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2020年11月 5日 (木)

道歌6塚原卜伝百首2田代源正容写序

道歌
6、塚原卜伝百首
2田代源正容写序

卜伝百首 天文永禄頃の人也(天文1532~1555年 永禄1588~1570年) 

 山城や船岡山のあたり此者のかたはらに、沢の庵となん云て墨には名のみそめて、心は露も清からぬあだ法師有けり。上衣を紫とかへ、今しも心あるさまにはもてきぬれども、猶よの貪りや深かりけん。
 本より住はつべき舎るあらぬ栖を追出せられて、是やこの逢坂の関を越えて東路の果て陸奥へおしやられ二度故郷は見るべくもあらざりしに、いかなる事にかわりきぬ。又なん九重の空に帰越(きえつ)る事になりて、其のかへるさに武蔵野や川越近き処に相知れる人有て年たけく又逢へるも思はねば、立ち寄りて一夜のやどりをもせよと聞へければ、色香をも知らず、知らるゝ中なるに黙止も如何かと思いいざない行しに、我が左遷の事ども語り語らいて後、主一つの巻物を取出してなん。
 過し世に塚原氏の入道卜伝とて、其心猛く其名高く其態百千万人に越、やんごとなき首(百の誤字か)の言葉なり。
 しか有れども是にしも序の文なく、見る度に遺恨なれ。
 願わくば一筆を染めよかし、良ければ知らばこそ、記さめ。
 知らざるに記さんはよしなしと、否いしかど赦さざりしかば遁れがたく、披き見るに武士の二つの道より始めて鋒剣の数品をかく、終には迷いの世をも離れぬべく尊き事を記せしにより、みるみる須臾まとめて思うに、人かわり、言かわり、所替り、能替れども、雨霰氷の異なるにしていづれか本の水ならぬはなし。
 此の言の葉、此の道によらん人、見よ、聞け、孰(いずれ)か愚かならん。
 仰(あたかも)鑚(きる)も及ばざるのみ。茲に教る事の高き比べれば、山猶ひくき。是に顕れるをの深きに比ぶれば、海猶あさし。
 又是を知る事の敵に比すれば石猶柔かし、弓挽(ひき)矢を放ち、鞭を揚げ、馬を勇め、鎧を着、鋒を携、名を揚、家を興す、人として是を見、是を聞、是を知り、是を覚えざらんは拙事にあらずや。
 百代をも経、千年をも過せ。此の道により此の記を得んは、目闇き亀の浮木にあへるに等しからんかも。

 磯際に書きあつめたる藻塩草
       根ざし無ければよしなかりけり

 これは卜伝百首の序で、沢庵和尚が陸奥へ左遷される際、立ち寄った坂東の川越辺りの知人から頼まれて書いた序文と云います。卜伝を知らないので序文は書けないと言って断ったが、強く頼まれ、其の卜伝百首に目を通し、此の道にあるならば見よ、聞け、人としても是を見、聞き、知り、是を覚えない様では劣ることになろう、とほめちぎっています。

 卜伝百首の成立は定かではありませんが、第三回廻国修行の後国へ戻って没したのが元亀2年1571年になります。最終のまとめは此の年としてみればいいでしょう。
 沢庵は天正元年1573年但馬で生を受け、57歳の時寛永7年1630年徳川幕府と対立し仏法の自立性・自主性を主張した罪(紫衣事件)によって今の山形県上山に流された。寛永9年1632年大赦により許され寛永11年1634年に徳川家光に会っています。
 この序文の内容が正しければ、序文は1630年に坂東を通過する際に書かれたものと云えるでしょう。卜伝の死から59年の歳月が過ぎています。

 この序文は、綿谷雪著卜伝百首 天保10年1839年田代源正容の写本の序文で写本のオフセット版から原文を読み下し文にしています。

 次回は伴信友による後書きを綿谷雪著卜伝百首より読み下し文を書き込んでおきます。

 

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