

もののふの暑き寒きの分ち無く
       野山を駈けて身を晒すべし

 武士は暑さや寒さに関係なく、野山を駆けずり回って体を日光や風雨のあたる儘に鍛えておくものだ。
 
「身を晒すべし」の解釈ですが、「晒す」とは、日光や雨風のあたるままにしておく。日光にあててほす。布・木綿などを水で洗い、日にあてて白くする。(広辞苑より)

 実戦では季節も雨や雪や風、強い陽射しも、起伏に富んだ野山もあるでしょう、その様な処で走り回って体を鍛え上げて置くことが武士の心得て置くべき事で、武器の使い方より大切な事というのでしょう。
 武術の稽古そのものも、体を鍛える事に繋がると云って、この様な野山を駈けて鍛える事を疎かにする傾向が有りそうです。野山を駈け廻り其上筋力アップの重量挙げ、縄跳びなどで敏捷性など鍛える事は大いに実行すべきでしょう。

 早い強いの事で、竹刀剣道の古参の人が若者には試合では勝てない、と嘆いています。棒振り稽古は充分ですが、速い・強いを維持する鍛えをさぼっているし、加齢による弱体は思っているより早いものです。若い時の様に大きく動こうとして弱った筋肉に負担をかけても勝てっこない。どの様に鍛えるか、武具の長さや重量に問題は、大きく軸を動かさない、受け太刀にならない・・・。 

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2020年10月 2日 (金)

道歌6塚原卜伝百首6の63もののふの勝負の場(にわ)に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の63もののふの勝負の場(にわ)に

もののふの勝負の場(にわ)に出(いづ)る時
        跡と左右に心散らすな


 武士が勝負をする場所に進み出る時には、相手をしっかり見て、後や左右の状況に心を散らしてはならない。

 卜伝の戦歴は、「百余人の属徒を具し、鷹をすえさせ、馬を牽かせ、其富程盛んなり。十七歳にして洛陽清水寺に於いて、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九度、軍の場をふむこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず。木刀の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ケ所も被らず。矢疵をっ被る事六ケ所の外、一度も敵の兵具に中る事なし。凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に敵を討つ事、一方の手に掛く二百十二人と云へり。五百年来無双の英雄と云々。」 卜伝百首には沢庵和尚が書いている様な序文が附されています。加藤相模守藤原信俊が天明6年1786年丙牛11月29日に追記したものがこの戦歴の一節となります。
 卜伝百首は元亀2年1571年卜伝の死んだ年に書き上げられている様に信俊は「書之」としています。元亀2年に書かれた卜伝百首を天明6年に追記されているので215年の歳月の開きは卜伝の生涯を霞の中から浮び出る夕焼けの富士の影絵の如き思いにさせられます。
 
 勝負の場に臨む時、場の状況は総て目視している筈、其の上で立合う相手に臨む時の心得でしょう。周りを気にしておどおどして居ればあらぬ横槍も入れられそうです。
 相手を静かに心の目で見ながら、スルスルと接近して行く姿は近寄りがたいものです。それは竹刀であろうと真剣であろうと変わらない。私は、稽古でも同じと思っています。
 場の状況は稽古に入る前によく確かめ、他の組との関係を見て、互に場取りして対する、後は稽古も試合も同じです。


 

 

 

 
        

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2020年10月 1日 (木)

道歌6塚原卜伝百首6の62もののふの児(ちご)や女に

道歌
6、塚原卜伝百首
6の62もののふの児(ちご)や女に

もののふの児(ちご)や女にたわむれて
       心おくれぬ事はあらじな

 武士が子供や女に遊び興じていては、心が臆する事にはならないか。

 卜伝は生涯独身で、家督は養子を迎えて継いだとされています。兵法家として何時でも力を発揮するには、後髪を引かれる生き方を自分に、許さなかったのでしょう。
 兵法者としての誰にも勝負では負けないと云う誇りが先に立って、何の為に兵法を志すのかの目的意識が柳生石舟斎宗厳とは違った生き様をして来たのかも知れません。
 卜伝(延徳元年1489年生まれ)より19年ほど遅れて生まれた上泉伊勢守信綱(永正5年1508年生まれ)は、上州箕輪城落城が56歳(永禄9年1564年)でした。武将としての半生を、敗北の人生として過ぎ、兵法家として踏み出した第二の人生だったのでしょう。卜伝は、その時75歳、第三回廻国修行中でした。
 其の2年後上泉伊勢守は柳生石舟斎宗厳(38歳)に新陰流影目録を印可しています。
 
 卜伝は元亀2年1571年第三回の廻国修行から戻ってすぐに没しています。82歳でした。生涯兵法者であり続けようとしたのかも知れません。

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