月之抄を読む3、兵法之落索2
月之抄を読む
3、兵法之落索2
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勤(つとめ)亦勤むべし。奥義を疎かにして、仕合を好む者は、其の身恥辱を受くるのみに非ずゃ。某甲(むこう、それがし、なにがし)道を漫(みだりに)すれば咎を兵法に帰す。一流の師誠に憎むべき者也。豈啻(ただ)兵法一道ならんや。六芸に於て亦稽古無く寧(むしろ、いずくんぞ)奥義に至るおや。
此の流第一仕相為すべからず。余流を廃すべからず。他流を立て道を嗜み、相尋ぬべき所をもつは、此の道に於ける修行也。世に上の輩、必ず極意の一二を知る者儘多し。
人、生きて之を知る者に非ず、学びて浅くより深きに至り、一文は無文の師也。温故知新(おんこちしん、ふるきをたずねてあたらしきをしる)則此の道に於て、日新の功有るも、他流に必勝すべからず。
今日の我に勝は、昨日の我上手奇妙の者、鍛錬工夫の上に在る。
古人の師伝、其の人一世の意地、覚悟、分別の存する所の仁を見て、執心懇望に於ては相伝すべし。努々(ゆめゆめ)面太刀以下、稽古を極めず、他流を嘲弄し、仕合を好みて高瞞(高慢)の人は、家法相伝すべからず。連日其の人を験み、其の人英傑に非ざれば、截相の極意口伝許可すべからず。
強弩(きょうど)、矛戟(ぼうげき)翼を為さず(石弓も矛や戟も役にたたず)。死に及び遯(たく、のがれる)は此の術也。極るべし云々。
歳天文二十三年甲寅三月日 柳生但馬守宗厳書之
兵法之落索は天文23年1544年3月に、柳生石舟斎宗厳が家訓として書き残した一文と知れます。随ってこの兵法落索は柳生新陰流の家訓と言えるものです。
仕合を好む者は、その身を辱め某の新陰流をも貶めるものとなる。第一は仕合の法度。他流を廃せずに、立てその奥義を身に付ける事。と言っています。
現在聞く所に依れば、どこぞの道場では、同流の他道場に出稽古すらご法度とか、他流などとんでもないという風潮が流れていてその様な師匠の門弟に成った事は哀れなものです。理由は「形が乱れる」だそうです。
一文は無文の師、温故知新、今日の我は昨日の我の上に在る。家法を相伝するには其の人の意地、覚悟、分別の有り様、更に執心懇望する人には相伝すべきである、とも家訓に述べています。
他流を嘲弄し、仕合を好み、高慢であったり、英傑で無ければ截相の極意口伝許可してはならない。と厳しい家訓です。
この兵法落索は天文23年1544年ですが芳徳寺所蔵の月之抄は寛永19年1642年のものになります。ほぼ一世紀前のものという事になります。
なお、柳生但馬守宗厳による一流の紀綱・柳生家憲は天正17年1589年(柳生厳長著 正伝新陰流より)。さらにもう一つ、柳生宗厳が上泉伊勢守より印可を受けたのは永禄8年1565年となります。
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