月之抄を読む10、廿七ヶ条之截相之事
月之抄を読む
10、廿七ヶ条之截相之事
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廿七ヶ条之截相之事
序 上段三つ中段三つ下段三つ
右此の上段三つの仕様は斬釘截鉄、大詰、無二剣、これ三つ也。中段三つの仕様は右旋、左傳(転)、臥切これ三つ也。下段三つの遣い様は、小詰、半開半向、獅子忿迅(ししふんじん、獅子奮迅)、懸これ三つ也と亡父の目録に書せる也。
破 上段三つ、中段三つ、下段三つ
此の上段三つは、刀棒に三つこれ在り、中段三つは切合に三つ之在り、下段三つは折甲に三つ之在と亡父目録にあり。
急 上段三つ、中段三つ、下段三つ
此の上段三つは陰の拵を云、中段三つは陽之拵を云、下段三つは、うごく拵えを云也。仕様は何も一拍子也と亡父の目録に有り。
又云、序、上段三、中段三、下段三。 破、上段三、中段三、下段三。急、、上中下共」に何も一拍子と書る目録もあり。
亦云、序、上段三、中段三、下段三。破、刀棒三、切合三、折甲三。急、上中下何も一拍子と書せる目録あり。亦急付たり上何も一拍子と書くもあり。
老父云、右の太刀を以て廿七の截相を稽古すれば大形これにて相済なり。何も太刀をつかふなり。この外に、向上、極意、神妙剣
古語に云。策ごとを帷幄中に運らして、勝ちを千里の外に決す(はかりごとをいあくのうちにめぐらして、かちをせんりのそとにけっす)。是新陰流の極意これにて極る也。
添截乱截の構をするものには、無二剣にて勝、それを活人剣にて勝。向上にて活人剣を勝、極意にて向上を勝。神妙剣にて極意を勝。これに極る也。うえなき事をいわんために神妙剣を名つくるなり。
是より兵法の心持、皆一つに成。一心のきわまり也。けなげは申におよばず。一心のこころのはたらき受用をするに一心なり。
心の理りを分け、其理を知事兵法の根本也。然によって心持の習を専らとす。習のいろいろ左のごとし。
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廿七箇条截相之事は新陰流の勢法の稽古業を続け遣いとして稽古する事を示唆する教えでしょう。ともすると一つずつの形に拘り打太刀の仕掛けに特定の勢法で勝を得れば、其処で一勝負あったとして互に退いて、新たな想定場面で截合い形を稽古するのが一般です。この続け遣いの組み合わせは当初はどうであったか定かではありませんが、江戸期に幾つも組み合わされている様で、特定されてはいない様です。
この廿七箇条截相は柳生石舟斎宗厳による新陰流兵法目録事に依れば以下の様です。(柳生厳長著 正伝新陰流より)
序 上段三 中段三 下段三
破 折甲二 刀棒三 打相四
急 上段三 中段三 下段三
右急はかまへに付而一拍子也
右条々面太刀一通也 重々口伝可有之者也
上泉武蔵守 藤原秀綱
柳生但馬守 平宗厳花押導印
柳生兵介 平長厳
慶長8年1604年癸卯三月日
石舟斎より柳生兵介長厳に授与された目録の末尾に27箇条の表題のみ書き込まれ、詳細は口伝とされています。石舟斎74歳で、死の2年前の目録です。この翌年柳生十兵衛が生まれています。十兵衛の月之抄は寛永19年1642年のものです。
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