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2021年2月26日 (金)

月之抄を読む11、習之目録之事11の96行間拍子之事

月之抄を読む
11、習之目録之事
11の96行間拍子之事

11の96行間拍子之事
是は、初め拍子に乗り、息を詰め弾み打つ拍子也。打ち初めと打ち納めとの間へ、打ち入る拍子也。
唱歌の心持にて打ちたる良きと、宗厳公仰せらる、しやうが(唱歌)に覚えたると弥三が物語せんなり。
老父は知らずと云へり。是は息の持ち様により、打つ味わい、云うにいわれざる処ある心を以て、息の間にある拍子と云う心を筆者の誤りにて斯く云へるか。但行間の事か、心得難し。古流には心に覚へたる処を言い訳予ねて、拍子調子また(又)乗りはつむ等と云う事にて、手には違いなる事時々多し。心余りて言葉足らざる心持、いずれの習いにもあり。但又わざと此の如くせしか。人の見ても習はざれば理り得難き心もあるべし。
惣別目録には、記さざれと教えの道なり。然れども老父は、習いを伝えんとせず、一心伝心を直伝として習う心持を云い述べられしなり。宗矩此のかたの儀也。

 行間拍子之事、是は敵が打たんとして、手利剣(手の内)に変化が現れ太刀が動き出す初めの拍子に乗り、息を詰めて打つ拍子である。打ち初めと打ち納めとの間へ、我は打ち入る拍子である。越す拍子とでも思えば良さそうです。
 唱歌の心持にて打つのが良い。「月之抄11の18唱歌之事:唱歌は息也。ヤッと声を掛ける心持にして、息を籠めれば浮き立って軽し。声を掛けるに依りて拍子合い、乗るもの也。我心に乗ったる拍子にて打心也」。その様に宗厳公が仰せられる。しやうに(そのように?)覚えたと弥三(弟子の事でしょう)が語った。

 老父宗矩は行間拍子は知らないと云う。宗矩は是は息の持ち様に依る、打つ時の味わいで云うに言われぬ処の心持ちか、息継ぎの間にある拍子と云う心を筆者(石舟斎か?)の誤りでこの様に云うのか。ただ行き間の拍子の事か、心得難し(よくわからない)。
 古流には心に覚えた事でも、どの様に言い表すのか解らずに、拍子、調子、また乗り弾むなどと云う事(連れ拍子、越す拍子か)にして、その手ほどきとは違う事が時々多いものである。心は充分であっても言葉足らずの事、どの様な習いにもあるものだ。
 但し、又、わざと意味不明の事をこの様に云うのか。人が見ても、実際に本人から習わないのであれば、その心得の理、得難き心もあるものである。
 惣別、目録には、その意味を記さず、伝書を授与する者に、直に口伝などで教えるのが道である。然し老父(石舟斎か)は習いを伝えようとせず、一心伝心(心一つにして心を伝える。以心伝心)を直伝として習う心持ちを云い述べられしなり。宗矩はこの方の儀である。

 最後の一節は、石舟斎が宗矩に直伝せずに終わった事を、宗矩が批判している、と思えるのですが、反面十兵衛に宗矩は直伝せずに自論を述べたに過ぎないと云うのか、面白い処です。
 

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