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2021年1月13日 (水)

月之抄を読む11、習之目録之事11の52真之水月之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の52真之水月之事

11の52真之水月之事
父云、身は水の月と云う、うつりうつす心持なり。敵の神妙剣を、鏡にたとへ、我心を月にたとへて、我形を敵の鏡にうつし、心の月を水月の水にうつしてよりは、勝事こてまゝなる心持也。至極なり。
亡父の録に真之水月之事、付りうつりうつす心持、心の月我形を一処にうつす也。重々心持口伝と書る。
亦云、真之位に付、覚と云う習有り。水月を思はずしても心に独り覚あるもの也。是自ずからなる水月、真の位也。当たる当たらぬ境は素人も知る也。習いを知らずして知る心、心に有るもの、心を水にうつし、形を鏡にうつす也。一陣の曇りあらば、月は出まじきなり。
古語に云う、日に新に、日々新、又日に新にすと云えり。月ぞ鏡に、水ぞと云う心持は、感知深し。説く人有て知る人無し、知る人有て通人無しと古語にあり。
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  真之水月之事と云うのですが、これまでの水月は敵との切り合いで刀の当たらぬ間積、間合と教えられたと認識しています。真之水月は目に見える間積では無いような、雰囲気で語られます。

 父云、身は「水の月」水に写った月の様なものだと云う。敵も我も写り写す心持なのである。敵の神妙剣(中墨、太刀の納まる所)を鏡に譬え、戦いの場での心と我身の形を一所に神妙剣に写し、心に写った敵の月(心)を我が、心の鏡に写したならば、勝事は自在になる心持である。至極の業である。

 亡父の録に、「真之水月之事付り写り写す心持、心の月一処に写す也」重々心持は口伝と有る。真の水月とは「心のあり様を写りうつす(移す、写す)心持之事で、心のあり様を一所に写すのである」と云う事なのでしょう。
 亡父石舟斎の「新陰流截相口伝書亊」の「水月付り位をぬすむ」の偈「心法は無形十方に通貫す水中の月鏡裏の象」によって語っています。心に形無ければあらゆるものを認識でき、水に写る月影の様なものである。

 亦云う、真の位であるが、覚(おぼえる)と云う習いが有る。水月(間積り)を思わなくとも、心に自然に覚えあるものである。是は自ずから人に備わった水月(間積り)、真の位である。敵の太刀が当たる当たらぬの境は、兵法の素人も知っているのである。習わずして知る心、心に有るもの、心を間積りではかり、形を心の鏡に写し取るのである。勝とうとばかり気を入れてしまえば一陣の曇りが月を遮るように何も見えなくなるものである。

 古語に云う。日に新に、日々新に、又日に新にすると云う。月ぞ鏡に、水ぞと云う心持は感知深いものである。説く人有て知る人無し、知る人有て通人無しと古語に有り。

 
 

 

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