月之抄を読むの1、月之抄序文
月之抄を読む
1、月之抄序文
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原文読み下し文として現代漢字、助詞、一部読み、意味を付しておきます。
月之抄 序文
寛永三年(1626年)拾月日、去る事ありて若の御所を退りて、私ならず山に分け入りぬれば、自ら世を逃れるゝと人は云うめれと、物憂き山の住まい柴の庵の風のみ荒れて、掛井ならではつゆ音のう(訪のう)者なし。
此の世の外は他所ならじと侘びても、至れるつれずれ先祖の後を尋ね兵法の道を学ぶと云えども、習いの心持安からず。
殊更ここは自得一味をあけて(上げて?)、名をつけて習いとせし。かたはら(傍ら、片腹?)多かりければ、根本の習いをも主々(主・主)が得たる方に聞き請けて、門弟たりと云へ共、二人の覚えはニ理となりて、理(ことわり)定まらず。
さるにより秀綱(上泉伊勢守秀綱)公より、宗厳(柳生石舟斎宗厳)公、今宗矩(柳生但馬守宗矩)公の目録取り集め、流れを得る。
其の人に問えば彼は知り、彼は知らず。彼知りたる、すなわち、是に寄せし。彼知らざれば、又、知りたる方にて是を尋ねて書きし。
聞き尽くし、見尽くし、大形(大方)習いの心持ちならん事を寄せて書附けば、詞には云い述べやせん。身に得る事、易からず。
折節関東へ一年下りしに夏の稽古始まりける。寛永拾四年(1637年)五月初日より秋終に至りて是を学ぶ。
老父相伝一々書留て、此れを寄する也。此の記に寄せしめたる数々の習い、重々の心持ちを三つに分けて、三つをまた一つに寄せしめ、己の得路とせり。
然れども、向こうまた斯くの如く、我に等しくあらん。敵には勝ち負け如何とも心得難し。さるによって、思う其の至極を一巻に述べる。老父に奉拝は父の曰く、これ等残らず焼捨てたらんに若くはあらじとや。
尤も至々極々せりと思う心は、心の濁りなりと、得々してはあれとも、其の濁り無き心を自由に用い得る事堅いかな。
于時沢庵大和尚へ歎き奉り、一則の公案御示しを受け、一心得道たらずと雖も、忝くも(かたじけなくも)御筆を加えられ、父が以心伝心の秘術、事理一体、本分の滋味、悉く尽きたり。この程の予が胸の雲晴れにけり。
尋ね行く道の主やよるの杖
つくこそいらね月の出れば
因って此の書を月之抄と名付けん也。此処に至りて見れば老父の云われし一言、今許尊(こそ)感心浅からずや。此の如く云うは、我自由自在を得身に似たりには非ず。月としらば、闇にぞ月は思うべし 一首
月よゝしよゝしと人の告げくれど
まだ出でやらぬ山影の庵
寛永拾九寛永拾九壬午(1642年)二月吉辰壬午二月吉辰筆を染む
この序文には大変面白い内容が秘められています。柳生十兵衛が徳川家光の御所を辞して山籠もりしたのは何故なのか。穿ると色々の確執が見えてくるかもしれませんが、それは小説家にお任せします。
十兵衛は、兵法の道の真実を求めるけれど人によって解釈がまちまちで理が通らない、仕方がないので新陰流の祖上泉秀綱、祖父柳生宗厳、父柳生宗矩の目録を集めて考え方の流れを調べてみた。しかし意味を知る者もあれば、知らない者も居る。知る事を聞き尽くし、見尽くしてみた、と云っています。一流の教えは一本筋が通っていると思いますが、さにあらずと云う事でしょう。
寛永14年1637年に江戸に下る事があったので、実際稽古もして、分類もして自分の得たものとした。それにも関わらず、宗矩は自分の考えと同じではないと云って、「残らず焼捨てろ」と怒っていたのです。十兵衛は柳生新陰流の至極を得たと信じている。その父との確執を歎き沢庵和尚に伝えた処、和尚より公案をうけ、添え書きをしてもらったのです。
父宗矩より以心伝心で得られた秘術、事理一体の心持ちが伝わり胸の雲が晴れたのです。
尋ね行く道で杖を頼りにと思うが、月が出れば杖に頼る事も無い。
よってこの書を「月之抄」と名付けた。此処に至れば老父宗矩の一言は今でこそ感心するばかりである。
我はだからと言って自由自在を手に入れたと云う事ではない。月と云うのは暗闇の時にこそ月を思うものだ、と言って一首。
月はいいよいいよと人は云うけれど、月はまだ出て来ない、山影の庵、まだまだ至極には至れないと歌っています。
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