月之抄を読む
11、習之目録之事
11の108西江水之事
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11の108西江水之事
引歌に
中々に里近くこそ成りにけり
あまりに山の奥を尋ねて
父云、心を納る処、腰より下に心得るべし。是専一とす。油断の無き事。草臥れざる先に捧心万に心を付けさせんが為なり。油断の心あればならざるもの也。其の心持肝要也。夫れを忘れざる事を心の下作と云う也。三重五重も油断無く勝ちたると思うべからず。打ちたると思うべからず。夫れに随い油断無くする事肝要也。
上泉武蔵守親にて候。宗厳公之伝、これより外は無し。此の心の受用を得ては、師匠無しと云うなり。受用を得て敵を伺い懸け引き表裏新しく取りなしするより外は是無し。是無き上至極の極意也。
亡父の録に西江水之事、付けたり心也。置く所締むる心持一段大事、口伝と書る。引歌は前のごとし。
亦云、此の西江水之習に亡父の用と、老父の用に替りたる差別あり。亡父の用はけつをすぼむる也。是西江水と号す。老父の用はけつを張る也。是西江水と号す。すぼめたるよりは張りたる方、身も手も寛ぎて自由なる心ありと也。然れども是は、何れにても主々(種々)持ちうべき◯方然るべき也。詞は替れども心の置き処一つ也。心を定めて静かなる時、捧心能く見えるなり。秘事至極なり。
抑(さて)此の習いは亡父年老うて、躰足心ならざるに、冬天の寒時に外にある雪隠へ通うに、山中の事なれば氷解けずなめ(滑)となりて辷り老足叶い難かりけれども、通うとて、倒れんとせし時、此の心持を得路して、今此の西江水と秘して無上至極極意と号す。此の処に至れば万事は一心と成り、一心は只西江水一つに寄する処なり。
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引き歌に
なかなかに里近くこそ成りにけり あまりに山の奥をたずねて
この歌は宮本武蔵も五輪書風之巻に道歌を引用しています。「初めて道を学ぶ人には、その業のなりよき処をさせ習わせ、合点の早く行く理を先に教え、心の及び難き事をば、其の人の心を解くる処を見わけて、次第〵に深き処の理を後に教ゆる心也。されども、大形は其の事に対したる事など、覚えさするによって、奥口とゆう処なき事也。されば世の中に、山の奥を尋ぬるに、猶奥へゆかんと思へば、又口へ出づるもの也」
父云、心を納める処は腰より下、と心得るべきものである。是が第一である。油断無く、くたびれない内に捧心を様々な事に心を付けさせる為である。油断の心が有れば捧心(心の発する処を見る心)万に心を付けさせることはできない。捧心の心持が大切で、それを忘れない様にするのは「心の下作り(諸事万事に下心分別して、油断無き心持)」と云うのである。三重五重も油断無く勝たると思ってはならない。打ったと思ってもならない。捧心に随い油断無くすることが肝要である。
西江水は、心を納る処、心の付く処、心の置き所で腰より下と心得ること。月之抄を読むの11の53で「神妙剣之事」を習ったのですがその場所は「老父云、中墨と云也、太刀の納まる所なり。臍の周り五寸四方なり」とあって11の55で「真実の神妙剣とは神処也。又実の無刀とは根本の習也。又真実の無刀なり、・・西江水、真実の無刀と云う習を秘して借りたるこころもち一々多し」と云う事で西江水は腰より下で神所である神妙剣で、臍周り五寸四方に位置すると、読めるのです。
上泉武蔵守は親(流祖)である。宗厳公の伝には是より外の肝要な事は無い。西江水の心の受用を得たならば、師匠無しと云う事も出来る。受用をえて、敵を伺い懸け引き、表裏新しく取り為しするより外は是無し。是は無上至極の極意である。
亡父の録に西江水之事、付く心である。置き所である。締むる心持ち一段大事。口伝と書かれている。引き歌は前にある如しである。
石舟斎の「新陰流截合口伝書亊」及び「没茲味手段口伝書」にもこの表題は見当たりません。恐らく口伝の覚書に依るのかも知れません。
亦云、此の西江水之習に、亡父の用い方と、老父の用い方が違い差別できる。亡父の方法はけつ(尻)をすぼむ(窄め)るのである。是を西江水と号す。老父の場合は、尻を張るのである。これ西江水と号するのである。窄めるよりは張りたる方が、身も手も寛いで自由な心持ちである。 然し、是は何れでも、主々◯用◯◯方然るべきである。詞は替っていても心の置き処は一つである。心を定めて静かなる時は、捧心も能く見えるのである。秘事至極である。
抑、此の習いは亡父歳取って躰足が思う様にならなくなり、冬の寒さに、外にある雪隠に通う時、山中の事なので氷は溶けず、滑らかになって滑る、老父には叶い難いけれども、通う時、倒れそうになった時に、この西江水の心持を得道して、今此の西江水と秘して、無上至極の極意と号している。此の処に至れば、万事一心になって一心は西江水一つに寄す処である。
西江水之事ですが、最初に西江水と云う言葉をどこから持って来て付けたのでしょう。
これは恐らく碧巌録の龐居士語録によるもので「居士 後之江西 馬祖大師に問いて曰く、萬法と侶(とも)たらざる者これなに人ぞ、祖曰く、汝が一口に西江水を吸盡するを待ちて、即ち汝に向いて道(いわん)」から引用したのでしょう。「そんなすごい人は、西江の水をあんたが飲み干せたら教えよう」と云うわけで「教えられそうもないよ」とでも云ったのでしょう。「一口吸盡西江水」、さて新陰流の兵法の極意の教えに凄い名付けをしたものです。
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