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2020年10月26日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の87もののふの知らでなかなか

道歌
6、塚原卜伝百首
6の87もののふの知らでなかなか

もののふの知らでなかなか拙きは
       弓馬鑓とかねて知るべし

 武士が十分知らずに上手く出来ないものは、弓・馬・鑓とであると知るべきである。

 特にここで武士の多くは、弓・馬・鑓の扱いが上手でないと云います。太刀・刀の剣術・薙刀・大太刀・棒などにまで触れていないのはなぜなのでしょう。卜伝に入門して廻国修行に従って歩いた数は、卜伝百首を書写した加藤相模守藤原信俊の奥書では「百余人の属徒を具し、鷹を据えさせ、馬を牽かせ」と大変な集団が移動して歩いたり、助っ人になったりしたようです。この一文の出処は解りません。
 
 甲陽軍鑑品第四十下によれば「つか原ぼくでんは、左様にきとくはなけれ共、兵法修行仕るに、大鷹三もとすへさせ、乗替えの馬三疋引せ、上下八十人許召つれありき、兵法修行いたし、諸侍大小共に貴むやうに仕りなす。ぼくでんなんど、是は兵法の名人にて御座候。」

 信俊の卜伝兵法百首の奥書は天明6年1786年ですが、甲陽軍鑑は最古のものは明暦2年1656年になりますから、この辺にあったかもしれません。人数などの数字は一致していません。

 卜伝は弟子を連れて廻国修行していた兵法者であったようで、その弟子に「弓・馬・鑓」は充分稽古しなさいと諭していたのかも知れません。戦国時代には、騎馬による戦闘も歩兵による鑓の集団にとってかわられ、弓は卜伝の54歳のころ天文11年1542年に鉄砲が種子島に伝えられ戦闘方法がどんどん進化している時代だったでしょう。鑓はともかく馬・弓は戦法の変化と鉄砲の参入による変化を弟子たちは感じ取っていたかもしれません。

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