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2020年11月

2020年11月30日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の7三拍子之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の7三拍子之事

老父云、勝つ処の拍子は、越す拍子・合せる拍子・付る拍子、此の三つなり。勝つ処、此の三つならでは之無く、この三つ外ずるれば相太刀也。
亦云、合う拍子・付る拍子・越す拍子とも書せる亡父の目録あり。
老父云、付ける拍子の事、乗る心持あり、当たる拍子の事、付けたり合う心持ちあり、と書くもあり。
亦云、三拍子の三つは我が身へ当たらざる処にて越拍子の心持よし。当たる当たらぬと云境にて、付る拍子也。心を付る也。逢う拍子は付る拍子、付けて遣うべし。打合するをも、逢う拍子と云なりもあり。

 石舟斎の新陰流截相口伝書亊では身懸五箇之大事、三箇之大事に続いてこの「三拍子之事」があげられています。
 三拍子の事 「1、越拍子の事。1、付ける拍子の事。1、当たる拍子の事。」

 老父柳生宗矩は、勝処の拍子は「1、越す拍子。1、合せる拍子。1、付る拍子」の三つです。
 何故新陰流截相口伝書の「三拍子の事」と同じ事をあげていないのか、疑問ですが恐らく石舟斎の「当たる拍子の事」が宗矩の「合わせる拍子」「合う拍子」なのでしょう。

 敵の打ち込んで来るのを外して打つのを「越拍子」、「後れ拍子」。
「付ける拍子」は、敵の打込みに付けて勝つ、和卜勝ちなどでしょう。和卜で敵太刀を外すや乗る心持ちが大切と云う。
「当たる拍子」は、敵の打込みに打ち合い、上太刀に為る合し打ちなどでしょう。

 稽古をするに当たり、三学であろうと九箇であろうと、この動作は何を目的にして学ぶのかが解らず、いたずらに形を追い求めても武的演舞にしかならない。そんな時、月之抄を紐解いて見ると、「なるほど」と気が付くこともあるものです。

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2020年11月29日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の6三箇之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の6三箇之事

11の6三箇之事
老父云、敵の太刀先、向き様、三見と見て、其の三見に仕掛三箇也と云々。
亦云、右の三つに仕掛けられて、突き懸け、相構にて打事を三箇と云。鑓同前。上段、中段、何れも同じ事也、と云われし事も有り。
亦云、太刀の構の事、これと青眼也、是に越す事なし。他流に是を用るも有れども遣い様の心持に相違あるもの也。
鑓長太刀同じ事なるもの也。構、上段、中段、下段鑓先も三つなり。此の外はならざる也。此の三つの掛かり相構えよし。惣別、太刀・長太刀いずれにても構を用る時は相構よし。相鑓の時は上段には中段、下段には上段、中段には下段。此の心持を用るべし。
亦云、三箇三つの仕掛け、敵の太刀先向こうにあらば、付けよ、後ろにあらば二拍子也。出る処也。拍子を待(持?)ちて動くならば其の動きの拍子を受けかけ、上げ下げ二つに乗りて勝つ心持ちを思うべし。
三見と見るにより三箇の仕掛けある也。
亡父の録に、三箇付たり、マルバシの事。其の道具を寒風体と書せる有り。亦云、敵の太刀先我が方へ向かわば付け打つべき事。敵の構え太刀働きあらば拍子に乗りて打つべき事。敵の構え、身を放して太刀先後へならば、一拍子に勝つべき也、とも書す。
*
 宗矩は云う、敵の太刀先、向きよう、を三見(敵の太刀先前に在るか、後ろに在るか、動くか、三つを見分ける心持)とみて、その三見に仕掛けが三箇あると云々。この三見のいずれかで仕掛けられ、突き懸けられるのを、相構えで打つ事を三箇と云う。鑓も同じで上段・中段何れも同じ事である、と宗矩が言っていたこともある。
 三箇之事は、太刀の構の事で敵の構に対し三つの相構、それに青眼でこれ以上は無い。他流も三箇の仕掛けがあるが新陰流とは心持ちが異なるのである。
 鑓長太刀も同じで構えは上段・中段・下段、鑓先も同じでこの外には無い。この三つの掛かりには相構えがよい。大体、鑓、長太刀には相構えがよい。相鑓の時は上段には中段・下段には上段・中段には下段で仕掛ける心持とするのである。
 亦、三箇三つの仕掛けでは、敵の太刀先前にあれば突け、後ろに在れば二拍子で応じる。敵が出る処を(打つ、突く)。敵が我が仕掛けの拍子を待って動くならば其の動きの拍子を受け懸けにして上、下二つに乗って勝つ心持ちを思うものである。三見の心で見て三箇の仕掛けあるものである。

 石舟斎の録には三見三箇の付けたりは「マルバシ(転 まろばし)?」の事。その「道具を寒(塞ぐ)風体?」と書してあるものが有(?)。亦、敵の太刀先我が方へ向いているならば付け打つべきである。敵の構えて居る太刀に動きがあるならばその拍子に乗って打つものである。敵の構えが太刀から身を放し太刀先後ならば、一拍子に勝つべきである。とも書かれている。

 石舟斎の新陰流截相口伝書亊の三箇之大事は1、拍子あるかまへの事。1、拍子なきかまへの事。1、身を離れるかまへの事。をあげています。何れも相構となる事が前提で良さそうです。
 拍子ある構の事は「敵の太刀先前に在る構」で敵の太刀先に我が太刀先を付けて打つ。
 拍子無き構の事は「敵の構えている太刀先に動きがある構」で構えの調子が一定しないで上下などに動く場合は、相手の動きの調子を見極め乗って打つ。
 身を離れる構の事は「太刀先後の構、(上段、八相、車の構え)」敵の打込みに合わせ一拍子に打ち込む。

 
 

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2020年11月28日 (土)

月之抄を読む11、習之目録之事11の5二見之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の5二見之事

11の5二見之事
老父云、敵の懸待二つを見る事を云也。亦云、惣別仕懸けざる以前の心持専ら也。立相う時先ず三見とニ見と心得るべし。
亦云、頭書の目録に敵の構を二つに見る事付たり、太刀先前にあるか後にあるかと、見分けるべしと書すもあり。

 二見之事については、石舟斎の伝書にはこの表題では何処かにあるかもしれませんが、記述は見当たりません。宗矩は二見の事とは、敵が懸ろうとしているか、我が懸るを待とうとしているかを見る事だと云います。惣別、仕懸ける以前の心持ちである。
 立相(合う)う時には先ず、三見で相手の太刀先が前に有るか、後ろに有るか、動いているかの三つを見分け、二見でその太刀が懸って来るのか、我が仕懸けを待つのか、を心得るのだと云います。

 亦云、の処の「頭書きの目録」についても、どの伝書なのか解りませんが、二見之事の付けたりは「太刀先前に在るか、後ろに在るかを見分けるべし」と云って先に有った三見之事の「切先動いているか」の事項が抜けています。
 いずれにしても、太刀先を見る事の意義は、三見之事で、「太刀先前に在るか、後ろに在るか、動いているか」の三見を見分けて種々の仕掛けが隠されている事を考える事だと云うのです。

 石舟斎の三見之大事は新陰流截相口伝書亊では「太刀先、敵の拳、敵の顔、右条々口伝有之」で太刀先ばかりを云っていません。宗矩の指導に依る十兵衛の月之抄には、宗矩と石舟斎との間にある伝書の奥にある口伝の受け取り方の違いか、宗矩の口授が真髄なのか、兵法論議と同時に面白い処です。十兵衛も恐らくそれを思い、月之抄に「父云」と「老父云」が併記されている気もします。


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2020年11月27日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の4三見之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の4三見之事

11の4三見之事
老父云、太刀先三つ見様あり。構を見る也。敵の太刀先前にあるか、後にあるか、動か、三つを見分る心持也。三つを見分て種々の仕掛もあるにより、是を専らとするなり。三つを、見るにより三見なり。
亡父の目録には、太刀先、拳、身也と書せるあり。
亦云、敵の志を見るよりも、三つを考えべし。動、懸、待と心得、動は座らぬ心を思うべし。

 老父柳生但馬守宗矩は太刀先の見様は三つ、構を見て、敵の太刀先前に在るのか、後ろにあるのか、動いているか、この三つを見分ける。此の三つから敵は色々仕掛けて来る。三つを見るので三見というのである。
 石舟斎の三見を学ぶと宗矩の三見は同じ心持ちを述べている筈でしょうが何処か物足りない気がしてしまいます。

 亡父石舟斎は、三見之事を敵の構える太刀先・拳・体であると書いているのもある。是は石舟斎が柳生兵庫助に慶長9年1604年に相伝した「新陰流截相口伝書亊 三見之大事」に依ります。「三見之大事1、太刀先の事。2、敵の拳の事。3、敵の顔事」。月之抄では「顔が身」に変わっています。
  亦、敵の心がどのように仕懸けようとしているかを推し測るよりも、三見によって敵が動いているか、懸ろうとしているか、我が仕懸けるのを待っているかを見分けるべきである。その上で動は居着かない心を思うべきである、と述べています。

 

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2020年11月26日 (木)

月之抄を読む11、習之目録之事11の3思無邪之身之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の3思無邪之身之事

11の3思無邪之身之事
歌に、「世の中の道を習はゞ直(すぐ)に行け入江小嶋に船寄せずとも」
老父云、邪(よこしま)なからんことを思へ。身を直ぐに歪まざるを用う。足の踏み様、八文字、一文字此の二つなり。敵の方へ身なり直にせし為なり。
鑓・長太刀・諸道具ともに此心同じ事也。身の位思わずして道具に関われば身を忘るゝもの也。身をさへ知れば何れも諸道具を用に立てるもの也。
身の程を知りて道具を持てば其まゝ懸りても当たらぬものなり。
亦云、思無邪は五箇の身の真の位也と云々。身の直く(すく)道の心持にて、物を持てば其まゝ懸りても当たらぬなり。道具我が身の楯となる心持なり。
構へをせんと思わば、何時も上・中・下共に相構を用いる、是活人剣の心持也。
亦云、思無邪直なる心なり。諸事万端共に斯くの如しと書も有。
*
  思無邪の読みですが、漢文調で行けば「邪(よこしま)無きを思う」、そのまま読めば「しむじゃ」意味は正しくない事を、習いを無視するなという事になるでしょう。ここでは、「身を直に歪まざるを用う」ですから、身を歪めずに「五箇之身位之事」を正しく行う事となるでしょう。
 歌は、世の中の道とグット構えています、何事も学ぼうと思うならば、躊躇せずに習うべきだ。と云うのです。何かを学ぼうとして、その門を敲くのは非常に勇気とでも云うのでしょう、思い切る気持ちが要るものです。
 身の位、身の程、は身構えとか捌き、とでも云うのでしょう。具体的に「身を直に歪まず。足の踏み様は八文字、一文字。敵の方へ直に向く」事と云っています。
 鑓・長太刀・諸道具を扱うのも同じ心持と云います。然し道具を持つと身を忘れてしまうものです。身体操作を知れば道具は役に立つものです。然し、身のありようを知っただけでは、打ち込んでも当たらないものだと否定され、道具は我身の楯に過ぎないとまで言っています。
 構をするならば、敵と相構など活人剣の心持も習うもので、思無邪の直な気待ちで取り組まなければ物にならない。と云うのです。
 兵法の思無邪の心持は其の儘、諸事の習い事にも、諸道具の扱いにも、我身にも心にも必要だと云うのでしょう。

 身の懸かりですが石舟斎の場合は「1、身を一重に為すべき事。2、敵の拳我が肩に比ぶる事。3、身を沈にして我が拳を下げざる事。4、身を懸り先の膝に身を持たせ後のえびらをひしぐ事。5、我が左の肘を屈めざる事。」となります。
 さらに、此処では「足の踏み様は八文字、一文字此の二つなり」と我が身を敵の方に向ける事を特定しています。
 柳生十兵衛三厳は思無邪の事を「朏聞集」で解説していますが、「五箇之身位」については無理に固まってしまわない様に身を寛ぐ様にする事と云っています。
 尾張柳生の柳生兵庫助利厳はこの「五箇之身位」を否定して「始終不捨書十問十答之事」では「身之懸五箇を昔の教の如く前に作るは悪し。身堅まり詰まる故今は前を豊にして敵に逢て勝口の時五箇の心持好」としています。身之懸五箇を全面的に否定しているのではなく、前に懸る身位を、「十好習之事」で「1、直立たる身の位。高き構に弥々高く。2展びあがりて仕懸位。3、前へ及び懸るより反るべき事。4、足は浮きたる心持。」などと石舟斎の戦国時代の甲冑を着た剣法
から素肌での剣法への時代の変化を取り入れて来ています。
 

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2020年11月25日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の2五箇之身位之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の2五箇之身位之事

11の2五箇之身位之事
老父云、身を一重に為すべき事。敵の拳へ我が肩を比ぶる事。我がこぶしを楯にすべき事。左のひじを伸ばすべき事。前(さき)の膝に身を持たせ後の足を伸ばす事。是は其座より後へ引のく者を追掛けて打時よし。
亡父の録、第一身を一重になすべき事。第二敵の拳我肩に比ぶる事。第三身を沈に〆(して)我拳を下げざる事。第四身をかゝり先の膝に身を持たせ後のえびらをひしぐ事。第五我左の肘を屈めざる事云々。亦云構は何時も相構の事と書すも有。

 この月之抄の五箇之身位之事は、慶長8年1603年柳生石舟斎宗厳が孫の柳生兵介長厳(後の柳生兵庫助利厳)へ新陰流截相口伝書亊を伝授した冒頭に記されているものです。原文のまゝ記載します(柳生厳長著 正傳新陰流より)。
新陰流截相口傳書亊
身懸五箇之大事
第一身を一重に可成亊
第二敵乃古婦之吾肩尓くら婦遍き事
第三身を沈尓して吾拳を楯尓してさけ佐る事
第四身をかゝ利佐記の膝尓身も多世後乃ゑ比らを比ら具事
第五左乃比ちをかゝめ佐る事
右随分心懸稽古あるへし重々口傳有之也

 柳生兵介長厳は元和6年1620年に尾張權大納言義利(義直)に相伝の際「始終不捨書」を進上しています。兵介長厳は石舟斎の身懸五箇之大事に示された身懸は戦国時代の甲冑を着けた介者剣法に依るもので、甲冑を着ない平和な時代の剣術として「直立たる身の位」を提唱して否定しています。
 十兵衛三厳の月之抄は寛永19年1642年ですから、柳生新陰流も尾張柳生では月之抄の標準とする身懸は「身堅まり詰まる」と否定されています。
 

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2020年11月24日 (火)

月之抄を読む11、習之目録之事11の1目付之事 二星・嶺谷・遠山11の1の3遠山之目付之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の1目付之事 二星・嶺谷・遠山
11の1の3遠山之目付之事

11の1の3遠山之目付之事
老父云、我が両の肩先也。打合おし相などに成る時、此習を用る、敵の太刀先我が右の肩先え来る時は敵の右へ外すべし。左へ来る時は直に上よりおし落(押し落とし)とし勝なり。我太刀先何時も嶺の目付(右の腕のかがみの目付)、敵の胸に付けて打込むべし。
亦云、くみもの(組物)打合の時、敵味方太刀先の遣い様に身の開き肝要也と云々。
亦云、頭書きの録に遠山付けたり組み物に成る時の心持ともあり。
又云、我方よりは、敵の両の肩の間、胸へ太刀先をなすべしとも有。亦云、とりで、いあい(捕手・居合)何時も身際にしては、此心持専ら也。是より身際の心持、色に出る也。
亡父の録には遠山の事、切り組の時、双の肩とばかり書るあり。

 遠山之目付とは我が両の肩といいます。又云では「我方よりは、敵の両の肩の間、胸へ太刀先をなすべし」とも云っています。打ち合い、押し合する際の、接近戦での目付の様に思えてしまいますが、二星、嶺谷、遠山の目付は、兵法家伝書では「待にとりしめたる敵には、此三ヶ条の目付はづすべからず。但し、此の目付は懸待共に用いる也。・・うちこむ時は嶺の目付、切合せ、組物との時は遠山の目付を心によくかくべし。二星は不断はなれざる目付也」と語られています。

 宮本武蔵は兵法三十五箇条目付之事では「目を付けると云所、昔は色々在ることなれども、今伝える処の目付は、大体顔に付ける也。目のおさめ様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を動かさず、敵合近く共、いか程も遠く見る目也。其目にて見れば、敵の業は申すに及ばず、左右両脇迄も見ゆる也。観見二つの見様、観の目強く、見の目よわく見るべし。若し又敵に知らすると云う目在り。意は目に付、心は物に付かざる也。能々吟味有るべし。」

 

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2020年11月23日 (月)

月之抄を読む11、習之目録之事11の1目付三之事 二星・嶺谷・遠山11の1の2嶺谷之目付之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の1目付三之事 二星・嶺谷・遠山

11の1の2嶺谷之目付之事

11の1の2嶺谷之目付之事
老父云、右之うでのかゝみを嶺と云、左を谷と云。此のへちゞめに心を付、我太刀先を其方へむくれは、地太刀にならぬ心持也。二星より嶺谷まての間のうこきを根本の目付と定るなり。
亡父の目録には嶺(身のかゝり右のひじ)、谷(身のかゝり足踏み左のひじ)、此の如く書せるもあり。又云嶺谷付り相太刀にならざる事とばかり書す目録あり。
老父の目録に嶺谷おなしく、片手太刀何も、地太刀にならざる目付也と書もあり。

 嶺谷之目付之事
 老父云、右の腕のかがみを嶺と云、左を谷と云う。この「のびちゞみ」に心を付けて、我が太刀先を其の方へ向ければ、地太刀になる事は無い心持ちである。
 二星より嶺谷までの間(拳から肘のかゞみの間)の動きを、根本の目付と定めるのである。
 亡父の目録には嶺は身の掛り右の肘、谷は身の掛り足踏み共に左、の肘。此の如く書してあるものもある。又、云う、嶺谷付けたり相太刀にならざる事とばかり書す目録がある。
 亡父の目録に嶺谷の目付で前項の二星の目付と同じ様に、片手太刀の何れも、地太刀に成らざる目付であると書くもあり

 両拳から両肘の間の変化に目を付けて、その動きを根本の目付と父宗矩は定めている。我が太刀の切先を相手の肘に付ければ、相手の片手太刀に応ずるにも、「地太刀」にもならない。地太刀の意味は切先が地面に向いた状況をさすと思われますが、用語の説明は見当たりません。
 十兵衛の拙聞集の「嶺谷の目付の事」に依れば「両の肘のかゞみを嶺谷と申し候。上段に構へ居るものに用いる習いにて候。屈みたる時は、伸びぬ内、伸びたる時は屈まぬ内に打てと申す事にて候。上段の者は二星(拳)見へぬにより嶺谷を用申し候。委細は奥有。」

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2020年11月22日 (日)

月之抄を読む11、習之目録之事11の1目付三之事 二星・嶺谷・遠山11の1の1二星之目付之事

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11、習之目録之事
11の1目付之三之事 二星・嶺谷・遠山
11の1の1二星之目付之事

11の1の1二星之目付之事
老父の云く、敵のこぶし両のうて也。此はたらきをえる事肝要也。
亡父の目録には二星、不断の目付、左右のこぶしと書せるなり。
私云、二星付り、色と云心持あり。是は二星はあて処なり。二星のうこきを色と也。二星をみんと思ふ心より色々心付く心第一なり。重々の心持、至極まて是を用るなり。
亦云、二つのほしと云心持も、二つを一つに見る心持、二つはひとつ也。亦云、目付八寸の心持と云事あり。是と太刀のつか八寸のうこきを心懸れば、二星色も其内にあると云心を以てなり。
此二星の習第一也。是より種々の心持有により、初而心を知と云々。
老父かしら書きの目録に二星付たり不断用ると書もあり。亦云、二星敵もろてにて持時よしと書せる目録もあり。

 二星の目付之事
 老父の云うには、二星の目付は敵の拳、両の腕である。この働きを二星の動きから何を仕掛けて来るか得ることが肝要だ。
 亡父の目録には、二星は不断(目を逸らしてはならない)の目付であり、敵の左右の拳であると書かれている。
 十兵衛私は云う、二星に付け足す物は色と云う心持ちがある。二星はあて(当・充)処である。二星の動きを敵の仕掛けんとする「色」とするのである。二星を見ると思う心から敵の仕掛けの色々に心付く事が第一である。重ね重ねこの心持ち、至極に至っても是を用いるのである。 
 又、二星と云う左右の拳(また、両の腕)を見る心持も、左右の拳を一つとして見る心持であり、両拳は一つである。亦云う、八寸の心持ちと云う事があるが、左右の拳と太刀の柄の動きが如何様に仕掛け来るかを、心がけているならば、二星の色も其の柄八寸の内にあると云う心積りである。
 此の二星の習い第一である。是より種々の心持ち有るによって、初めの心掛けとして知る事と云々。
 老父の頭書きの目録に、二星の目付には不断用いる事と書かれているのもある。亦云う、二星の目付は敵が諸手で太刀の柄を持つ時に良いものであると書してある目録もあり。

 二星の目付は敵の左右の拳、両の腕、太刀の柄の動きに心懸ける事で、この処の動く様子で敵の「色」を知るのだと云います。此の目付は不断の目付と云う、不断は普段とも取れますが太刀を以て相対した敵との戦いに於ける、敵の仕懸ける「色」を認知する重要な目付と云うのでしょう。目付には嶺谷、遠山の目付などある訳で、其処だけを凝視しろ、と云う分けでは無いでしょう。
 二星はあて処とは、目当て、目標、意向、心づもり(広辞苑)から、敵の仕掛けんとする意図を推し測る処と解せば良さそうです。


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2020年11月21日 (土)

月之抄を読む10、廿七ヶ条之截相之事

月之抄を読む
10、廿七ヶ条之截相之事

廿七ヶ条之截相之事
序 上段三つ中段三つ下段三つ
 右此の上段三つの仕様は斬釘截鉄、大詰、無二剣、これ三つ也。中段三つの仕様は右旋、左傳(転)、臥切これ三つ也。下段三つの遣い様は、小詰、半開半向、獅子忿迅(ししふんじん、獅子奮迅)、懸これ三つ也と亡父の目録に書せる也。
破 上段三つ、中段三つ、下段三つ

 此の上段三つは、刀棒に三つこれ在り、中段三つは切合に三つ之在り、下段三つは折甲に三つ之在と亡父目録にあり。
急 上段三つ、中段三つ、下段三つ
 此の上段三つは陰の拵を云、中段三つは陽之拵を云、下段三つは、うごく拵えを云也。仕様は何も一拍子也と亡父の目録に有り。
又云、序、上段三、中段三、下段三。 破、上段三、中段三、下段三。急、、上中下共」に何も一拍子と書る目録もあり。
亦云、序、上段三、中段三、下段三。破、刀棒三、切合三、折甲三。急、上中下何も一拍子と書せる目録あり。亦急付たり上何も一拍子と書くもあり。
老父云、右の太刀を以て廿七の截相を稽古すれば大形これにて相済なり。何も太刀をつかふなり。この外に、向上、極意、神妙剣
 古語に云。策ごとを帷幄中に運らして、勝ちを千里の外に決す(はかりごとをいあくのうちにめぐらして、かちをせんりのそとにけっす)。是新陰流の極意これにて極る也。
 添截乱截の構をするものには、無二剣にて勝、それを活人剣にて勝。向上にて活人剣を勝、極意にて向上を勝。神妙剣にて極意を勝。これに極る也。うえなき事をいわんために神妙剣を名つくるなり。

 是より兵法の心持、皆一つに成。一心のきわまり也。けなげは申におよばず。一心のこころのはたらき受用をするに一心なり。
 心の理りを分け、其理を知事兵法の根本也。然によって心持の習を専らとす。習のいろいろ左のごとし。

 廿七箇条截相之事は新陰流の勢法の稽古業を続け遣いとして稽古する事を示唆する教えでしょう。ともすると一つずつの形に拘り打太刀の仕掛けに特定の勢法で勝を得れば、其処で一勝負あったとして互に退いて、新たな想定場面で截合い形を稽古するのが一般です。この続け遣いの組み合わせは当初はどうであったか定かではありませんが、江戸期に幾つも組み合わされている様で、特定されてはいない様です。

 この廿七箇条截相は柳生石舟斎宗厳による新陰流兵法目録事に依れば以下の様です。(柳生厳長著 正伝新陰流より)
 序 上段三 中段三 下段三
 破 折甲二 刀棒三 打相四
 急 上段三 中段三 下段三
 右急はかまへに付而一拍子也
 右条々面太刀一通也 重々口伝可有之者也
 上泉武蔵守 藤原秀綱
 柳生但馬守 平宗厳花押導印
 柳生兵介 平長厳
 慶長8年1604年癸卯三月日

 石舟斎より柳生兵介長厳に授与された目録の末尾に27箇条の表題のみ書き込まれ、詳細は口伝とされています。石舟斎74歳で、死の2年前の目録です。この翌年柳生十兵衛が生まれています。十兵衛の月之抄は寛永19年1642年のものです。
 
 

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2020年11月20日 (金)

月之抄を読む8、極意之太刀 数六つ 9、活人剣

月之抄を読む
8、極意之太刀 数六つ
9、活人剣

8、極意之太刀 数六つ
添截乱截 無二剣
此の構二つ也。敵添截をつかふ時、仕掛を無二剣にて勝なり。

9、活人剣
これより構なくして仕掛をせん(先)にして、敵のはたらきに随。拍子あひこの心より出るなり。何も序、きり相を稽古して敵のやうすをみる事是よりはじまる也。
私云、右の六つの太刀の外に八箇必勝口伝あり。砕重々之在と書入たる亡父の目録あり。

 8、極意の太刀 数六つ
 添截乱截・無二剣。此の構え二つである。敵添截を遣う時、仕掛を無二剣にて勝つのである。
 この文章から「極意之太刀」があって数は六つあると云うのですが、添截乱截と無二剣の二つしか書かれていません。この二本の太刀の構えは二つと云うのでしょう。敵が添截を遣う時には、仕掛を無二剣で応じて勝つのだと月之抄を読んだだけでは意味不明です。その上「添截乱截」と一つの太刀でしょうが、添截だけの役を云うだけで乱截の事には何も触れていません。

 9、活人剣
 是より、構は無くして仕掛を先にして、敵の働きに随い拍子合い、この心より活人剣となるのである。何れも序(はじめに)、截り相を稽古して敵の様子を見る事、是より始まるのである。
 私(十兵衛)云う、右の六つの太刀の外に八箇必勝口伝がある。砕き(くだき)重ね重ね之在と書き入れた亡父の目録が別にある。

 この極意之太刀と活人剣を一つのくくりとしても、添截乱截・無二剣・活人剣の三つしか見当たりません。活人剣は独立した太刀かと思う様な書き込みですが、極意の太刀の一つでしょう。
 あと三つは月之抄の次回に投稿する、「10、廿七ヶ条の截相之事」も極意の太刀であるとすればその中に「・・この外に、向上、極意、神妙剣」と太刀名が見えます。さすればこの「極意の太刀 数六つ」は「添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣」となって数六つになります。
 尾張柳生を学ぶ者は、この六つの太刀数のある勢法は「奥義の太刀」の太刀名「添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣」である事に気が付くはずです。
 ハ箇必勝は天狗抄を指しているのでしょう。天狗抄は「花車・明身・善待・手引・乱剣・二刀・二刀打物・二人懸り」の八箇となります。八箇必勝の必勝の意味が読み取れません。九箇の一本目が「必勝」ですがここに示すものでは無いでしょう。
 
  柳生厳長による正傳新陰流の柳生石舟斎自筆相伝書1、新陰流兵法目録事ー太刀の目録 一巻」とあるのに依れば、三学・九箇に続いて以下の様です。
  天狗抄 太刀数八つ
  添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣・ハ箇必勝。
  二拾七箇条截相
 ・・奥書・・
 この太刀目録は慶長8年1603年に宗厳より兵介長厳(如雲斉兵庫助利厳)に相伝した太刀目録です。この意味不明の書き方は石舟斉宗厳によって、題名や太刀名を秘して書き載せない判例を示したとしています。
 月之抄では天狗抄は太刀数八つで花車・明身・谷待(善待)・手引・乱剣・ふたつ具足打もの(二刀・二刀打物)・二人相手にして勝心持(二人懸り)で表記され、極意之太刀は尾張柳生の奥之太刀として数六つで添截乱截・無二剣・活人剣・向上・極意・神妙剣となります。
 石舟斎宗厳の新陰流兵法目録事ー太刀の目録 一巻には燕飛や天狗抄、更に七太刀も記載はないのです。
 天狗抄には花車以下八つの太刀名を持つのに記載無く、奥義の太刀は、月之抄では極意之太刀と改名され 添截乱截以下数六つの太刀名が複雑な記載の仕方によっています。月之抄の複雑な記入の仕方は、宗矩は柳生新陰流のただの印可をうけているばかりで、正伝していない為の配慮に依るのかも知れませんが、そんな都合より意味不明な書き方に悩まされて、素晴らしい月之抄に先を思いやられます。

 この辺の月之抄の勢法の太刀名表記の仕方や、石舟斎宗厳の勢法の題名や太刀名を書き載せない心積りなどは、そちらに興味のある実技門外漢の武術史屋さんにお任せしておきます。
 柳生新陰流の多くの伝書が容易にみられる現在を思う時、江戸時代初期の兵法で生活していた時代は兎も角、現代では何ら隠す意味が見いだせないし、その意図する事を解きほぐす必要はありません。伝書によって新陰流の事理一致の真髄に迫れればよいだけです。然しいずれにしても柳生新陰流の伝書を総なめしながら、同時に人一倍の稽古をする気がありませんと傍にも近寄れないでしょう。

 
 

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2020年11月19日 (木)

月之抄を読む7、天狗抄 太刀数八つ

月之抄を読む
7、天狗抄 太刀数八つ

天狗抄 太刀数八つ
花車 明身 谷待 手引 乱剣 序破急
老父の云く此太刀は構を習として、これより切掛、序のうちにて表裏をもととして用る太刀これ也。
是より敵の転変に随う心持あり。ふたつ具足打もの、二人あいてにして勝心持を此内にて秘事とするなり。
皆太刀なり。此の余にきられぬ構を専としてつかふ太刀二つあり。
私云古流には天狗の名を目録に書せるありまゝ多し。
老父はかくのことし。

 天狗抄は太刀数八つ 花車(かしゃ)、明身(あけみ)、谷待(たにまちと書かれていますが、芳徳寺伝には谷の右脇に善の文字が書き加えられ善待(ぜんたい)では無いかと暗に示されています。)、手引(てびき)、乱剣(らんけん)、序(じょ、雅楽などで、曲の最初の部分、ものごとの始め、いとぐち)、破(は、雅楽で、曲の中間の部分、やぶる)、急(きゅう、雅楽などで、最後の拍子の速い部分、いそぐ)。
 太刀名は花車、明身、谷(善)待、手引、乱剣の五つしか示されていません。序破急の文字の意図するところを各太刀に宛がえば五×三で十五になってしまいます。然しこの表示からは序・破・急の心持ちとして太刀数八つと思えてしまいます。

 正徳6年1717年の柳生新秘抄に依れば花車・明身・善待・手引・乱剣・二具足・打物・二人懸の八つで五箇の太刀とされています。

 老父の云く、此の太刀は構えを習い事として、その構より切り掛かり、初めはゆっくりと表裏(隠し、謀る心。振り。武略)をもととして用いる太刀がこの天狗抄である。
 表裏を仕掛け、是より敵の転変に随う心持ちを以て習うものである。天狗抄の太刀数八つには、二つ具足(二刀に依り二本)による打ちもの、そして、二人を相手にして勝つ心持ちを習うのである。天狗抄の内の秘事としてこの三本は秘事とするのである。
(是が二具足、打物、二人懸なのでしょう。)
 皆太刀に依るものである。此の余に(他に)斬られない構えを専らとした太刀が二つある。
(太刀二つが別にある様な雰囲気ですが、さて、月之抄に書き込まれているのか、その謂れが何なのか疑問です。)
 私云う(柳生十兵衛三厳は云う)古流には天狗の名を目録に書せるあり。まゝ多し、老父は斯くの如し。

 「天狗とは当流先哲の説によれば、天狗は山気にして、時あり形をなすものとされ、本来無形なれども、敵によりて形をなすもの。もとよりこの道は無形の位にして、敵に応じて形をなすを本原とする」(天狗抄について「月之抄と尾張柳生」は長岡房成の「新陰流兵法口伝書外伝」を引用して言う。赤羽根龍夫著柳生厳周伝の研究(二)より)

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2020年11月18日 (水)

月之抄を読む6、九箇

月之抄を読む
6、九箇

九箇
必勝 逆風 十太刀 和卜 捷径 小詰 大詰 八重垣 村雲
右之九つは構をして居る者にまた構をしてせん(先)を仕掛打そんして(打ち損じて)二の目を勝稽古残心の習也。これ老父のおしえ(教え)なり。
*
 九箇(くか)
 必勝(ひっしょう)、逆風(ぎゃくふう)、十太刀(とうたち)、捷径(しょうけい)、小詰(こづめ)、
大詰(おおづめ)、八重垣(やえがき)、村雲(むらくも)

 右の九本の勢法は構えている相手に、此方も構え先を仕掛け打ち損じる、其処を相手が打込んで来るのを二の目に勝つ稽古で残心の心持ちである。懸り待つ教えで老父(柳生宗矩)の教えである。

 前出の三学は「待ち」で相手が打って来るのに応じたのですが、九箇は「懸かり待つ」もので我の懸り打つのを、相手は外し、ここぞと打って来る処を「二の目」(二の太刀)で打つ「誘い」と「迎え」によるものです。
 業手附については、赤羽根龍夫先生の「柳生厳周伝の研究(1)(2)」、もしくは「柳生の芸能江戸武士の身体操作柳生新陰流を学ぶ」をご参照下さい。読まれた後にDVDを拝見するとより見えて来ます。
 九箇の一本づつの呼称は、どこぞで聞き及んだ熟語なので、、その意味が込められているかもしれませんがそこまで辿るものが見当たりません。業名の由来や、稽古形などに捉われていては居着くばかりですから、語意と勢法のほんの一部の心持ちを並べてみます。
 必勝 :必ず勝つ事。左手を鍔側に持つ、左太刀による。
 逆風 :向かい風。左車
 十太刀:(十文字の太刀)。切上げ・くねり打ち
 和卜 :うかがい和す。剣先を挙げないで打ち落し
 捷径 :近道。刀棒
 小詰 :小さく詰める。獅子洞入り
 大詰 :大きく詰める。抜面
 八重垣:幾重にも巡らされた垣根。横雷刀・当たり拍子
 村雲 :幾重にも群がって動く雲。抜面・くねり打ち

 形の呼称と運剣については柳生新秘抄に、なるほどと言う解説が為されています。短めなのを一つ今村嘉雄著史料より「柳生新陰流新秘抄」を読んで見ます。
 「逆風:逆風はさかしまに吹く風と云うことなり。相手清眼にかまへ居るものに仕懸けて、袈裟がけに前後へ足を踏みかへて、左の方へ太刀を車にまわして打払ひ、返す太刀に腕を搦んで斬るなり。払ふ太刀、振もどす太刀は、さながら弓手右手へ入違うて、風の吹くがごとし。此のありさまを逆風と云うべき、幾度も敵の打つに随って、弓手の足を右手へ踏み、右手を弓手へなし、敵と反して勝つなり。」

 燕飛(猿飛・遠飛)、三学、九箇、を月之抄と合わせ稽古して見ますと、今まで何を稽古としてきたのか、かすかに見えてくるかもしれません。いたずらに些細な意味不明な事に拘って、本筋を見失う様では何時まで経っても先師の残した教えを習い稽古したとは言えそうにないでしょう。
 燕飛、三学、九箇を「形」では無く「勢法」として稽古するにあたり、これ等は「かたち」を稽古するのではなく「勢法」に依る「術」を学ぶことを、抜きにした棒振りを何年やっても何も出来て来ないものでしょう。
 

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2020年11月17日 (火)

月之抄を読む5、三学

月之抄を読む
5、三学

三学
 一刀両段、斬釘截鉄、半開半向、右旋左傳(右旋左転)、長短一味
 右之太刀のくだき三つづつ有之
 老父云、此五つは構をしてたもつを専とする也。待之心持也。
 亦云、めつけは二星、身の受用は五箇、三学、思無邪の心持専なり。

 三学(さんがく)、月之抄では「三学」ですが、尾張では柳生連也厳包校正によって「三学円太刀」と言われている様です。時の移ろいと指導者の思いが、三学を揺り動かした様で、古伝・江戸遣い・尾張遣いと、五本の呼称は同じですがそれぞれです。
 ①上泉伊勢守がもたらした三学は、甲冑を付けた状態での膝を大きくエマす「沈なる身」によるもの。
 ②江戸遣いは膝を軽くエマす。
 ③尾張遣いは自然に立つ「直立たる身」。

 五本夫々の呼称は同じで、一刀両段(いっとうりょうだん)・斬釘截鉄(ざんていせってつ)・半開半向(はんかいはんこう)・右旋左傳(右旋左転うせんさてん、古伝は左傳ですが転の誤字かどうかは不明です)・長短一味(ちょうたんいちみ)となります。

 この、五本の形(勢法)に夫々「くだき(砕き)」、いわゆる変化技が三っづつあるとされています。変化技は秘伝とされている様で、現代になっても常の稽古には伝えられていない。現代でも秘すべき意味があるかは疑問です。単なる師匠からの受け売りであったり、意味のない懐古趣味で無ければ良いと思いますが、へぼ剣士に伝えてあらぬ方に行ったのでは古伝が泣く事もあるかもしれません。
 勢法を形として「かたち」ばかりを師匠に真似て演ずるだけの者には「砕き」など不要でしょう。本物を求める者には、常の稽古からでも自ずと三つと云わず思いつく程の「砕き」は出て来るものです。そうでなければ特定の決まった棒振り「形」に終わってしまうでしょう。
 習い稽古して、その特定の「かたちの真髄」に至ったとしても、「砕き」が無ければ、変化に対応できないものです。「砕き」三つは稽古業としての三学の「戒」であって「定慧」に至れない、極意として秘されるならば自ら求める以外に無さそうです。

 老父とは柳生但馬守宗矩を指しているもので、宗矩は三学の五つの勢法は、使太刀は構えをして保つ(待つ)を専らとする。打太刀の懸りに応じて懸る心持である。新陰流の「就色随色事」、「懸待有之事」を学ぶ事だと云います。
 
 亦云う、目付は二星「二星之目付之事」で老父(宗矩)は、敵の拳両の腕。亡父(石舟斎)は左右の拳。

 身の受け様は五箇は「五箇之身位之事」で
 老父は「①身を一重に為すべき事。②敵の拳へ、我が肩と比ぶる事。③我が拳を楯にすべき事。④左の肘を延ばすべき事。⑤前の膝に身を持たせ、後の脚をのばす事。」の五つを挙げています。
 亡父は「第一身を一重になすべき事。第二敵の拳我が肩に比ぶる事。第三身を沈にして我拳を下げざる事。第四身を屈め、先の膝に身をもたせ、後ろのえびらをひしぐ事。第五我が左の肘を屈めざる事。」
 この教えは、戦国時代の甲冑を付けての兵法とされています、戦国末期では甲冑も動きやすく軽いものに変化してきており、徳川時代には平服による兵法へと変化して来ています、当然の事時の流れに即さない兵法はすたれていくものです。。
 現代ではそれらの事も無く、これ等の古流剣術を自ら学ぶ意味を、考えた上で納得して学ぶべきものでしょう。
 与えられた条件の範囲でしか行動できず、マニュアルが無ければ何も操作できないのでは、持てる能力がさび付いてしまいます。尾張柳生の「直立たる身」に依り、剣先も伸び、360度自由自在に変換出来る身体操作を手に入れたわけですから、其処から更に工夫の世界が容易になったとも云えるでしょう。

 「三学」についての呼称の謂れを思えというのだろうと思います。
 赤羽根龍夫先生の「柳生の芸能」より、「三学とは禅に戒定慧(かいじょうえ)の三学という事有り、修行を積みて鍛錬するは「戒」、その術身に練熟して事に臨み、場に応じて惑わず、事術に心の任せざるは「定」、物に応じて真性の知覚発する所あきらかにして漏らす事なきを「慧」というなり。近代、何となく取り失いて、三学の大道を知らず事術の修行を励ますのみにして、「定慧」の場を踏まず生涯を終る者多し。術を尽くして術を放れざれば、何時の日にか用に立つべき処には至らぬものなり。」
 やはり、厳しいことを述べておられます。武道を志す者に多い悪習は、何時までも習いに執着している事でしょう。指導する者が先ず考えるべき事だろうと思いますし、習うものも、決められたことのみを修業し鍛錬するだけでは、「戒」ばかりで「三学」には程遠いと知るものです。
 令和のこの時代、武術を学ぶ心は「物に応じて真性の知覚発する所あきらかにして漏らす事なき」事理一致の自分を磨き上げる事であろうと思います。

 思無邪の心持ちは、「敵の方へ身なり直にせん為也」「思無邪は五箇之身の真の位也と云々」。敵に対しての我が身体を直ぐにする(あるべき姿)を云うのでしょう。月之抄本文の中で委しく学び解説して行きたいと思います。 

 どの流でも、大方稽古形の一本目に其の流の根本的な考えが秘められています。柳生新陰流も前出の遠飛(猿飛・燕飛)と三学には新陰流のエキスが大部分含まれていると思います。

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2020年11月16日 (月)

月之抄を読む4、遠飛 面太刀ナリ

月之抄を読む
4、遠飛 面太刀ナリ

 遠飛 面太刀ナリ
 遠飛 猿廻 月影 山陰 浦波 浮舟 切甲 刀棒 

 月之抄に掲げられている形名は、恐らく上泉伊勢守から伝わるものかも知れないし、そうでないかも知れない。
 どの流であっても時代の要請や時の指導者によって変化してしまう事はあり得るものです。
 私が稽古で習っている形(勢法)は柳生厳周に依ると聞かされています。それと月之抄とは異なります。
 月之抄に依る形の名称が「遠飛」ですが厳周伝は「燕飛」と書いて「えんぴ」と読んでいます。疋田伝や柳生神秘抄は「猿飛」です。どれが正しくどれが間違いと云う程の事でもない。
 月之抄の遠飛は8本の名称が記載されていますが、他は6本で月之抄にある「7本目切甲」と「8本目刀棒」の名称が見られません。是は柳生厳長著「正傳新陰流」の柳生石舟斎自筆相伝書の新陰流兵法目録事によれば、「江戸柳生宗矩は、燕飛六箇の太刀の次へ、1、折甲、1、十方(実は刀棒)の二太刀を附け加えている」とされています。
 それとは別に他の伝承された形にも「浦波」と「浮舟」が前後入れ替わったりしています。
 柳生流神秘抄では、8本によって組み立てられています。

新陰流の極意の続け遣いの勢法ですから呼称の入れ替わりなど有っても基本的に同じと考えればいいのでしょう。どれもこれも手附けさえあればやってみれば良いと思います。
 現代剣道の影響か、道場内で決められた「かたち」でしか稽古出来ない、或いはしてはならないという料簡では古流剣術からは何も得られないでしょう。まして新陰流の形は勢法と教えられています。

 赤羽根龍夫先生の「柳生の芸能」では「世俗、武芸の形をみな形といいきたれども、形といえば木や竹にて形を作り、雲形、山形、鳥の形ち、獣の形ち、そのほか種々の形ち等の類の如くに聞こえるなり。されども左様に身形を死物に作ることにはあらず、中国の「武備誌」にては、これを「勢」と称したり。さればこの形も勢々変化して勝ちを取る法を習う基本の姿をいうなり。・・初学、形の名の義を尋ねんと欲せば、「勢」という字にかえて見るべし。・・故に形の見えたるを悪しとし、何とも察し測られぬ処を好しとす。もと「兵」は「常形なく常勢なし」(孫子)といえり。・・されども、それにては一定したる指針なし。指針なくしては修行困難なるにより、仮に種々の形ちを挙げて勝ちを制する道を顕わし示したるなり・故にこれにて身体を習わし、これにて「因敵転化(敵に従って変化する)」の道を心悟せしむ。故に手本の勢なれば手本の形と思うべし。よってまた、これにて勝てということにてはなきなり。それ故に形を死物に作り飾ること悪しく、また情のあらわれたるも悪く、また一つの形にて勝たんと泥むも悪しと知るべし。」
と語られています。この心を失ってしまい「かたち」のみを、押し付ける、古流剣術の似非指導者のなんと多い事でしょう。結果はその形にも至れないものです。中には「手本の形も出来ないのに先へは進ませられない」と仰る指導者も居たりします。剣術の「身体を習わし、敵に従って変化す」の事を指導出来ない自らを恥じるべきでしょう。 

 月之抄:名称遠飛:遠飛・猿廻・月影・山陰・浦波・浮舟・切甲・刀棒

 厳周伝:名称燕飛:燕飛・猿廻・山陰・月影・浦波・浮舟 
    (柳生厳周伝の研究(二)赤羽根龍夫著)

 疋田伝:名称猿飛:猿飛・猿廻・山陰・月影・浮舟・浦波 
    (新陰流(疋田伝)の研究 赤羽根龍夫著)

  柳生流新秘抄:名称猿飛:猿飛・猿廻・月陰・山陰・浦波・浮舟・折甲・刀棒
    (史料柳生新陰流今村嘉雄著 正徳6年1717年)

月之抄は柳生十兵衛三厳であり、柳生新秘抄は柳生宗矩の子柳生宗冬の子宗在の門弟、佐野嘉内勝旧が正徳6年1716年に著したものですから、当然の事として折甲、刀棒がある事になります。
 尾張柳生の厳周伝や上泉伊勢守の門弟疋田豊五郎の疋田伝には折甲、刀棒は存在しません。

 

 

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2020年11月15日 (日)

月之抄を読む3、兵法之落索2

月之抄を読む
3、兵法之落索2

 勤(つとめ)亦勤むべし。奥義を疎かにして、仕合を好む者は、其の身恥辱を受くるのみに非ずや。某甲(むこう、それがし、なにがし)道を漫(みだりに)すれば咎を兵法に帰す。一流の師誠に憎むべき者也。豈啻(ただ)兵法一道ならんや。六芸に於て亦稽古無く寧(むしろ、いずくんぞ)奥義に至るおや。
 此の流第一仕相為すべからず。余流を廃すべからず。他流を立て道を嗜み、相尋ぬべき所をもつは、此の道に於ける修行也。世に上の輩、必ず極意の一二を知る者儘多し。
 人、生きて之を知る者に非ず、学びて浅くより深きに至り、一文は無文の師也。温故知新(おんこちしん、ふるきをたずねてあたらしきをしる)則此の道に於て、日新の功有るも、他流に必勝すべからず。
 今日の我に勝は、昨日の我上手奇妙の者、鍛錬工夫の上に在る。
 古人の師伝、其の人一世の意地、覚悟、分別の存する所の仁を見て、執心懇望に於ては相伝すべし。努々(ゆめゆめ)面太刀以下、稽古を極めず、他流を嘲弄し、仕合を好みて高瞞(高慢)の人は、家法相伝すべからず。連日其の人を験み、其の人英傑に非ざれば、截相の極意口伝許可すべからず。
 強弩(きょうど)、矛戟(ぼうげき)翼を為さず(石弓も矛や戟も役にたたず)。死に及び遯(たく、のがれる)は此の術也。極るべし云々。
 歳天文二十三年甲寅三月日 柳生但馬守宗厳書之

 兵法之落索は天文23年1544年3月に、柳生石舟斎宗厳が家訓として書き残した一文と知れます。随ってこの兵法落索は柳生新陰流の家訓と言えるものです。
 仕合を好む者は、その身を辱め某の新陰流をも貶めるものとなる。第一は仕合の法度。他流を廃せずに、立てその奥義を身に付ける事。と言っています。
 現在聞く所に依れば、どこぞの道場では、同流の他道場に出稽古すらご法度とか、他流などとんでもないという風潮が流れていてその様な師匠の門弟に成った事は哀れなものです。理由は「形が乱れる」だそうです。
 一文は無文の師、温故知新、今日の我は昨日の我の上に在る。家法を相伝するには其の人の意地、覚悟、分別の有り様、更に執心懇望する人には相伝すべきである、とも家訓に述べています。
 他流を嘲弄し、仕合を好み、高慢であったり、英傑で無ければ截相の極意口伝許可してはならない。と厳しい家訓です。

 この兵法落索は天文23年1544年ですが芳徳寺所蔵の月之抄は寛永19年1642年のものになります。ほぼ一世紀前のものという事になります。
 なお、柳生但馬守宗厳による一流の紀綱・柳生家憲は天正17年1589年(柳生厳長著 正伝新陰流より)。さらにもう一つ、柳生宗厳が上泉伊勢守より印可を受けたのは永禄8年1565年となります。
 
 

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2020年11月14日 (土)

月之抄をよむ3、兵法之落索1

月之抄をよむ
3、兵法之落索1


 漢文調で書かれていますので、読み下し文として掲載します。
 夫れ兵法は竺(天竺)、支(支那)、日(日本)三国に亘り之有り。
 竺土に於いては、七仏師、文殊、上将、智恵剣を提持し、無明の賊を截断す、一切の衆生其の刃に嬰(ふれ)ざるなし。兵法の濫觴(らんしょう、さかずきをうかべる、意味は物事の始まり)と謂うべき。摩利支尊天は専ら秘術を以て為す者也。
 支那に於いては黄帝阪泉涼(涿 たく)鹿に戦い(史記による伝説上の黄帝の阪泉の戦い涿鹿(たくろく)の戦い)
以て還り元明に至り、断絶せずは兵法也。
 日本に於ては、伊弉諾尊より、今日に至り、一日として兵法無くべからず。古流、中流、新当流有り。亦復陰流有り。
 其の余は勝計すべからず(それ以外は数え上げるものでは無い)。
 茲に上泉武蔵守秀綱有り。関東に於て諸流の奥源を究め、陰流に於て奇妙を抽(ちゅうす、ぬきんず)。新陰流と号す。
 時に上洛有り、是に於て宗厳若年より、兵法に執心し諸流の極意を尋ね捜すと雖も、未だ勝利を達する能わず。故に秀綱に対し種々執心懇望せしめ、毛頭も極意を相残されず、誓詞印可返し賜い、截相口伝を極む、之に加え宗厳数年当流、他流稽古鍛錬を以て工夫の上、新しく肝心の一、二を分別し、或は十人にして六、七人、或は十度にして六、七度、無刀による必勝の工夫を得る。之を仰ぎて弥(いよいよ)高く、之を鑚(き)ればいよいよ堅し。
 世に玄妙と云うは其斯れ之斯を謂うか、惟多くは唯我独聊(唯我一人を頼みとする)
寓意存するのみ。然れど造次顚沛(ぞうじ・てんぱい 意味はわずかな時間)切磋琢磨すれば則必ず自得有る矣。

  落索とは、酒食などの食べ残しもの、またそれを飲食する事。行事などの慰労の宴、という意味として使われます。兵法の落索とはさて・・。此処では新陰流の由来と柳生宗厳が極意を手に入れ無刀を得た由来をのべています。

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2020年11月13日 (金)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の4

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の4


 当時、宗厳公思いを兵術に凝らして曰く、刀剣を持ちて敵を制するは格外の玄術に非ず(決まり事以外の幻の術、魔術ではない)。豈赤手(意味は素手)にして人を殺す手段に有らざらんや。
 是に於いて、工夫日に積り、煅煉(たんれん・鍛錬)年を累(かさね)、別に新たな意(かんがえ)をい出す。忽ち白戦(無刀、蘇軾の詩「白戦い寸鉄を持つを許さず」から)の術を得る。◯然(今村本 鍛然、たんぜん、意味は?)として彼剣を揮い我を撃つ、翻然(ほんぜん 意味はひるがえって)として飛び去り、右転左転、歩々風起る、前に在り忽焉(こつえん、意味はたちまち)として後ろに在り。手に寸刃を持たずして却って逼人(ひょうじん 意味はせまるひと)を抑える。身に寸縄を施さず却って殺敵を縛す、赤手にして長蛇を捕え、控勤(こうきん 意味は手抜き)を施さず、生馬に騎し、他の刀剣を掠奪し、却って侘(他)眼を晴らし刳(えぐる)が如し、一時敗者を捉えれば、寔(まことに)人意之表を出す。
 超然の才、絶倫の識に非ずんば、豈能くこの如くならんや。この時にも。魔外命を乞、賁育(ふんいく?、孟子のこと)手を拱き、下◯虎を搏(うつ)、項羽人を叱り、亦下風に立つ者也。
 天下に兵を学ばん者の之を捨て何を求めんや。吁(ああ)盛ん哉。睠(かえりみる)に、夫れ師の道を伝るに其の人を識らずして妄りに伝えば、則却って其の害を受けん。后◯(すい?)射を逢衆に伝う、飛衛射を紀昌に伝は是也。
 若し剣術を以て人に伝うるは則庚公(こうこう)の斯くの如き者を撰ばん。之を伝えれば可成らん乎。其の人に非ずしてその道を伝える如く、蓋し(けだし)聞く、師の資を相承し、恰も一器の水を一器に瀉(そそぐ)に似たり、一燈を分かちて百千燈と成すが如し。
 始めより、殊に異なること無し。然りと雖も、工夫浅深、鍛錬厚薄有るに依って其の術も亦工拙軽重有。業は勤めるに精、嬉しいに荒、行きて思い成り、随いに毀(やぶる)。精を研ぎ、思いを罩(こめ)、而して後其の至微に至るべき也。精微要妙なるは、言を以て宣ぶべからず。只熟するにのみ在る乎。賢士太夫武を以て世に名を成すは、学ばざるべからず。光陰荏苒(こういんじんぜん、意味は 為す事も無く月日を過ごすこと)、時を惜しむべき也。老いて悔い、何及哉(なんぞ及ぶべけんや)、勉旃(べんせん 意味はこれをつとめよ)。

 現在では、そのままでは文字も読めず、読めても意味が伝わらないような、熟語が書き連ねてあるのですが、此処はできるだけ原文のままの読み下しで終わらせておきます。尚、読み下しに当たり、芳徳寺所蔵の「月之抄」原文を読んでおりますが、今村嘉雄著史料柳生新陰流下巻を参考にさせてもいただいています。
 新陰流の上泉伊勢守を讃え、柳生石舟斎宗厳をも讃えている序文となります。
 この序文の筆者が書かれていないのですが、この文章の最終章の末尾の「勉旃」は臨済宗のもので其処から、同時代の沢庵和尚を頭に描きました。柳生宗矩との関わりから当然として間違いは無さそうです。この辺は、何方か興味のある方はご研究下さい。

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2020年11月12日 (木)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の3

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の3

 粤(ここに)、上泉武蔵守秀綱公という者有り。東関の豪英也。遍(あまねく)天下の剣客の門を扣(叩く)いて、其の閫奥(こんおう、敷居の奥)に至る。最も陰之流に於いて堂に升(のぼる、昇る)り、室に入る。
 世、之を新陰流と謂(いう)。弱を以て強を制し、強を以て弱に勝つ、長を以て短に入り、短を以て長に入る、吹毛横に按(おさえ)、金翅を海に劈(きる、つんざく)、莫耶(莫邪)を竪に扣(叩く)。怒雷天を破る。天下其の鋒に当たる者無し。
 柳生氏但馬守平宗厳公という者、和州の英産也(大和柳生の庄生まれの英才)。齠齔(読みちょうしん、おさなくして)自ずから志を剣術に遊び、諸流を泝(さかのぼる)や淵源なり。
 新陰の最も秀でたるを知る。而して秀綱公に従いて遊ぶは幾温涼(幾年か)。造次(ぞうじ、意味は咄嗟)も兵に於いてし、顛沛(てんぱい、意味は咄嗟)も兵に於いてす。
 是を以て其の妙を得、其の頤(おとがい、意味はあご)を探るも、師を迥(はかり)見るは遠しかな。其の兵の用に到は、七縦八横、千変万化、半合半開、双発双収、風の帆を使い見るが如し、兎に鷹を放つを見るに似たり。一刀を揮えば(ふるえば)三千の剣客容を改め色を失う。
 長鎩を振るえば則八万の豼貅(ひきゅう、意味は伝説上の怪獣、兵)の心を動かし目駭(おどろく)。虎山に靠(もたれる)如く、竜雲を拏(とらえる)。実に兵道の冠冕(かんめん、意味は一番優れているもの)となる。天下の剣客靡全(ひょうぜん、意味はなびく)として其の門に入らざるは無しや。 

 上泉秀綱の剣を柳生石舟斎は学び、天下の剣客其の門弟に成らざるは無し。と褒めたたえています。この時代、徳川将軍家に取り立てられ、諸侯もそれに追随するほどの兵法家であったのでしょう。それにしても語句で飾り立てています。
 

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2020年11月11日 (水)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の2

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の2

 君見ずや、漢高三尺の剣を提げ(ひっさげ)天下を平ぐ、炎運四百年洪基(こうき、大きな事業)を開きしを、亦快からず哉。
 凡よそ賢士大夫、志を武名に染むるは、是も学ばざれば、孰(いずれか)学ぶべき。日之を学ぶと雖も、一朝一夕にして其妙を得るに非ず。
日に問い月に学び、旬鍛季錬(十日鍛え一年錬る)、朝に三千打ち、暮れに八百打つ、自然この心に応じてこの手を得るに非ずんば、豈能く其の妙を尽くさん乎。
 其の妙を得れば、郢工泥を斲(えいこうどろをけずる)、輪扁輪を斲(けずる)異曲同行与(いきょくどうこうと)。
 寔(まことに)夫れ剣術之士、神勢妙術を得れば敵に臨んで戦いを決するに、猶予有る無し。足軽く善く走る、一たびは左、一たびは右、一たびは向き(正面)、一たびは背く。倐而(しゅくとして)往き、忽而(こつとして、すばやく)来る。或は其の表を撃ち、或は其の裏を撃つ。若(もしくは)地より出で、若は天より下るがごとし。其の疾(とき)こと風の如く、其の暴(にわか)なること雷のごとし。人の識する所に非ず、無窮の変を行。凛々(りんりん)威風として人逼り(せまり)て寒し。
 白刃始めて合うや、正按、傍堤、横斬、竪截、一刀両断、赤肉、白骨、電光の影中春風を斬るものや。嗟(ああ)至れる哉。

 漢高は剣を以て天下を納め四百年続いた大事業を為したのも剣に依る。剣を学ばずして何を学ぶべきなのか、と投げかけています。然し一朝一夕では其の妙は得られない、得ればどのように異なる事であろうと「異曲同行」だと、漢文の語句を並べ立てています。

 

 

 

 

 

 

 

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2020年11月10日 (火)

月之抄を読む2、新陰流兵法目録 序 閑長老作の1

月之抄を読む
2、新陰流兵法目録
序 閑長老作の1

*漢文調で書かれていますので、原文を掲載せずに読み下し文と致します。

夫れ兵術は身を保ち、敵を亡ぼし、家を斉(ととのえ)、軍を治し、國を制し、天下を平らかにする之道也。
庶人之を得れば則ち身を保ち、勇士之を得れば則敵を亡ぼす。
大夫之を得れば其の家を斉(ととの)う。戦将之を得れば則軍を治す。諸侯之を得れば則国を制す。天子之を得れば天下を平かにす。
戦を以て戦を止むる之意也。是故鋭士(?)勇将、
威に於いて天下に立たんと欲する者は、兵術に由らざる無し。
而して兵術之要、
於て必ず克つより大なるは莫し。
彼此相対、鋒を交え刃を接せんと欲するの端皈に臨んで
彼以て来るべし、我以て往くべし。彼人也。我人也。
蜂台猶毒有、
況や人に於いておや。而しても又兵両(ふたつ)ながら勝たず、両(ふたつ)ながら負けず。
強弱分かるゝ所
生死罹る(かかる)所、危之至り也。慎まざるべけん乎。此の時において勝を白刃の前に決せんと欲すれば則自ずから剣闘之妙術を得る者に非ずんば、豈能く必勝の利を得ん乎。
仮令(たとえ)人膂力人に迥ぎ(りょりきひとにすぎ)、山を抜、鼎を扛(かなえをあげ)陸地に船を盪(あらう、動かす)如し。
亦剣術を得ざれば、必ず敵棲せられし所為り。
仮令人于将莫耶・大阿・竜泉の如く天下の妙剣を持つ有と雖も、亦剣術を得ざれば、必ず敵擒(とりこ)の所となる者也。
昔罫か荊軻秦王に誅せられたるは是也。

故に史記云う、荊軻惜しむらくは刺剣之術を講ぜざる。
大史公も亦剣術を貴ぶ此の如くなり。楚の項羽剣を学び成らずして曰く剣は一人の敵、学び足らず、我万人の敵を学ぶ。
此の言是に似て非なる者や。一人の敵を学ぶ能わずして、
豈能く万人の敵を学ばんや。
一人万人、多寡異なると雖も、敵を亡ぼす道に至りては一つ也。

項王身を死國に亡び、笑いを天下に取るは亦、宣哉(むべなるかな)

「夫れ兵術は、敵を亡ぼし、家を斉、軍を治し、天下を平らかにする之道」これは「大学」にある「脩身斉家治国平天下」によるものと思われます。
 兵術すなわち剣術は「一人の敵を学ぶ能わずして、豈能く万人の敵を学ばんや」と云い、「敵を亡ぼす道に至りては一つ也」と一人に対する兵法は万人に対する事にもなるのだと史記の荊軻の例をあげています。

 

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2020年11月 9日 (月)

月之抄を読むの1、月之抄序文

月之抄を読む
1、月之抄序文


 原文読み下し文として現代漢字、助詞、一部読み、意味を付しておきます。
 月之抄 序文
寛永三年(1626
年)拾月日、去る事ありて若の御所を退りて、私ならず山に分け入りぬれば、自ら世を逃るゝと人は云うめれと、物憂き山の住まい柴の庵の風のみ荒れて、掛井ならではつゆ音のう(訪のう)者なし。
 此の世の外は他所ならじと侘びても、至れるつれずれ先祖の後を尋ね兵法の道を学ぶと云えども、習いの心持安からず。
 殊更ここは自得一味をあけて(上げて?)、名をつけて習いとせし。かたはら(傍ら、片腹?)多かりければ、根本の習いをも主々(主・主)が得たる方に聞き請けて、門弟たりと云へ共、二人の覚えはニ理となりて、理(ことわり)定まらず。
 さるにより秀綱(上泉伊勢守秀綱)公より、宗厳(柳生石舟斎宗厳)公、今宗矩(柳生但馬守宗矩)公の目録取り集め、流れを得る。
 其の人に問えば彼は知り、彼は知らず。彼知りたる、すなわち、是に寄せし。彼知らざれば、又、知りたる方にて是を尋ねて書きし。
 聞き尽くし、見尽くし、大形(大方)習いの心持ちならん事を寄せて書附けば、詞には云い述べやせん。身に得る事、易からず。
 折節関東へ一年下りしに夏の稽古始まりける。寛永拾四年(1637年)五月初日より秋終に至りて是を学ぶ。
 老父相伝一々書留て、此れを寄する也。此の記に寄せしめたる数々の習い、重々の心持ちを三つに分けて、三つをまた一つに寄せしめ、己の得路とせり。
 然れども、向こうまた斯くの如く、我に等しくあらん。敵には勝ち負け如何とも心得難し。さるによって、思う其の至極を一巻に述べる。老父に奉拝は父の曰く、これ等残らず焼捨てたらんに若くはあらじとや。
 尤も至々極々せりと思う心は、心の濁りなりと、得々してはあれとも、其の濁り無き心を自由に用い得る事堅いかな。
 于時沢庵大和尚へ歎き奉り、一則の公案御示しを受け、一心得道たらずと雖も、忝くも(かたじけなくも)御筆を加えられ、父が以心伝心の秘術、事理一体、本分の滋味、悉く尽きたり。この程の予が胸の雲晴れにけり。
 尋ね行く道の主やよるの杖
         つくこそいらね月の出れば
 因って此の書を月之抄と名付けん也。此処に至りて見れば老父の云われし一言、今許尊(こそ)感心浅からずや。此の如く云うは、我自由自在を得身に似たりには非ず。月としらば、闇にぞ月は思うべし 一首
 月よゝしよゝしと人の告げくれど
         まだ出でやらぬ山影の庵
 寛永拾九壬午(1642年)二月吉辰壬午二月吉辰筆を染む
*
 この序文には大変面白い内容が秘められています。柳生十兵衛が徳川家光の御所を辞して山籠もりしたのは何故なのか。穿ると色々の確執が見えてくるかもしれませんが、それは小説家にお任せします。


 十兵衛は、兵法の道の真実を求めるけれど人によって解釈がまちまちで理が通らない、仕方がないので新陰流の祖上泉秀綱、祖父柳生宗厳、父柳生宗矩の目録を集めて考え方の流れを調べてみた。しかし意味を知る者もあれば、知らない者も居る。知る事を聞き尽くし、見尽くしてみた、と云っています。一流の教えは一本筋が通っていると思いますが、さにあらずと云う事でしょう。

 寛永14年1637年に江戸に下る事があったので、実際稽古もして、分類もして自分の得たものとした。それにも関わらず、宗矩は自分の考えと同じではないと云って、「残らず焼捨てろ」と怒っていたのです。十兵衛は柳生新陰流の至極を得たと信じている。その父との確執を歎き沢庵和尚に伝えた処、和尚より公案をうけ、添え書きをしてもらったのです。

 父宗矩より以心伝心で得られた秘術、事理一体の心持ちが伝わり胸の雲が晴れたのです。
 尋ね行く道で杖を頼りにと思うが、月が出れば杖に頼る事も無い。
 よってこの書を「月之抄」と名付けた。此処に至れば老父宗矩の一言は今でこそ感心するばかりである。

 我はだからと言って自由自在を手に入れたと云う事ではない。月と云うのは暗闇の時にこそ月を思うものだ、と言って一首。

 月はいいよいいよと人は云うけれど、月はまだ出て来ない、山影の庵、まだまだ至極には至れないと歌っています。

 
 

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2020年11月 8日 (日)

月之抄を読むの前書

月之抄を読むの前書

 剣術の伝書は、柳生但馬守宗矩の兵法家伝書と宮本武蔵の五輪書が一般的で、特に剣術を志していない人にも多く読まれていると思います。
 剣術の極意とする心得を主とするものでありながら、剣を持たない多くの読者を持つと云う事は、業技法に留まらない心の持ち様の事が、人が生きて行上で参考とされて来たからと思います。同様に柳生但馬守宗矩と親交の深かった品川東海寺の沢庵和尚の不動智神妙録なども普遍的読者を持つもので、これ等は我が国の武術思想の根幹をなす教えが解りやすく述べられ、その後の武術各流派の教えの根幹をなしている事も見受けられます。

 ミツヒラは無双直伝英信流の修行者であると同時に柳生新陰流も稽古をして居ます。無双直伝英信流の古伝無雙神傳英信流居合兵法の古伝神傳流秘書には随所に柳生新陰流の影がちらつきその影響力は江戸期の幾つかの剣術流派にも多くの影響を及ぼしたと思われます。
 伝書は、秘されて他流の者が目に見る事は叶わなくとも、価値ある武術思想は、口伝えなどによって広く伝播していくのは当然の事でしょう。
 
 この一年ほど、無双直伝英信流の秘歌を皮切りに、無外流の百足伝、柳生新陰流の石舟斎兵法百首、塚原卜伝の卜伝百首と読み続けてその歌をブログに投稿して来ました。
 戦国時代から江戸時代中期前半のこれ等の歌の原書の写し書きも、今ではさしたる困難も無く望む者誰でもが見ることが出来、自ら読み下す能力さえあれば、歌い手の側に少しは近づく事も可能です。幸い書道を少々齧っていますので、古文書解読も何とか進められ、自分なりに糸口が見えていたものでした。
 
 そんな中で、品川東海寺所蔵の柳生新陰流兵法覚書を数年前に手にしておきながら、無雙神傳英信流居合兵法の古伝神傳流秘書に没頭して手に入れた当初ざっと読んだだけで大切に保管してありました。この度その解読を進めて行きますと、柳生新陰流の独特の武術用語に秘められた極意の心持ちが伝わってきます。読み解くに当たり尤も参考にさせていただいたのが柳生十兵衛三厳に依る月之抄でした。この品川東海寺所蔵柳生新陰流兵法覚書は江戸の柳生宗矩の原本を東海寺の沢庵和尚に見てもらった際、東海寺で写し書きされた様で奥書から推測されました。古文書の為虫食いや欠落も有った様で、内容は、尻切れであったり飛んでいたりしていますがほぼ、当時の様子を偲ばせます。
 その解説をブログで公開したい旨、お話しさせていただいたのですが、ブログのような不特定多数に配信する事を嫌われ不許可となってしまいました。東海寺本をもとに月之抄を読み込む事で柳生新陰流を深く知ろうとしたのですが、それは無しとして御蔵入りと致しました。
 現代的なNetによる研究発表が誰でも可能であり、誰でもより深い研究を読むことができ、素晴らしい論文も見られます。辿り着ければ幾らでも手に入れられる情報を嫌い、格式の有る対面指導、発行された書物以外は良しとしない考えには異論はありますが、400年も前の伝書の写しが眠ってしまうのは残念ですが、Netに嫌悪を抱かれるのも、人さまざまでやむおえない事でしょう。

 月之抄は柳生十兵衛が祖父柳生石舟斎の教え、父柳生宗矩の教え、その他を参考にまとめ上げたもので、柳生宗矩の教えに依るだけでしたら価値は半減するかもしれませんが、恐らく柳生新陰流の用語や極意の心持ちを精しく伝える伝書は、この「月之抄」であろうと思われます。

 今回はこの「月之抄」を原文を片手に読み解いて行こうと思います。項目で240は有る様ですから一日一項目としても8カ月以上かかるものと思います。
 内容は、言葉で理解出来ても、いざ剣を取って実行できる心に至れるかは、修行によるとしか言いようは有りません。柳生新陰流の形をすべて演じられても、其処に秘められた極意の心持ちは、形を「かたち」としてしか考えず稽古も順番を追って手足を動かすことを良しとする人には難しそうです。
 稽古をする中にこの柳生新陰流の教えを取り込めたなら、たとえそれが教えられたものと乖離しても、古伝により近づける糸口になるやもしれないと思いつつ、学んで見ようと思う次第です。

  原文は、漢字仮名混じり文で、漢字は行草、仮名は変体仮名の草書となります、その上独特の文字の癖が難解ですので、現代では原文の月之抄を見ても読めない、読めたとしても語句の意味が分からないのが当たり前です。随って、一般的には弟子は師匠の口伝ばかりが頼りですが師匠の一人合点では古流剣術は捻じ曲がるばかりです。幸い、私の新陰流の師匠は事理一致の師匠である事は幸せな事です。
 現代漢字及び現代仮名使いで読み下し文をのせ、同時に現代風読みを以て解説としますが、解りにくい処は資料を添えておきます。飽くまでも柳生新陰流の修行の根幹に触れる事を目的としますので、其の辺は読まれた方のご判断にお任せしておきます。

 参考とした伝書は、十兵衛三厳の月之抄原文。石舟斎の新陰流截相口傳書亊、没茲味手段口傳書原文。宗矩の兵法家伝書。兵庫助利厳の始終不捨書原文。

  

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2020年11月 7日 (土)

道歌6塚原卜伝百首4参考資料

道歌
6、塚原卜伝百首
4参考資料

 卜伝百首の参考資料
1、卜伝百首 藤原祐持写 弘前市立図書館
2、卜伝百首 田代源正容 綿谷雪解説
3、図説・古武道史 綿谷雪著
4、日本武道全集 日本剣術史第2巻 編者代表今村嘉雄
5、茨城の武芸剣の巻 茨城県剣友会編
6、武士マニュアル 氏家幹人著
7、上泉信綱伝新陰流軍学訓閲集 赤羽根龍夫・大介 解説校訂
8、不動智神妙録 沢庵
9、武術叢書 早川順三郎編
10、甲陽軍鑑第40下 磯貝正義・服部治則 校注
11、北條五代記 関東史料研究会発行
12、葉隠 山本常朝
13、武道初心集 大道寺友山
14、肥前武道物語 黒木俊弘
15、五輪書 宮本武蔵 
15、兵法家伝書 柳生但馬守宗矩
16、平家物語
17、太平記 神田本
18、孫子
19、図巻 雑兵物語 浅野長武監修・樋口秀雄校注
20、雑兵物語 金田弘
21、日本の弓術 オイゲン・ヘリケル
22、日本刀辞典 得能一男
23、刀剣全書 清水橘村編
24、塚原卜伝 大日本雄弁会講談者編著
25、塚原卜伝 中山義秀著
26、天真正伝香取神道流平法 大竹利典
27、天真正伝香取神刀流 椎木宗道 

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2020年11月 6日 (金)

道歌6塚原卜伝百首3伴信友後書

道歌
6、塚原卜伝百首
3伴信友後書

文政4年(1822年)巳年3月17日於官局写之
私云歌在九十七首 脱三首與(?) 他日加一校了
伴 信友
 
 常陸国鹿島宮の人北条時▢云、鹿島神宮に伝来の剣法あり、もとは上古流といひ、中頃一変して中古流といひ、更に変じて新当流といへり(いと古くは鹿島の太刀とのみ言ひ習へり、新当といへるは上古、中古二流に、新意を加へたる故なりとも、塚原卜伝神託の内、新当の義あるをもて名付たりともいひ伝ふ)当流起源伝國摩真人(天児屋根命十代孫、國摩大鹿嶋命之後世)常願表霊験之妙理作之法、伝後世、於高天原(私云、常陸の地名也)築神壇拝祷数年、蒙神聖之教、悟得神妙剣一術、是日本兵法之元祖、立規法之本源也と云々、この剣法、今宮人の座主吉川氏、大祝部松岡氏等の二家に存す、此剣法の達人古よりあまたありしが中に、鹿島塚原村の産に塚原土佐守高幹、後に卜伝といへるは中興の上手にて、世に武名を震へり(塚原幹安が子なり、元亀2年(1571年)11月卒、葬干須賀村梅光寺)、千日の間神宮に参拝して神感を蒙り、、一つ太刀の妙術を発揮せり、又其頃香取飯篠村の産飯篠山城守家直入道長威入道(長享2年(1488年)4月15日卒)と云るは、香取の新宮に千日祈請して夢中に神伝を得て、鎗長刀の術の精妙を悟れり、かくて卜伝は一つ太刀の秘術を長威に授け、長威は鎗長刀の妙業を卜伝に伝へたり(卜伝延徳元年1489年生まれと云う卜伝誕生の前年長威は没しています。ミツヒラ記)、さて卜伝諸国を修業して京へ上り、義輝、義昭両将軍に一つ太刀を伝へ、伊勢に遊びて北畠具教、甲斐に至りて武田晴信等に遇て秘術を説き示し、武田家の諸士あまた信服す、中にも山本勘助晴幸其術をよく得たり、其後郷里に帰りて門人ますます進む、中にも傑出の輩は鹿島の大祝松岡兵庫助則方、江戸﨑の浪士師岡一羽、真壁城主真壁安芸守入道々無、同所の郷士斎藤判官入道伝鬼等也(伝鬼後に一流をなして天流と称す)兵庫助則方は東照宮に一つ太刀の妙術を伝へ奉りけるが、御感ありて御染筆を賜へり(卜伝の子、小才治と云へるは豊臣秀吉公また加藤清正に剣法を伝へたり)又長威の門人の中にては松本備前守政信(鹿嶋氏の被官四天王の一人也)ことに秀たり、これは十文字の鎌鎗をも発明して、毎度戦場のほまれあり、有馬流の祖大和守幹信(鹿嶋氏の家人なり)新陰流の祖上泉伊賀守秀綱は政信の門人也、鹿島瑞験記に意文中、座主吉川直常、下総國神代村なる年来の弟子に剣法の奥義を伝授せる時、その内一人俄に狂乱しけるが、夢に汝触穢の障あるによりて此たびは相伝なりがたきよし神託ありし趣を記せり、
 同年10月29日書加え  信友
松本貞徳恩記に細川幽斎主の事をいへる条に、兵法は卜伝に一つ太刀まで御きはめ有し、此卜伝は何事にても人の芸能のいたりがほをするを見ては、いまだ手をつかで申といひきと追う仰られき(幽斎主の話なり)武具要説にも卜伝の事見へたり、
 信友再記


 塚原卜伝については江戸時代になってから「本朝武芸小伝」、「武芸流祖録」、「撃剣叢談」などにその由来を述べられていますが、どれも似たようなもので卜伝の影がおぼろに見える程度のものと思います。
 信友の後書にしても同様で、これを解説して見ても卜伝にたどり着く前に史実とのギャップを覚え、読んだだけで終わりとします。

 

 

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2020年11月 5日 (木)

道歌6塚原卜伝百首2田代源正容写序

道歌
6、塚原卜伝百首
2田代源正容写序

卜伝百首 天文永禄頃の人也(天文1532~1555年 永禄1588~1570年) 

 山城や船岡山のあたり此者のかたはらに、沢の庵となん云て墨には名のみそめて、心は露も清からぬあだ法師有けり。上衣を紫とかへ、今しも心あるさまにはもてきぬれども、猶よの貪りや深かりけん。
 本より住はつべき舎るあらぬ栖を追出せられて、是やこの逢坂の関を越えて東路の果て陸奥へおしやられ二度故郷は見るべくもあらざりしに、いかなる事にかわりきぬ。又なん九重の空に帰越(きえつ)る事になりて、其のかへるさに武蔵野や川越近き処に相知れる人有て年たけく又逢へるも思はねば、立ち寄りて一夜のやどりをもせよと聞へければ、色香をも知らず、知らるゝ中なるに黙止も如何かと思いいざない行しに、我が左遷の事ども語り語らいて後、主一つの巻物を取出してなん。
 過し世に塚原氏の入道卜伝とて、其心猛く其名高く其態百千万人に越、やんごとなき首(百の誤字か)の言葉なり。
 しか有れども是にしも序の文なく、見る度に遺恨なれ。
 願わくば一筆を染めよかし、良ければ知らばこそ、記さめ。
 知らざるに記さんはよしなしと、否いしかど赦さざりしかば遁れがたく、披き見るに武士の二つの道より始めて鋒剣の数品をかく、終には迷いの世をも離れぬべく尊き事を記せしにより、みるみる須臾まとめて思うに、人かわり、言かわり、所替り、能替れども、雨霰氷の異なるにしていづれか本の水ならぬはなし。
 此の言の葉、此の道によらん人、見よ、聞け、孰(いずれ)か愚かならん。
 仰(あたかも)鑚(きる)も及ばざるのみ。茲に教る事の高き比べれば、山猶ひくき。是に顕れるをの深きに比ぶれば、海猶あさし。
 又是を知る事の敵に比すれば石猶柔かし、弓挽(ひき)矢を放ち、鞭を揚げ、馬を勇め、鎧を着、鋒を携、名を揚、家を興す、人として是を見、是を聞、是を知り、是を覚えざらんは拙事にあらずや。
 百代をも経、千年をも過せ。此の道により此の記を得んは、目闇き亀の浮木にあへるに等しからんかも。

 磯際に書きあつめたる藻塩草
       根ざし無ければよしなかりけり

 これは卜伝百首の序で、沢庵和尚が陸奥へ左遷される際、立ち寄った坂東の川越辺りの知人から頼まれて書いた序文と云います。卜伝を知らないので序文は書けないと言って断ったが、強く頼まれ、其の卜伝百首に目を通し、此の道にあるならば見よ、聞け、人としても是を見、聞き、知り、是を覚えない様では劣ることになろう、とほめちぎっています。

 卜伝百首の成立は定かではありませんが、第三回廻国修行の後国へ戻って没したのが元亀2年1571年になります。最終のまとめは此の年としてみればいいでしょう。
 沢庵は天正元年1573年但馬で生を受け、57歳の時寛永7年1630年徳川幕府と対立し仏法の自立性・自主性を主張した罪(紫衣事件)によって今の山形県上山に流された。寛永9年1632年大赦により許され寛永11年1634年に徳川家光に会っています。
 この序文の内容が正しければ、序文は1630年に坂東を通過する際に書かれたものと云えるでしょう。卜伝の死から59年の歳月が過ぎています。

 この序文は、綿谷雪著卜伝百首 天保10年1839年田代源正容の写本の序文で写本のオフセット版から原文を読み下し文にしています。

 次回は伴信友による後書きを綿谷雪著卜伝百首より読み下し文を書き込んでおきます。

 

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2020年11月 4日 (水)

道歌6塚原卜伝百首1祐持写の序

道歌
6、塚原卜伝百首
1祐持写の序


1、苦は楽の種楽は苦の種と知るべし
1、主人と親とは無理なるものと思へ下人をば足らぬものと知るべし
1、掟に恐(おじ)よ火に恐(おじ)よ分別なきものにおじよ恩を忘るゝ事なかれ
1、欲と色と酒とは敵としるべし
1、朝寝すべからず咄(はなし)の長座すべからず
1、小なる事を分別せよ大なる事は驚くべからず
1、九分に足らず十分はこぼるゝと知べし
1、分別は堪忍に有と知るべし

 慶応二丙とら年 卜伝百首 八月 祐持写之
 奥書は 卜伝百首 祐持写之 藤原祐持所持

 冒頭に掲げられている「敬」八項目は元禄11年1698年水戸黄門光圀によって書かれたもので「敬 水戸黄門光圀卿九ヶ條禁書」から引用されたと思われます。

 九項目の内、三項目目にあった事項が抜けています・
「1、子ほどに親を思へ子なきものは身に比べおき手本とすべし」

 卜伝百首の参考文献は弘前図書館所蔵のもので弘前新町の岩見氏が所蔵していたものだろうと推測しますが、書写した藤原祐持についてはどのような人であったか解りません。 
 藤原祐持が何時卜伝百首を書き写したのかは、慶応二年丙寅年8月ですから明治維新の一年前1867年という事になります。藤原祐持が書き写した原本はどのようなものであったか記述がありませんから不明です。
 
 別本としたのは元亀2年1571年冬加藤相模守藤原信俊が写之とした卜伝百首を参考にしています。今村嘉雄編者代表「日本武道全集第二巻」より。元亀2年1571年は卜伝が第三回廻国修行から戻り此の年亡くなっています。
 
 今一つの別伝は綿谷雪先生がオフセット版にして出された 「天保10年1839年 己亥仲春 写之田代源正容」によるものです。いずれにしても原本とは言えませんが卜伝の思いを伝えていることには変わりはないだろうと思います。

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2020年11月 3日 (火)

道歌6塚原卜伝百首6の95学びぬる心に態(わざ)の迷いてや

道歌
6、塚原卜伝百首
6の95学びぬる心に態(わざ)の迷いてや

学びぬる心に態(わざ)の迷いてや
      態(わざ)に心の又迷うらん

 此処まで学んで来た態(わざ)に更に迷っている、その迷う態(わざ)に心がまた迷うとは。

 態をわざと読ませています。わざの漢字は業・技・伎・和座・和座・和座・倆・態・芸・蓺
 「態」の意味は、すがた、かたち、ありさま、ようす、姿態、形態、状態。
 「業・技」の意味は、すること、しわざ、おこない。つとめとしてすること、しごと、職業。しかた、方法、技術、芸。こと、有様、次第。武道・相撲等で相手に仕掛ける一定の型の動作。(広辞苑より)
 卜伝が敢えて「態(わざ)」と書いた意図が読める様な気がします。「わざ」と読むと「業」をイメージすると、一定の「かたち」に収めたものが浮かんでしまうのは、多くの武術書が「業」の文字によって「形」を述べているからなのでしょう。広辞苑の解説も「一定の型」とされています。
 そうであれば「態」は固定したものでは無く、状況次第で「わざがうごく」事を思いえがきます。そしてそれは心も「無」であって無ではない事を意味する様です。

 此処までほぼ一年をかけて、多くの兵法歌を読んできました。卜伝百首はこの歌を最後の歌にしています。別伝では96首、或いは97首ともある様ですが、どれも原本ではないので文言に多少の違いが有っても似たようなものでしょう。歌の順番の狂いもさして気にならず略どれも同じような順序になっています。
 卜伝百首は卜伝の詠んだ歌か否かの議論もある様ですが、卜伝の逸話や史実でとやかく云うのはすべき事では無く、卜伝の兵法に有る筈です。しかしその兵法は歌から垣間見ることすらできません。

 卜伝百首を読み終えて、ふと思った事は、日本の武術は平安時代あたりから営々と受け継がれ、時代の要請によって進化しつつ、その役割を全うして来たことでした。特に室町中期からの卜伝の考え方が卜伝百首に収められ、その極みは新陰流として上泉伊勢守信綱に移り、柳生新陰流に転移し、一刀流や無雙神傳英信流居合道や無外流、田宮流に影響していることを強く感じています。

 奥伝百首の序文と後書きを原文のまま、次回以降に投稿して卜伝百首を終ります。

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2020年11月 2日 (月)

道歌6塚原卜伝百首6の94もののふは生死二つを

道歌
6、塚原卜伝百首
6の94もののふは生死二つを

もののふは生死二つを打ち捨てて
       進む心にしく事はなし

 武士は生きるも死ぬもそのどちらも打ち捨てて事に向かって進む心に、及ぶ事はない。

 武士道は死ぬ事とか、死んだ気になってとか、死を連発して如何にもと見せている姿勢に、生への執着も潔い死も打ち捨てろ、無になる心に及ぶ事は無いと歌っています。

 この歌に至るまでに「心」について卜伝は七首を以てこんな風にうたっていました。
・88 武士の如何に心の猛くとも
          知らぬ事には不覚あるべし
・89 もののふの心に懸けて知るべきは
          勝った勝たれぬの敵の色あい
・90 もののふの心の内に死の一つ
          忘れざりせば不覚あらじな
・91 もののふの学ぶ教えはおしなべて
          その究みには死の一つなり
・92 もののふの迷う処は何ならむ
          生きぬ生きぬの一つなりけり
・93 もののふの心の鏡曇らずは
          立逢う敵を写し知るべし
・94 もののふは生死二つを打ち捨てて
          進む心にしく事はなし  
 
 此の心持ちの歌を続け読みして、最後に至るのは生死を思わず「無心」になる事で、武士が事に臨む際の心に至ったのでしょう。強く逞しく誰にも負けなかった若き日の卜伝が自らの兵法修行で辿り着いた心なのかも知れません。
 そんな事を思いつつ卜伝百首を読み進んで来て、山本常朝の葉隠れにしても、大道寺友山の武道初心集にしても、新渡戸稲造の武士道にしても、卜伝が辿り着いた「もののふの生死二つを打ち捨てて進む心にしく事は無し」の兵法の悟りの途中にある様な気がしてなりません。

 「お前ね~それは単に戦いに臨んでの心を、卜伝は歌っているんだ、常朝の葉隠れは違うよ、もっと次元の高いことを言っているんだ。解らんかね。」

 扨、どこが違うと云うのでしょう。
 生を得て生きている限りは生き抜く心掛けが無ければ、と卜伝は言っているのであって。
 いつでも死ねるいつでも死んでもいいなどと云う心掛けとは明らかに違います。

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2020年11月 1日 (日)

道歌6塚原卜伝百首6の93もののふの心の鏡

道歌
6、塚原卜伝百首
6の93もののふの心の鏡曇らずば

もののふの心の鏡曇らずば
      立逢う敵を写し知るべし

 武士の心の鏡が雲っていないならば、立合う敵が如何にしようとするのか、相手の心を写し知る事が出来ると知れるであろう。

 この歌の上の句の「心の鏡」ついて、卜伝は弟子達にどのように解説し伝えていたのでしょう。戦国時代末期から江戸時代に成立した剣術各流派も同様の教えが見られます。
 何かを写すとか知るとかの表現に「心の鏡」に写すとか言われます。広辞苑では「心の鏡」を清浄な心を鏡にたとえていう語。と云っていますが、この「清浄な心」が卜伝の云う「心の鏡」なのでしょうか。
 「清浄な心」とは何だと云っても「清らかで汚れのない心」と返って来たのでは「敵を写し知る」など出来そうもない。

 意味不明な事にこだわっていても、卜伝の思いが聞こえて来ないのです。下の句の相手の「心」すなわち、我に対して何をしようとするのかが判れば、それに応じる手段も出て来る筈です。
 新陰流で云えば新陰流截相口伝書亊の「色付色随事」、敵のはたらきを見てそれにのって勝事。
 無外流ならば無外流真伝剣法訣の十剣秘訣「神明剣」の教えによる「端末人未だ見えず、天地神明物に応ずる運照を知るを能わず、変動常に無く敵に因り転化す、事の先を為さず動きてすなわち随う」
 無雙神傳英信流居合兵法ならば「居合心持肝要之大事 居合心立合之大事」に「先ず我身を敵の土壇ときわめ何心なく出べし、敵打出す所にてチラリと気移りて勝事なり、稽古にも思い案じたくむ事を嫌う能々此の念を去り修行する事肝要中の肝要也」

 その敵の思いを知るには、「心の鏡曇らず」でなければならない、敵の考える事を無視して、勝つ事ばかり思い描いて、敵の隙に打ち込んだところ、敵は我が「色に付き色に随う事」を知って我が隙をついて来る。
 一刀流の「水月之事」、無外流の「水月感応」などの教えは、この「心の鏡」を水に写る月にたとえて教えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 
  

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