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2020年11月17日 (火)

月之抄を読む5、三学

月之抄を読む
5、三学

三学
 一刀両段、斬釘截鉄、半開半向、右旋左傳(右旋左転)、長短一味
 右之太刀のくだき三つづつ有之
 老父云、此五つは構をしてたもつを専とする也。待之心持也。
 亦云、めつけは二星、身の受用は五箇、三学、思無邪の心持専なり。

 三学(さんがく)、月之抄では「三学」ですが、尾張では柳生連也厳包校正によって「三学円太刀」と言われている様です。時の移ろいと指導者の思いが、三学を揺り動かした様で、古伝・江戸遣い・尾張遣いと、五本の呼称は同じですがそれぞれです。
 ①上泉伊勢守がもたらした三学は、甲冑を付けた状態での膝を大きくエマす「沈なる身」によるもの。
 ②江戸遣いは膝を軽くエマす。
 ③尾張遣いは自然に立つ「直立たる身」。

 五本夫々の呼称は同じで、一刀両段(いっとうりょうだん)・斬釘截鉄(ざんていせってつ)・半開半向(はんかいはんこう)・右旋左傳(右旋左転うせんさてん、古伝は左傳ですが転の誤字かどうかは不明です)・長短一味(ちょうたんいちみ)となります。

 この、五本の形(勢法)に夫々「くだき(砕き)」、いわゆる変化技が三っづつあるとされています。変化技は秘伝とされている様で、現代になっても常の稽古には伝えられていない。現代でも秘すべき意味があるかは疑問です。単なる師匠からの受け売りであったり、意味のない懐古趣味で無ければ良いと思いますが、へぼ剣士に伝えてあらぬ方に行ったのでは古伝が泣く事もあるかもしれません。
 勢法を形として「かたち」ばかりを師匠に真似て演ずるだけの者には「砕き」など不要でしょう。本物を求める者には、常の稽古からでも自ずと三つと云わず思いつく程の「砕き」は出て来るものです。そうでなければ特定の決まった棒振り「形」に終わってしまうでしょう。
 習い稽古して、その特定の「かたちの真髄」に至ったとしても、「砕き」が無ければ、変化に対応できないものです。「砕き」三つは稽古業としての三学の「戒」であって「定慧」に至れない、極意として秘されるならば自ら求める以外に無さそうです。

 老父とは柳生但馬守宗矩を指しているもので、宗矩は三学の五つの勢法は、使太刀は構えをして保つ(待つ)を専らとする。打太刀の懸りに応じて懸る心持である。新陰流の「就色随色事」、「懸待有之事」を学ぶ事だと云います。
 
 亦云う、目付は二星「二星之目付之事」で老父(宗矩)は、敵の拳両の腕。亡父(石舟斎)は左右の拳。

 身の受け様は五箇は「五箇之身位之事」で
 老父は「①身を一重に為すべき事。②敵の拳へ、我が肩と比ぶる事。③我が拳を楯にすべき事。④左の肘を延ばすべき事。⑤前の膝に身を持たせ、後の脚をのばす事。」の五つを挙げています。
 亡父は「第一身を一重になすべき事。第二敵の拳我が肩に比ぶる事。第三身を沈にして我拳を下げざる事。第四身を屈め、先の膝に身をもたせ、後ろのえびらをひしぐ事。第五我が左の肘を屈めざる事。」
 この教えは、戦国時代の甲冑を付けての兵法とされています、戦国末期では甲冑も動きやすく軽いものに変化してきており、徳川時代には平服による兵法へと変化して来ています、当然の事時の流れに即さない兵法はすたれていくものです。。
 現代ではそれらの事も無く、これ等の古流剣術を自ら学ぶ意味を、考えた上で納得して学ぶべきものでしょう。
 与えられた条件の範囲でしか行動できず、マニュアルが無ければ何も操作できないのでは、持てる能力がさび付いてしまいます。尾張柳生の「直立たる身」に依り、剣先も伸び、360度自由自在に変換出来る身体操作を手に入れたわけですから、其処から更に工夫の世界が容易になったとも云えるでしょう。

 「三学」についての呼称の謂れを思えというのだろうと思います。
 赤羽根龍夫先生の「柳生の芸能」より、「三学とは禅に戒定慧(かいじょうえ)の三学という事有り、修行を積みて鍛錬するは「戒」、その術身に練熟して事に臨み、場に応じて惑わず、事術に心の任せざるは「定」、物に応じて真性の知覚発する所あきらかにして漏らす事なきを「慧」というなり。近代、何となく取り失いて、三学の大道を知らず事術の修行を励ますのみにして、「定慧」の場を踏まず生涯を終る者多し。術を尽くして術を放れざれば、何時の日にか用に立つべき処には至らぬものなり。」
 やはり、厳しいことを述べておられます。武道を志す者に多い悪習は、何時までも習いに執着している事でしょう。指導する者が先ず考えるべき事だろうと思いますし、習うものも、決められたことのみを修業し鍛錬するだけでは、「戒」ばかりで「三学」には程遠いと知るものです。
 令和のこの時代、武術を学ぶ心は「物に応じて真性の知覚発する所あきらかにして漏らす事なき」事理一致の自分を磨き上げる事であろうと思います。

 思無邪の心持ちは、「敵の方へ身なり直にせん為也」「思無邪は五箇之身の真の位也と云々」。敵に対しての我が身体を直ぐにする(あるべき姿)を云うのでしょう。月之抄本文の中で委しく学び解説して行きたいと思います。 

 どの流でも、大方稽古形の一本目に其の流の根本的な考えが秘められています。柳生新陰流も前出の遠飛(猿飛・燕飛)と三学には新陰流のエキスが大部分含まれていると思います。

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