日記・コラム・つぶやき

2017年6月20日 (火)

野良猫の子育て

野良猫の子育て
 
 一昨年だったか、ブログにも書いたと思いますが、ご近所の門柱の脇から背が黒く、白い腹廻りの母猫が同じような黒白の子猫をくわえてゆっくり出てきます。
 少しも私に気が付かず悠然として歩いています。   
 小川を隔てた畑からこれを見ていた私は、いたずら心で忍び足で小川に近づき頃合いを計って小川を飛び越し母猫の脇に飛び立ちました。母猫は突然な事で子猫を口から落としてしまい、素早く4,5m走って止まりました。
 母猫の目は、我が子と私を交互に見ながら何時でも逃げられる態勢です。
 起こったことも解らないのか子猫は私の足元に寄ってきます。
 私が、母猫に近寄る素振りを見せると、母猫も飛び去る構えに身を低めます。それでもその場を離れようとはしないのです。
 子猫はもう私の足元に居ます。
 
 「ごめんね、何もしないから連れて行きなさい」と勝手なことを言う私。
 言葉など解かるわけもないのに、それでも母猫の体から警戒の気が消えたように思えました。
 子猫を連れ去ろうとする身構えを感じますが、けっしてその距離を近づけません。そこで、母猫を見つめたまま、後に足を引こうと右足をわずかに動かしたとたん、母猫はその距離を一気に飛んで我が子をくわえ反転して走り去りました。10m位走って振り向いて「どうだ」と言わんばかりに悠々と植え込みに消えて行きました。
 その子猫が、母猫から縄張りを譲られたのか昨年から我が家の周辺に居付いていたのです。出合うとなんとなく声を掛けていたのですが、他の野良猫より心なしか距離が近い様な、その上、出会うやさっさと逃げ去るでもない間柄でした。
 
 この春その猫が、一匹の子猫を連れて我が家の廻りにあらわれました。母猫と同じ様に頭からしっぽまで背中が黒で、腹は白です。
 安全距離を保ちながら、私や妻が草むしりなどしていても平気で子猫とじゃれ合っています。側に近づくと子猫はさっさと物陰に逃げ込み母猫はこちらの様子をうかがっているばかりです。
 
 紫陽花が咲き、蕗が地面を覆う様に生えて、梅雨時なのに毎日暑い日が続きます。
 紫陽花に近づこうと蕗のなかに踏み込むと何か黒いものが蕗の下を右に走り去ります。毎年、アオダイショウやシマヘビが出るので蛇嫌いな私は一瞬背筋がビクとします。母猫がフェンスをくぐって安全距離を保ちます。日陰で憩う親子猫でした。
 蕗の葉陰に子猫が行き場を失ってすくんでいます。首をつまみあげると両手両足を突っ張って拡げ硬直しています。
 かわいい眼にじっと見つめられてしまいました。地面に下ろして手を放すと、のこのこその場を離れるのですが母親の居場所が判らずにいます。
 
 それから、数日たっての事。柿の木を登ったり下りたりする猫を居間から見ていました、いつも、柿の木から我が家のベランダに飛び移りベランダで日向ぼっこを楽しんでいるのを見かけていたのですが、ちょっと様子が変です。
 ベランダを見ると子猫がいます。どうやらベランダへ上がったのはいいのですが、子猫は自力では怖くて降りられない様です。
 母猫は「こうやって降りるのよ」と何度も見本を見せているのでしょう。暇人の私もそれを三十分ほども見ていました。
 母猫より私がじれてしまい二階からベランダに出て子猫に近づくと、子猫は箱の陰に逃げ込んで息を潜めています。
 箱を取り除くと私の足元を走り抜け、柿の木の方に向かったのですがそこで立ち止まって私を見上げます。
 柿の木に飛び移れなければ、捕まえようと私は近づきます。手を伸ばそうと屈むや子猫は一気に飛び降りてしまいました。
 「おぬし、本気になればできるな」。
 あんなに何度も母猫が見本を見せていたのにです。その間、母猫は物陰に隠れていたのでした。
 ベランダを飛び降りた子猫は、クリスマスローズの葉陰に隠れています。
 居間に戻って、ふと外を見ると松の木に親子が登っています。
 母猫が子猫を置いて下りてしまうと、子猫はしばらくもじもじしていましたが爪を立てつつ頭から降りて行きました。
 是って、子猫が独り立ちするための訓練だったようです。私は母猫の手助けをしたのか、より厳しい野良猫の生きる世界を早々と子猫に味合わせてあげたのかでしょう。いずれにしても余計なことでした。
 
 それからしばらくして、外から帰って来た妻が笑っています。「母猫が飛び上がって地面に両手から飛び降りるのを、子猫も真似して、飛び上がっては両手から降りているの、何度も同じ動作をやっていて、あれって獲物を捕る訓練みたい」
 そういえば、テレビで狐なんかがやっている捕獲の仕草の様です。猫の糞には蝉やらバッタのかたい殻が随分混じっていたのを思い出しました。
 此処では獲物は、昆虫類、ごちそうは小鳥やネズミや蛇ぐらいです。餌付けする人はいない様です。
 木に自由に昇り降り出来て、動く獲物に素早く飛びつく厳しいですね。
 野良猫親子の訓練を見聞きして、親子の絆にホロリとさせられ、野良猫の生きる厳しさに想いを寄せるのでした。
 
 そう言えば、随分古い話になりますが、子猫をもらってきて飼っていました。当時は外出自由な飼い方が当たり前でした。ある日この猫がネズミを捕えてきたそうです。
 ネズミ嫌いな妻は、猫がネズミをくわえて来て食卓の上に置き、自慢そうに妻を見上げていたそうです。
 大声で「捨ててらっしゃい」としかり飛ばす、ねこも驚いてネズミをくわえて飛び出て行ったそうです。
 それ以来ネズミをくわえて帰って来る事はありませんでした。キット何処かで血の滴る生肉の御馳走を楽しんでいたのでしょう。
 この子の親は飼い猫でのんびりした人懐こい猫でした。親猫から訓練される前に引き取ったような気もします。本能的に獲物を捕らえる能力をもっていたのでしょう。
 しかしこの子は、弱虫で犬に背中を嚙まれてしまい、脊椎損傷で短い命でした。
 
 この処、野良猫親子を見かけません。先日の夜のこと、県道を横切ろうとして道路の半ばまで右から走り込んだ猫が、私の車に気付いて反転して戻りました。急ブレーキで減速すると、左から一回り大きな猫が一気に車道を右に走り抜けて行きました。
 「おいおい、車道を横切る特訓は無謀過ぎるぞ・・」
 
 その後、この親子を数日見ていないのですが・・・・。
 
 
 
 
 

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2017年2月 5日 (日)

批判と和の5

批判と和の5
 
 日の出と共に家を出て 曹洞宗陽谷山龍宝寺への道をゆっくり歩きます。朝日が里山に掛る雲を赤く染めて行き、見慣れたご近所の庭先では赤や白の梅が満開です。
 
 本堂では住職の心配りのストーブが燃えています。
 少しばかり歩いたぬくもりがあるうちに、冷え切った板の間に座蒲を置いて隙間風が入りそうな透間だらけのすりガラスの戸に向って座します。既に幾人か外に向かって座しています。
 
 早朝ここで座禅をしています。小鳥の鳴き声や風の音、遠くに聞こえる車の音ばかりの静かな時間です。何も思う事も無くふと立ち寄って座ったにすぎないこの空間に何故か癒されています。
 行事の一つで義務的なものでもなく、座る場所までも気を遣う煩いもなく、顔も知らない幾人かとまじって、誰にも強要されたわけでもなく、それぞれの人が、それぞれに同じ時間と居場所を共用しています。
 此処には、座禅する人への批判も無く、一時を座禅の中で「和」しています。座禅の後に住職の一服のおもてなしに寄り集まって取り留めのない世間話をしてほっとします。
 先日、講習会があって出かけて行きました。正月早々に奥様を亡くされた先生が、今年は不参加と聞いていたのですが来ておられます。「気が滅入って仕方がないので、稽古を始めた」と仰います。講習会と言えば、休む事も無く通われた方です。あと少しで90歳です。
 あっちのほうから、昨年小太刀之位をお弟子さんと稽古されて私達にご披露下さった、はじけるばかりの笑顔の先生と出合います。
 道場に戻っても誰にも伝える機会はないが、誰も本気で教えてくれないのでここに来ている、と聊か寂しげな・・・。
 「今年は、更に上の段位を受けるので・・・」やれやれ、見渡すとそんな・・・幾人かが・・。
 昨年も来られていたご高齢の先生のお顔が見られません。雪でしょうか体調を壊されていなければ良いがと心配です。
 講習会が終われば、「今年も昨年と違うことを言っている、先代とは技が違う、あんな技はない」と息巻いていた先生も見られません。それでも、参加しているだけで批判と和の初歩だけは出来ていたのに・・。講義内容を揶揄した分だけ力量も上がっていたかもしれません。自分から進歩に蓋をしてしまった様です。
 「わしの指導するままでいい」と言っていた先生は、不参加です。批判するなと云っていながら最も悪い無視する否定の心根のようです。
 講師が真剣に語りかけてくる想いには、この道に費やした重みがあります。一言も聞き漏らすまいと引き付けられます。やはりそうだったかと納得し、普段聞きなれない、また見慣れない動作に思いもつかなかったとさらなる精進を思います。
 批判とは、人との触れ合いから自分の独創を納得したり、誤りがあれば改めたり、気づかなかった事に気づいたりの連続でしょう。そして昇華するものです。
 羽織を脱いで座したためか、しんしんと体が冷えてきます。走馬灯のように巡っていくとりとめもない思いにいつの間にか時間が過ぎています。
 座禅終了の鐘が鳴って住職のおもてなしの菓子と熱いお茶に腹の中は生き返る様ですが、手足の冷えはなかなかです。
 座禅をしながら、早く終わらないかと数を数えていた数カ月前とは聊か違ってきました。この頃は断片的な妄想が落としどころも無く巡っています。
 悟れるわけもないまま、次々に巡り来るものに批判と和を被せながら思い続けて、足踏みしつつ前に向って行くのでしょう。
 この座禅の話しを師匠にしますと「それはダメだ、坐禅とは何も考えずにするものだ」だそうです。さて、どうも決めつけられると疑問を抱きます、しばらく続けてみましょう。
 
 批判と和を終わります。
 
 
 
 
 
 

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2017年2月 4日 (土)

批判と和の4

批判と和の4
据え物斬り
 一時期抜刀と称して藁切りを主とする会に首を突っ込んだ古参の者が、「藁も斬れない居合など武術では無い」と言って、何人もの初心者を引き込んで藁切りの道場に連れて行ったり、糞握りを推奨したり、重く肉厚の刀を売り付けたりしてあらぬ方に向っていました。
 それだけによく研究して、稽古も怠らず、なかなか魅力的な剣士でした。その後、当人の警察沙汰も有ったとかで其れを機に退会して行きました。
 そんな事で藁切りは禁止令が出て、奉納演武などで得々と藁を切って居たのも廃止されました。
 藁切り禁止令は続いていたにもかかわらず、未熟な古参の者がほとぼりも覚めたと思ったのでしょう、興味本位の切れる居合をしたい、などの言葉に踊らされて女性や初心者と藁切りを始めようとしていました。
 其処の役員達で再び禁止の触れを出そうということになったのですが、インターネットで調べて見ると続々と藁切りに加入している者が居るのです。
 藁を切って居る写真や動画まで出ています。中には当該地区の藁切り連盟の責任者と称する者なども混じっています。
 何を感じたのか道場長は、再度の禁止令を出すのを取りやめ、その代わりそのような者は居合の稽古に通うことは厭わないが、昇段の推薦については行わないということでお茶をにごしていたのです。
 何故再度の禁止令を取りやめたのかは想像にお任せします。
 藁切り屋さん、何となく居心地が悪いのか、普段の稽古はサボりがちですが、昇段審査時期になるとのこのこ出て来て京都などであう事も有ります。
 
 藁でも竹でも、薪でも、好きに切ったり割ったりしていれば良いのですが、道場で決めた事を守らせないで放置したまま、弟子が藁切りに通い、藁切り仲間を道場内で誘うなどを許していたのでは、出鱈目です。
 あっちこっちに仲良しグループが出来ていて「群而不黨」など夢物語で誹謗中傷ばかりで「批判」や「和」など何処へやらです。
 そろそろ藁切りに加盟している者が準範士を受審できる頃合いになってきているはずです。さて推薦しないという約束事は守られるのでしょうか・・・。
 
 藁が斬れても居合にはならない、藁など上手く斬れなくとも居合になります。斬るべきものは藁でも無く、人前で大道芸の如く得々と藁を切って、何を求め何を試しているのでしょう。
 刃筋が見事に通る事は、手の内を心得、間を知り、これは刀の基本と言います。心を沈め、無心とならなければ難しいとか言って精神修養になるとでも言うのでしょうか。
 「お前に藁切りの心が解かるか」・・・私は刃物は当たれば斬れると思っていますから、藁が上手く斬れた所で何程のものでもないと思っています。藁を切るのが上手な上に自分の手まで傷つけ道場の床を血だらけにしていたのではお笑いぐさです。
 
 余程藁切り上手を誇りに思っているのでしょう。
 無双直伝英信流の立膝の部五本目颪なのですが、先代の指導では敵は右45度方向から我が柄を取りに来るので、それを外して顔面に柄当てして、右方向45度に袈裟に抜きつけて居たのでこれは角度的に申し分なく切れる、というのです。
 処が当代は右脇から柄を取りに来るので、背中で切る様になって切り込めない、こんな想定に応じる技は変だ、というのです。
 おまけに体に斬り込まれた刀を抉(えぐる)ようにして引き倒すなど出来ないと、人を斬ったような武術論まで吹いています。
 
 相手の位置を指定する想定などあるわけはないでしょう。右45度でしか有効斬撃が出来ない者は、柄頭で相手を追うように自分の軸を右に稍々廻しずらせばいいだけです。
 未熟な自分の腕はどこへやら、思う様に切られて呉れる処に敵が居て欲しいのでしょう。据え物切りの陥る処だとしても、そんな安易な教えなどあろうはずもないでしょう。
 
 何処から敵が来ようと颪で打ち勝てる稽古を積み重ね、場合によっては颪の動作では不利と瞬時に判断して、他の技で応じるように研鑽をするのが武術であり修業です。
 無双直伝英信流の立膝の部の場合、右に敵を受けた場合の業は浮雲と颪だけです。これだけで右敵の攻撃にすべて応じられるわけは無い筈です。
 それも、敵が我が柄を取りに来る想定と、敵が抜き付けんとする柄手を制する彼我逆の想定も古伝はそれに応じる動作もおおらかに受け入れています。それは現代でも無双直伝英信流と夢想神傳流に引き継がれているのです。
 立膝の部では左廻りしか業には無いけれど、右廻りの立膝での横一線の抜き付けも、袈裟切りも、真向も右の敵に即座に出来てあたりまえでしょう。
 「何時如何なる変にも応じられる」を求める者でありたいものです。形しか追えない者が、藁を見事に両断してもあまり意味は無さそうです。
 
 
 現代居合が「形」に拘り過ぎますと柔軟性の乏しい役立たずを育ててしまい、己の未熟を棚に上げ、当代の想定がおかしいと他人否定に転化してしまう者もいるようです。
 
 誰でも己が主役です、然し、我が人生に丁度良い処に据え物があるはずはないでしょう。   
 変化極りない事に応じる心を磨かずして何を修業するのでしょう。
 
 
 
 
 

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2017年2月 3日 (金)

批判と和の3

批判と和の3

 もう随分前の事です。正座之部(大森流)の受流(流刀)について、正面から斬って来られるのを、右斜め前向きに正坐し、左足を斜め前に踏み出して刀を抜出し、打ち込まれる寸前に右足爪先を右に向けて正面45度の位置に踏み開いて、左肩を覆う様に刀を抜上げ敵刀を受け流すや、受け流されて前にのめる敵の肩に斬り付ける様に指導しています。
 右足を右に踏んでしまいますと、我が中心軸が右に大きく移動するので、敵刀は我が刀の物打に触れるかどうか疑問です。これでは逃げ流しです。

 当代の右足裁きを稽古して見ます。左足は上と同じです。右足は身幅(約40cm)ほど右に爪先を正面に向けて踏み立て敵刀を受けています。我が体軸は右に身幅の半分は移動します。従って敵刀の物打と我が刀の物打が接した瞬間切先を左に返して受け流します。

 ある時期、受流しに夢中になって居ましたので、古参の先輩の動作を見ていました、刀の柄を上に向けて抜き放ち受流したつもりでいます。左肩は全く無防備でたとえ敵刀を受け流せても左肩は斬り込まれています。

 そうかと思えば右片手で鍔元8寸程でがっちり敵刀を受け留めてから、右足を左足に踏み揃え左斜めに向き直って敵刀を流して斬り付ける受け止め流しもありました。

 それらを、その先生にどうすべきか、どうして誰も当代の受流をしないのかとお聞きしました。
 答えは「お前に何が解る」と一蹴されてしまいました。
 それ以来、「あいつには居合を教えない」だそうです。若いころに習った方法以外は試そうともせずにいるようです。当代から最高の允可を受けているのに不思議な事です。

 古参の肩を切られるのも、「それでは肩を切られませんか」と言ったところ真っ赤になって「無礼な」と怒り出します。

 受け止め流しでは、散々打込んでもらって稽古してみましたが、非力な私では右手小指、薬指にヒビが入ってしばらく刀を握るのが苦痛でした。お陰様で右手が勝った打ち込みをしなくなったものです。

 これでは居合風演舞を毎日稽古している様なものです。上に上げたどの方法も決して間違ってはいないでしょう、有効な技になり切れていない処を認識し場に応じられれば、すぐに役立つ技ばかりです。

 尋ねられれば、先師の教えも自論も語れるものでありたいものです。その上で、自ら考えて稽古すべきであることも忘れてはならないでしょう。

 批判的な見方をしないまま、役立たずの演舞を華麗に演じるばかりで、武道は「和に始まり和に終わる」と得々と演説されても意味がありません。和が昇華したのか、武道は「礼に始まり礼に終わる」と道場長に礼を盡せと言うばかりです。

 論理的なものの見方や考え方、批判と悪口の区別を明確にして、批判をもって議論をし、その会話を楽しみつつ、皆でよりよい知恵を生み出し、技術を磨き、過去の誤った解釈やおざなりの遺物では無い本物の日本文化を継承するべきでしょう。伝承するとは元があってなお進化するものです。昔の儘では無い筈です。

 正月早々、連盟に所属していてもしばらく居合から遠ざかっていた先輩と居合の稽古をしていました。
 先輩はいつの間にか当代の業技法からも遠ざかっています。「最近はこんな風に習っています」といくつかをお見せしたのですが、残念ながら批判され己の業技法を否定されたと思われた様です。
 さすが年の功でしょうか、感情は露わではなくとも伝わって来ます。一緒にその良し悪しを考えて欲しかったのに・・・思いつくままに。

 この「批判と和」については、空手家の時津賢治先生の「武的発想論」1999年発行及び能楽師の安田 昇先生の「日本人の身体」2014年発行の著述に背中を押されて書き込みました。

 この「批判と和」を書き終えて、「武道は上意下達に決まっとる」と嘯いた何処かの先生の顔を思い出しました。その癖当代から最高段位の允可を受けていながら「あれは変だからやらん」と言っていたなあと「あの人の人生は矛盾だらけだ」と苦笑いしながら散歩に出ました。この先生自衛隊上がりだったと思いだしました。

 寒気の到来とか、外は風もないのに動くと頬に冷気が染み込んできます。日当たりもさして良くない路地裏に、蕗の薹が四つ五つ芽吹いています。(2017年1月14日)きっと地中に春の兆しがあるのでしょう。自然は何も拘らず環境に素直に応じています。

 玉縄桜も例年より早く咲き出しては見たものの、霜あたりして萎んでしまいます。然し明らかに春を先取りして次々に咲き出してきます。後一週間もすれば満開を謳歌しそうな雰囲気です。
 でも、花を訪れるハナアブが来なければ、無駄に咲くばかりです。スズメやヒヨドリに摘ままれてしまうでしょう。

 私の師匠は「お前さん険しい路に踏み込んだな、進む以外にない」と・・・。

 

 

 

 

 

 

 

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2017年2月 2日 (木)

批判と和の2

批判と和の2
 
 批判と悪口の区別もつかない、「調和する」と云う事と「同じ」ということの区別もつかないのもどうやら武道の道場によくみられるお粗末な特色の様です。
 日本における「和」のイメージは、文句も言わずに皆が同じ事をしたり、するようにさせる「統制」のイメージです。これでは「仲良しこよし」を演じているだけです。
 初心のうちはまだしも、修行が進めば疑問も出てきます。指導者の良し悪しが大きく影響する頃です。
 
 生まれながらに下位の身分であった江戸時代でさえ教養も高くしっかりした考えを持つ人も居た日本は、現代ではより多くのすぐれ者もいそうです・・・??。
 勉強したければ望めば何とか資料も手に入ります。古い先達の動画も他流の動画でも容易に見られる時代です。
 師伝は師伝で良いのですが、それだけでは武道を修業しているとは言えないでしょう。書道であれば、お手本を見ての手習いに過ぎません。
 
 議論を出し尽くして最後は多数決で決めるのならばまだしも、一応意見を出して話し合いますが、意見を出すばかりで、議論はしない。
 議論には他の意見を批判する事が必要ですし、同意したり反対する理由なども述べ、その論理性もなければなりません。批判には責任が付いて廻ります。日本人の居場所を求める性向が批判を苦手にしてしまいます。
 
 有る特定な考えに賛成者が多数で決定されると、決まったことは何が何でも守るのも民主主義の特色の様です。違う考えの人も従わなければなりません。これは「調和」とは異なります。
 一般的な議論を見ていますと、長である人の顔色をうかがいながらの事が多く、議論をし尽して「最も良い知恵が浮かび出た」のとは違う様で、これでは議論など無駄です。
 
 武術には議論などはいらない、長の教えに従うのみ、そうでなければ伝統武術は継承できないというのでしょう。それは一部のすぐれ者の長の話しでしょう。
 「昔はこうだった」と何時の昔か知りませんが「先代はこの様で、当代はこうだ」、「去年の教えはこうだった、今年はこうだ」で「わしはこう思う」だから従え、などでは理屈に合いません。
 
 日本人は批判し、議論をし尽し、問題を解決する習慣に乏しいと云われます。批判し議論を重ね、得られる「和」を考えてみたいと思います。
 「和」については、聖徳太子の「十七条の憲法」の第一条「和を以て貴しと為す」の文言が既にあって、多くの人がこの文言を知っています。でも、自分に都合の良い様に勝手に解釈され独り歩きしていると思われます。
 
 聖徳太子の十七条の憲法第一条を読んでみましょう。

原文
 一曰 以和爲貴 無忤爲宗 人皆有黨 亦少達者 以是 或不順君父 乍違于隣里 然上和下睦 諧於論事 則事理自通 何事不成
読み下し
 一に曰 和を以て貴しと為す 忤(さからう)こと無きを宗とす 人皆黨(たむら)有り 亦建者(さとれるもの)少なし 是を以て 或るは君父に順(したがわ)ず 乍(たちまち)隣里と違(たが)う 然れども上和し下睦み 事を論(あげつらう)に諧(かなえ)ば 則ち事理自ずから通じ 何事も成らざらん
 此処で問題なのは「和」の解釈です。聖徳太子は「和」が大切だと云っています。この「和」は「論」じあって問題解決する事だと云うのです。
 「和」の意味は、やわらぐ・睦ぶ・調う・たいらか・平らぐ・仲直りする・順う・諧う・合す・のどか・調子を合す・まねをする・混ぜ合わす。などでしょう。
 「和」には今では使われていませんが「龢」という文字があります。「和」の異体字とする学者もいますが、「龢」の異体字が「和」ともいう学者もいます。「龢」は「和」の古字とも云われます。混同して使用されている様です。
 聖徳太子の十七条の憲法の「わ」は「和」ではなく「龢」が使われていたといわれます。
 「龢」の意味は、声を合わせる・調子を合わせる・調う・やわらぐなどで「和」とも同じ様です。
 この「龢」は金文では大小不ぞろいの「龠(やく)」という管楽器を吹いてそれぞれの音が調和することをあらわしています。
 聖徳太子の言いたかったことは、それぞれの立場や考えはあっても、よく議論して調和した「文殊の知恵を出そう」というのが本当でしょう。
 
 その為には、意見を出し、お互いにその意見を批判し合い、とことん議論して状況に応じた最も良く調和した知恵を生み出し問題を解決しようということでしょう。
 「俺が開いた道場である、話しは聞くが俺の方針が優先である」では意見も議論もないでしょう。批判などすれば忽ち邪魔者扱いです。
 それでも、道場創始者に高い志があるうちは良いのでしょうが、それが乏しくなって、権威だけを守る様になって来れば、弟子の進歩を邪魔するだけです。
 次回は、俺が一番という思い上がった感情が優先して、何をやって居るのか・・・思いつくままに。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2017年2月 1日 (水)

批判と和の1

批判と和の1
 
 三週間以上も早く玉縄桜が一輪咲き出しています(1月11日)。暖かい冬も楽でいいのですが、それにしても早すぎます。
 梅と桜が同時に満開では湘南の季節感が狂いそうです。 ここでは寒さに負けずに咲くのが梅で、春の兆しがハッキリしてから咲くのが桜なのです。天気予報はこれから寒波が居据わると告げています。
 この桜は、その後の寒波にやられて枯れてしまいました。再び温い陽が続き今度は二輪咲いています(1月23日)。
 皆仲良く「和」して、武術の業技法の「批判」をしてはならないと言う様なことをよく考えずに、得々と喋っている、如何にも悟った様なおざなりの新年の挨拶を聞いていました。
 何処かおかしいのです。仲良く和して批判の無い社会など有り得ないものです。
 批判という言葉を広辞苑で引いてみます。
批判
・批評し判定すること。
・人物・行為・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などの評価・検討すること。
否定的内容をもつものをいう場合が多い。
・事物を分析してその各々の意味・価値を認め、全体の意味との関係を明らかにし、その存在の論理的基礎を明らかにすること。
 もう一つ藤堂明保先生の学研漢和辞典を引いてみます。
批判
・臣下の提出した書類に天子や大臣がよしあしの判定をすること。
・物事のよしあしなどについて、評価し判定すること。
 
・つきあわせて、よしあしを決める。
・君主や上司が、臣下から提出された文書を見てよしあしを決める。また、その判定を示した文句。
・見分ける、区別する、可否を決める、答えを出す。
・けじめがはっきりしているさま。
 
 何故批判をしてはいけないのでしょう。どこが問題なのでしょう。評価・検討に「否定的内容を持つものが多い」このところなのでしょうか。
 独裁政権による君主が、臣下の進言を裁定するために評価検討し判断をしたそれが批判であったともされています。
 
 批判は、上位者の特典であって、下位者からの批判はいけないというのでしょうか。
 企業の経営会議や戦略会議なども、稟議書が提出され、経営会議などで審査して合否が下されています。
 ところが、会議以前に根回しがあったりして社長が口切をして決裁されています。これでは議論をしつくして行うべき真の答えを得るのとは程遠いのです。 
 講習会に出かけせっかく学んだ技を稽古していると「そんなものはやらんで良い」。「何故?」と質問しようものなら「お前に居合の何が解る」と冷たい視線が飛んできます。
 
 「俺の方法とは違う」だから「俺の言う通りにしていればいい」上から目線で、お前のは「違う」と言って否定するのが指導と思って居る様です。
 
 下位の者が「何故そうするのですか、こうではいけないのですか」と問えば馬鹿にされたととるような考えの様です。納得できる解説も術理も無いのでは馬鹿にされるのも当然でしょう。
 
 論理性は乏しく、チッポケな優越感を楽しむ感情だけと思われます。習う者はみじめです。
 
 年頭の挨拶の筆頭は、お題ばかりの「武士道精神をもって・・」か「己に従順な羊を求める・・和」ばかりです。指導を主とする立場の者はもっと勉強すべきでしょう。
 
 次回は関連する「和」についてです。対立する議論も批判を悪口としてしまい、うやむやにしないで話し合おうとすれば「和を乱す」不心得者とされたのでは誰も何も言わず、進歩の無い陰口ばかりです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2016年4月18日 (月)

熊本地震

 関東地方は今日も穏やかな春が訪れています。
 開発が進み残り少なくなった里山の木々もどんどん新緑で燃えるようになってきました。
 
 熊本の地震で厳しい被災者の様子を今日もメディアが伝えてきます。
不幸にしてお亡くなりになられた方々には心から御悔み申し上げます。被災されて避難されて居られたり、家に居ても先の見えない不安な毎日が長引いて居る様でご心痛お察し申し上げます。
 
 五年前の東北の地震の様に、ここ湘南地方には直接揺れが伝わって来ませんでした。熊本はやはり遠いのでしょう。恐怖感を肌で感じられないので、テレビで見てため息をつくばかりです。
 東北のあの日は。
 外出から玄関のノブに手をかけた途端に地面が揺れだし、庭木が大きく左右に揺れ動き、駐車場の車も踊り出したものです。
 家のきしみ、落下する物音に開けたドアを入る事が出来なかったものです。少しおさまったので家の中に入ると忽ちまた家がきしみ出します。
 飛び出してしばらく庭に佇んで居ました。
 家に入るのも、いとわれて、地震の様子も知りたくて、車のテレビを見ますと、今までに見た事も無い大津波が三陸を襲っている光景です。
 
 それから一週間ほどは、自分に出来る事は何かと考えているばかりで、義援金を市役所に届けたり、東北への旅行をキャンセルしたり、いつもの稽古もやる気にならずにいたものです。
 二週間ほどして、道場へ行くとお掃除のおばさんが、「元気を出して稽古して下さい、綺麗に掃除してあります」と様子を察して背中を叩かれるほどでした。
 何か不幸な事が起こりますと、自粛する気持ちが起こるのは人情です。しかし、この国では自分の廻りに何時降り掛って来るか判りません。
 あれ以来、なんとなく自粛する事は意味の無い事で、何も起こらなかった所は、寧ろ元気に日常生活を営み、被災地の物資を手に取る心掛けの方が意味があると思う様になりました。余力があれば少しでもお手伝いする事で良いと思う様になりました。
 そして、其の年の秋には三陸に出かけて行きました、被災地に出かけて行って、其の日の事をお聞きして体験者にお話しいただきお知恵をいただく事は大切だと思う様になりました。
 
 今回も、ご家族が被災地に居られる方が遠く離れていて少しでも足しにと、当座の生活用品を買い被災地の母に送ろうとすると、宅急便の配達不能と云う事でせっかくの思いが届けられない、自分が飛んで行きたくとも交通手段が切断されてしまっている。悲しく切ないものです。
 
 被災地の方は、其の場を離れられない思いも強く、役所もそこで何とかしようと頑張ってもお互いに被災者なのです。
 気持ちは分かち合えても十分な事が出来ないのはやむない事です。
 原発事故の避難や火山の爆発の避難などは、即座に他の町に住民が纏まって避難しています。
 今回の場合も他の安全な地域に避難してもらう施策が直に実行できる国を挙げての体制が欲しいとつくずく思います。
 ライフラインがずたずたになっているのです。一時避難と復興は人の心にある思いがどうしても優先します。然しそれはそれ、何が何でもとは思えないのです。体も弱く、病人を抱え、御歳を召されている方や、小さな子供たちを抱えている事も考えてしまいます。
 今回は、前震があってその余震の後に本震が来ました。いつもは大きな揺れの後にはそれより小さな余震が続くと思っていたのが、本震が後に来ました。
 之も今後忘れてはならない地震の教訓でしょう。
 ・
 今日も、時間が許す限りと、道場に立ちました、先日来太極拳を熱心に稽古されていたご婦人が、「頑張ったけれど、昇段試験に落ちました」と何故か報告してくれます。
 「一年半の病の後では、二カ月位の稽古では取り戻せなくなりましたね、ゆっくりやりましょう」お互いに・・・。
 
 一年ぶりに、他流の居合の剣士が道場に現れました。
 お聞きすると、肩を痛めてしばらく刀が抜けなかったと仰います、五月の昇段試験に京都へ行かれるそうです。
 おもいなしか剣が伸びて行かない様です。
 
 居合をやる方が、肩・腰・膝を痛めて休むと言っても、年齢的には若い人の様な回復は夢の事です。
 刀を持たずに居合の形稽古をしたり、居合で仕掛けられた時に無刀取りの心境に想いを馳せてやるべきなのでしょう。
 元気であった過去を懐かしむばかりでは、其処で止まって「私の居合を止めます」と云って開き直って見ても体力共に心まで衰退するばかりです。
 居合も終局は無刀の世界に至るものでしょう。生きている限りは、今まで習い覚えた形に捉わらずに年齢と共に進化した業技法を思い描き稽古する事も学んで見ればと思います。
 其れには、昔を懐かしむのではなく、昨日よりは今日、今日よりは明日へと前向きで柔軟な心を持って居たいものです。
 「お前、そんなことを云っても、痛くてやってられるか!」と云われても・・・です。
 
 居つく事を良しとしないのは武術ばかりでは無さそうです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2016年2月21日 (日)

土佐の居合年表

年表
明治以降の土佐の居合の先生方の略年表及び書籍の初版発行年を作成して見ました。
嘉永2年1849年 
 細川義昌生まれる
嘉永3年1850年 
 行宗貞義生まれる
嘉永5年1852年 
 大江正路生まれる             
 下村派下村茂市土佐藩居合術指南となる
嘉永6年1853年  ペリー浦賀へ来航
安政3年1856年 
 細川義昌7歳下村茂市に入門7才
万延元年1860年 
 行宗貞義向髪角入11歳             
 川崎善三郎生まれる
元治元年1864年 
 細川義昌元服15歳
明治維新1868年 
 細川義昌19歳  
 行宗貞義18歳             
 大江正路戊辰戦争出陣16歳
明治2年1869年  版籍奉還
明治3年1870年 
 大江正路藩立文武館剣道専業拝命18歳              
  細川義昌島村姓から細川姓となる21歳
明治4年1871年 
 中山博道生まれる?
明治5年1872年 
 大江正路士の常職を解かれる20歳  
   中山博道生まれる?              
 山内容堂没す
明治6年1873年  徴兵令
 中山博道戸籍上に生まれる
明治9年1876年  廃刀令
明治10年1877年 西南戦争 
 第14代下村派宗家下村茂市没す
  西南戦争行宗貞義大尉転戦27歳              
  植田平太郎生まれる
明治15年1882年 
 大江正路 高知県武術会剣術教授30歳
明治17年1884年 
 細川義昌キリスト教徒となる35歳
 大江正路剣術教授辞退
 大江正路長崎高島三井炭鉱取締役監督32歳             
 福井春政生まれる
明治18年1885年 
 根岸信五郎有信館道場を開く
明治19年1886年 
 山本宅治生まれる
明治20年1887年
 山蔦重吉宮城県に生まれる
明治23年1890年 
 曽田虎彦生まれる              
 西川倍水生まれる
明治24年1891年 
 大江正路長崎高島三井炭鉱辞退39歳
 中山乙吉(博道)有信館書生となる18歳 
 穂岐山波雄生まれる
明治25年1892年 
 大江正路高知共立学校撃剣教士40歳 
 大田次吉生まれる
明治26年1893年 
 板垣伯により材木町に道場建設
  谷村派五藤孫兵衛師範となる  
 大江正路高知共立学校辞退41歳            
 山本晴介生まれる
明治27年1894年 日清戦争
 大江正路東京芝区有待館撃剣教授42歳
明治28年1895年 大日本武徳会結成
 大江正路有待館辞退・高知県武術会長推挙43歳
 大江正路高知県師範学校撃剣教授委嘱
明治29年1896年 
 大江正路同上辞退44歳
 政岡壹實生まれる
明治30年1897年 
 第16代谷村派宗家五藤孫兵衛没す
 大江正路高知県尋常中学校撃剣教授45歳
 同上病気辞退
 大江正路石川県警剣術教士
 大江正路石川県立第二中学校剣術教士
 森本兎久身有信館入門
明治31年1898年 
 河野百錬生まれる
明治32年1899年 
 大江正路大日本武徳会石川地方委員47歳
明治33年1900年 
 大江正路石川県を去る
 大江正路高知二中剣道教授48歳
明治35年1902年 
 大江正路武徳会高知支部剣道教授50歳 
 中山博道神道無念流免許皆伝30歳
明治36年1903年 
 中山博道神道夢想流棒術免許皆伝31歳
 中山博道天道流剣術免許皆伝
 曽田虎彦高知二中入学12歳(?)行宗貞義に師事す              
 山内豊健生まれる
明治37年1904年 日露戦争
明治38年1905年 
 穂岐山波雄・森繁樹高知二中で大江正路に師事す14歳
明治39年1906年
 山蔦重吉横須賀海兵団入団19歳
 宇野又二生まれる
明治40年1907年 
 檀崎友影生まれる
明治41年1908年 
 曽田虎彦高知武徳殿助教師18歳             
 政岡壹實高知一中入学森繁樹と同宿舎居合を習う 12歳
 橋本統陽有信館入門
明治42年1909年 
 大江正路高知一中赴任(高知二中廃校?) 57歳             
 政岡壹實大江正路に師事す 13歳
 堀田捨次郎大江正路に師事
 中山博道高知で細川・行宗・大江に会う37歳
明治45年1912年 
 大江正路高知県第一中学校助教諭心得60歳
大正1年1912年  大日本剣道形制定 
大正2年1913年  
 根岸信五郎没す
 大村唯次有信館入門
大正3年1914年  第一次世界大戦  
 行宗貞義没す64歳              
 竹村静夫城東中学入学剣道居合に熱中12歳
大正4年1915年  
 政岡壱實高知一中卒業19歳
 早川順三郎「武術叢書」
 高野佐三郎「剣道」
大正5年1916年
 細川義昌有信館訪問中山博道44歳に教授す67歳
 福井聖山生まれる
大正6年1917年 
 中山博道細川義昌に起請文を入れる 45歳 
 山蔦重吉海軍予備役横須賀鎮守府剣道師範30歳            
 山本晴介大江正路に入門24歳
大正7年1918年 第一次世界大戦終了
 大江・堀田共著「剣道てほどき」
大正8年1919年 
 植田平太郎細川義昌に師事す
 木村栄寿中山博道に師事す
大正9年1920年 
 中山博道武徳会剣道・居合道範士となる48歳
 紙本栄一有信館入門
大正10年1921年 
 政岡壱實京都武専卒業研究科入学25歳
大正11年1922年 
 細川義昌香川県旅行植田平太郎へ皆伝許可
 中山博道森本兎身より無双直伝英信流免許皆伝
 政岡壱實金沢三中に奉職・山砲兵第11聯隊入隊26歳
大正12年1923年 関東大震災              
 細川義昌没す74歳
 山蔦重吉有信館入門36歳
 山田次郎吉「剣道集義」
 中山博道「剣道手引草」51歳
 宇野又二高知高校入学、大江に師事す16歳
 山内豊健、宇野又二に会う19歳
大正13年1924年 
 大江正路居合道範士73歳
 政岡壱實除隊・金沢三中復職27歳
大正14年1925年
 野村凱風高知商業配属将校となる
 山田次郎吉「日本剣道史」 
 下川 潮「剣道の発達」
大正15年1926年 
 政岡壱實無双直伝英信流免許皆伝30歳 
・          
昭和2年1927年  
 大江正路没す76歳              
 河野百錬穂岐山波雄に師事す29歳
 宇野又二21歳、山内豊健24歳に師事す
昭和5年1930年  
 竹嶋寿雄生まれる
 白石元一「改定剣道教範」
 山内豊健京都で居合研究会27歳
 宇野又二居合研究会助手、長崎大学入学24歳
昭和6年1931年  満州事変  
 河野百錬大阪八重垣会発足 38歳
昭和8年1933年  
 中山博道無双(夢想)神伝流抜刀術を武徳祭で演武61歳
 河野百錬「無双直伝英信流居合術全」
昭和9年1934年  
太田龍峰「居合読本」
昭和10年1935年 
 穂岐山波雄没す44歳              
 福井春政第19代宗家となる51歳
 谷田左一「剣道真髄と指導法詳説」
昭和11年1936年 第二次世界大戦
昭和12年1937年 
 桂川(檀崎友影)有信館入門
 白石元一「大森流・長谷川流・伯耆流居合術手引」
 中山博道・善道「日本剣道と西洋剣技」65歳
昭和13年1938年 
 竹村静夫没す39歳
 政岡壱實応召バイヤス湾進撃中発病42歳
 河野百錬「無双直伝英信流居合道」
 山内豊健・谷田左一共著「図解居合詳解」
昭和14年1939年  
 政岡壱實除隊43歳
昭和15年1940年 
 中山博道江田島海軍兵学校で教書作成68歳
 大森流立業創案
昭和16年1941年 大東亜戦争
 山内豊健善通寺連隊・満州派遣35歳
昭和17年1942年 
 河野百錬著「大日本居合道図譜」
 嶋 専吉「無双直伝英信流居合術形乾」
昭和18年1943年
 萩尾孝之「日本剣道及刀剣」
昭和19年1944年 
 川崎善三郎没す84歳
昭和20年1945年 
  高知市米軍により空襲             
 第二次世界大戦終了
昭和21年1946年 
 中山博道戦犯容疑剣道界追放74歳 
 山内豊健岐阜で没す43歳
昭和23年1948年 
 曽田虎彦、河野百錬に谷村亀之丞の英信流目録を送る
 政岡壱實金沢第二高等学校併設・中学校勤務52歳
昭和24年1949年 
 政岡壱實金沢私立公立学校教員53歳
昭和25年1950年 
 曽田虎彦没す60歳             
 福井春政河野百錬に第20代宗家紹統印可す52歳
 政岡壱實石川県教育委員会退職高知県吾川郡吾北村帰る54歳
昭和26年1951年 
 政岡壱實高知県小川村村会議員55歳
昭和27年1952年 
 全日本剣道連盟創設
昭和28年1953年 
 竹嶋寿雄 福井春政に師事23歳
昭和29年1954年 
 全日本居合道連盟創設
昭和30年1955年 
  河野百錬「無双直伝英信流居合兵法叢書」
 政岡壱實土佐高等学校国語科講師59歳
昭和31年1956年 
  全居連刀法制定
 政岡壱實全剣連居合道代表理事60歳
昭和32年1957年 
 政岡壱實剣連居合道範士61歳
 政岡壱實「無双直伝英信流居合道天之巻」
昭和33年1958年 
 中山博道没す86歳
 河野百錬「無双直伝英信流歎異録」
昭和34年1959年 
 西川倍水没す69歳
 中川申一「無外流居合兵道解説」
 昭和36年1961年 
 綿谷雪「日本武芸小伝」
 平尾道雄「土佐武道史話」
昭和37年1962年 
 政岡壱實剣連居合道九段66歳
 宇野又二京都英信会結成56歳
 河野百錬「居合道真諦」
昭和40年1965年 
 政岡壱實高知県体育協会功労賞69歳
 野村凱風「無双直伝英信流居合道の参考」
 笹森順造「一刀流極意」
 上野靖之「居合道宝典」
昭和41年1966年 
 政岡壱實剣連制定居合委員70歳
 川久保瀧次「無双直伝英信流居合道の手引」
昭和42年1967年 
 政岡壱實土佐高等学校講師辞任71歳
 政岡壱實剣連居合道研究委員委嘱
昭和43年1968年 
 剣連制定居合7本制定72歳
 政岡壱實高知から金沢へ転出
昭和44年1969年 
 政岡壱實剣連居合道研究委員長委嘱73歳
 山蔦重吉剣連制定居合委員82歳
 檀崎友影「夢想神伝流居合」
昭和46年1971年 
 第19代福井春政没す88歳              
 竹嶋寿雄傍系第20代宗家継承41歳              
           (福井春政より田岡傳に遺言とか)
昭和47年1972年 
 山蔦重吉「夢想神伝流居合道」
昭和48年1973年 
 政岡壱實没す77歳
 坂田敏雄「無双直伝英信流居合道入門」
 池田昂浡「無双直伝英信流居合道理合動作解説」
       (昭和40年脱稿済み)
昭和49年1974年 
 第20代河野百錬没す77歳              
 竹嶋寿雄第21代宗家継承とか44歳              
 (山本宅治、森繁樹、田岡傳、野村条吉等推薦とか)
 福井聖山第21代無双直伝英信流宗家となる59歳
 政岡壱實「無双直伝英信流居合兵法地之巻」
昭和51年1976年 
 竹嶋寿雄全国居合道連盟発足竹嶋寿雄加盟46歳 
昭和52年1977年 
 全居連刀法配布
 山本宅治没す91歳
 佐藤通次「武道の真髄」
昭和53年1978年 
 山本晴介没す85歳
昭和54年1979年 
 後藤美基「居合道の理論」
昭和55年1980年 
 全剣連制定居合3本追加10本となる
 大田次吉「土佐英信流」
 平井阿字斎「居合道秘伝」
昭和57年1980年
 山蔦重吉没す94歳
  木村栄寿
  「林崎抜刀術夢想神傳重信流傳書及び業手付解説」
昭和58年1981年
 福井虎雄「無双直伝英信流居合道」
昭和59年1984年 
 大田次吉没す92歳
 岩田憲一「師伝芥考土佐の英信流」
昭和60年1985年 
 紙本栄一「師中山博道先生口述夢想神伝流居合」
昭和61年1986年
 三谷義里「詳解居合無双直伝英信流」
平成1年1989年  
 岩田憲一「土佐の英信流旦慕芥考」
 香山会「剣幽芳録」
平成3年1991年 
 妻木正麟「詳解田宮流居合」
平成5年1993年 
 堂本昭彦「中山博道有信館」
平成7年1995年  
 竹嶋寿雄土佐直伝英信流名乗る65歳
 宇野又二京都で没す89歳
平成9年1957年  
 竹嶋寿雄全国居合道連盟会長67歳
平成10年1958年 
 加茂治作「無双直伝英信流居合道」
平成12年2000年 
 全剣連制定居合2本追加12本となる
 福井聖山没す85歳
平成14年2002年 
 岩田憲一「古流居合の本道」
 ロイ・キヨオカ「カナダに渡った侍の娘」
 山越正樹「京都山内派無双直伝英信流居合術」
平成15年2003年 
 檀崎友影没す96歳
 池田聖昂「全日本居合道刀法解説」
平成16年2004年
 南野輝久「無双直伝英信流覚書」
平成17年2005年 
 池田聖昂「無双直伝英信流居合道解説」
平成19年2007年 
 竹嶋寿雄没す 77歳
平成20年2008年 
 松峯達男「居合の研究夢想神伝流」
平成23年2011年
 小林士郎「玉誠録 我等が師・太田次吉先生」
平成26年2014年
 江坂静厳「無双直伝英信流居合道入門」
平成28年2016年
 福留麒六「土佐英信流居合」
林崎流居合年表
 
天文11年1542年 林崎甚助重信生誕 
            幼名民治丸(霊験記)
天文16年1547年 父浅野数馬、
            坂上主膳に暗殺さる(武祖伝)
永禄2年1559年  民治丸改め林崎甚助重信 
            林崎流と称す(霊験記)
永禄4年1561年  林崎甚助重信京で仇討
文禄4年1595年  林崎甚助重信一の宮に住
            (武術太白成伝)
慶長4年1599年  林崎甚助重信一の宮を去り不明
            (武術太白成伝)
慶長5年1600年  関ヶ原の戦い
慶長8年1603年  徳川家康江戸幕府
寛文2年1662年  林六太夫守政生まれる
享保17年1732年 第9代林六太夫守政没す70歳
明和元年1764年  林安太夫政詡 
            居合兵法極意秘訣を誌す
安永5年1776年  第10代林安太夫政詡没す          
            第11代大黒元右衛門清勝          
            第12代林益太夫政誠 
            英信流目録2巻書く
文政2年1819年  山川久蔵幸雅 
            神傳流秘書を写す
嘉永5年1852年  第15代谷村亀之丞自雄 
            英信流目録2巻を写す

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2014年1月31日 (金)

春を求めて(ふきのとう)

なんとなく暖かな陽射しに誘われて家の周りを歩いてみます。
暮れから咲き続けていた日本水仙もそろそろ花芽が少なくなって来ました。
梅も八分咲きで今日の暖かさでは満開になりそうです。
クリスマスローズの花が立ち上がって来て葉の上から顔を出し始めました。
玉縄桜の蕾も膨らんでもうすぐ咲き出すかも知れません。

ふきのとうがもう芽を出して知らぬ間に幾つか口を開き始めました。
花芽が固まって顔を覗かせています。
早速そのいくつかを摘んで、今夜の味噌汁に入れてもらいましょう。
ほろにがく春の匂いが味わえそうです。

「八重の桜の」新島八重の夫で同志社の創設者新島譲の漢詩を思い出して書道教室の課題にしたのはつい一週間前のことでした。
今週はもう春を告げる味覚の山菜のさきがけの「ふきのとう」です。

庭上一寒梅 笑侵風雪開

不争又不力 自占百花魁

庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く

争わず又力(つと)めず 自ずから百花の魁(さきがけ)を占む

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2012年12月 7日 (金)

大江正路宗家の娘

土佐に於ける居合の今日あるは第十七代大江宗家による時の中学生への指導が大きいと思われます。
その大江先生の事は知るようで知らないものです。
だからこそ明治以降の土佐の居合、無双直伝英信流の神様の如き思いを抱かせるものです。

ここに、大江先生の娘さんが嫁いだ相手とカナダに移住し、カナダに於ける日系一世として当地で果てた語りを息子さんが綴り一冊の本になっています。

ある日、京都の先生から私の疑問を晴らされるようにお送りいただいたこの本の中に維新後の侍の苦渋と大江先生の生活が娘さんの眼を通して垣間見れたものでした。

私の知る限りにおいて居合をされる先輩諸氏にお聞きしてもご存知の方はおられませんでした。

ページを追って少しご披露して置きます。

カナダに渡った侍の娘 ある日系一世の回想

ロイ・キヨオカ 増谷松樹訳 (株)草思社 発行2002年

・トランクの中に分厚い土佐の本を大事にしまってある。・・・あたしの父の大江正路(おおえまさじ)のことも出ている。長谷川流居合の最後の大名人で、山内家の師範であったことがちゃんと書いてある。

*大江正路は「おおえまさじ」と読むのでしょう。

・俸禄も失い、年金もくれる人がいなかったらどうして暮らしていける?

・父は生計をたてるために、地区の高校と警察で剣道を教えていた。

・あたしが生まれたとき、父はもう五十近かった・・父の生まれたのは明治の前よ明治維新の頃は20歳くらい。・・父は昭和二年に七十六歳でなくなった・・ガンで死んだらしいけど・・

・佐々木信綱が千載館と云う名付けをしてくれた筆を作って家の前に小さな店を出して自分の筆や筆記道具を売っていた。

後はぜひこの本をお読みいただき、土佐の居合を味わっていただければと思います。

語りは大江先生の娘メリー・キヨシ・キヨオカ、1896年土佐の士族、大江正路の長女として生まれ1917年に見合い結婚しカナダに渡り7人の子を儲け、太平洋戦争時のカナダで日系一世の方々と同様に迫害にあっています。100歳で1996年になくなられています。
筆者のロイ・キヨオカはメリー・キヨシ・キヨオカの次男です。原題はMothertalk訳者は増谷松樹先生。

居合の話しはともかく大江先生の娘さんの生き様を通して明治の日本人、明治の女の心を見ることが出来ます。

そして無双直伝英信流居合術の第十七代宗家として土佐の居合を今日に導かれた門下の方にとっては神様の如き大江正路先生も神ならぬ人としてこの世におられた事を偲ぶ事となるでしょう。

人生を歩んで来られた方々には感慨深くお読みいただけるものと思います。

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