書を楽しむ
2019年1月 1日 (火)
2017年12月21日 (木)
真玉泥中異
平成30年の書初めの言葉を景徳伝燈録から「真玉泥中異」を選んでみました。
読みは「しんぎょくでいちゅうにいなり」、本物の宝石ならば泥の中にあっても輝くものだ、と読まれます。
上海で個展を開いて来た元美術の教授であった造形作家の作品が地元の方の心に響いたのでしょう。
作品に入り込んで一体となって嬉しそうにVサインを送っているご婦人。その向こうで、次は「わたしが作品に入る」と真剣な顔をして順番待ちする幼い子供。
作者と嬉しそうに作品の中で一緒に記念撮影する人。
ライブなどでは演奏者や歌手と観客が一体となって楽しんでいる状況が普通に見られるのですが、造形作品と一体というのもめずらしくそれも中国の方達とです、同じ感情なのでしょう。
芸術作品は静かに鑑賞するものとばかりの、お堅いお人には理解できないでしょう。
その作品には「どうぞご一緒にこの宇宙にお入りになりませんか」という、何かいつもと違う、誘ってくれるやさしさと暖かさがあったのです。
芸術作品は、ともすると投機の材料とされ、そのものの持つ価値よりも金が絡んだ評価が優先されてしまうものです。それに名士が絡めば万々歳です。それが芸術作品がそのもの以上に権力のネタに扱われる格好の材料でもあるのでしょう。遠い昔、正宗の刀と鑑定されたものが恩賞として政治に巻き込まれたこともうなずけます。
一方、心に残る作品は、どんなへぼでも人には大切な名品になってしまうものです。先祖の残した素焼きの「かわらけ」一つにも、今の自分を大切に思ってくれる家族を思い、心は和むものです。世に云う名品でも其の時の我が心とアンマッチならば置き捨てられてしまうものです。
或る忘年会での事、「おっさん」がそんな会話に割り込んで来て、中国と日本が過去にどうだったか、日本は何をし、中国は何を思って居るか。或は戦後の教育が進駐軍の言いなりにされ、その片棒を政府も日教組も当然学校の先生達も担いでいた、そんな世界に居たものなど中国人との芸術を語る権利はない、まして政治と芸術作品に依る忖度など口にする権利も無いと言ってわけのわからぬことで粟を吹いています。
この「おっさん」の歴史的な考察は間違ってもいない処も有るでしょう。戦前、戦後日本人は或る種の引力に引きずられ、洗脳され本質を失っていたか、自分を出せば「己の居る場所が無かった」ともいえるものです。
当然この「おっさんも」そんな両親や、先生に育てられたにすぎません。その上、「おっさん」は、この芸術家を否定する程の何かをしている様子は有りません。
「おっさん泥中泥」かな、余計な所に口を挟んでいないで己の「真玉」を全力を投じてみては、と思うばかりです。
今更、「おっさん」が自覚して、日本の行政も、片棒担いだ教育者も間違っていたと「ほざいて」見ても、元教授を否定しても意味の無い事です。歴史上の過ちを知ったならば、自分は今何をしているかが大切なことでしょう。
この造形作家は、中国の人と作品を媒介に利害関係なしに「和」する心を分かち合えた事は貴重な事だと思えるのです。そこから、新しい交友が芽生えていくことを期待したいと思います。
何処に居ても、何をしていても「輝いていなければ本物ではない」そのためには「何処でも,いつでも全力を出す」、評価は他人がする事であっても、自分は信じたことを貫き通す。
口先ばかりで何もせず、廻りが悪いと言ってみても、他人のあらをほじくってみても何も変わらず、取り残されるばかりでしょう。
そう言えば、この「おっさん」居合をやっているのですが、最近膝が痛いだのと言って稽古に出て来ない上に「あんな指導者の居合はやってられない」と言って居る。
「あんな指導者の70年をこえる居合」をとことん研究した形跡も見られないのに・・・膝痛など、へぼな体の使い方に由来するに過ぎず、真玉と独りよがりは別物です。
新年を迎えるに当たり、厳しい時代が押し寄せて来る気配を感じます。「何時如何なる変にも応じるられる」柔軟な心と体を「習い・稽古・工夫」して、真っ直ぐ信じた道を歩きたいものです。
それには、「一行三昧」に、是で良いと思わずにより上を目指し。
「下載清風」を知り、死に物の形に拘り、力むばかりの余計なものを下ろし。
「帰家穏座」 何時も本物とはと考えながら、穏やかに座すようにしたいものです。
2016年12月15日 (木)
鶏寒上樹鴨寒下水
先日たまたま一人稽古の際その方にお会いしました。稽古をしながら、業の切れ間にそれと無く拝見していました。
プロを目指し励む人には、廻りの人も助けてくれるのでしょう。審査当日、彼女が居なければ店は回らないのでしょう、彼女の為に店を休んでくれています。そんなプレッシャーもしっかり受け止めていた女性です。
号令一過、大勢の弟子が全員で同じ業を抜きつけても、戦場に送り出す従順な兵士を作る、或はこれから稽古する準備運動になっても大した効果は望めません。
2015年12月19日 (土)
春来草自生
2015年1月24日 (土)
良寛の般若心経
我が剣友がこんな詞を送ってきました。
古人の跡を求めず
古人の求しところを求めよ
松尾芭蕉「許六離別の詞」
抜け殻に固執せずに古人の求めたものを追い求めよというのです。
空海の「性霊集」の「古意に擬するを以て善しと為し 古跡に似るを以て巧と為さず」がもとになるだろうとされています。
「擬する」は当てはめる、なぞらえる、まねる、などの意味になります。味わい深い詞です。
彼が送って来た処の意味は、一つは私の古伝神傳流秘書への憧憬を戒めて、形を追及せずに古伝の心を追えよと言っているのでしょう。
もう一つは、文字も言葉も、まして動作など本当の処が解らない古伝よりも、現代居合をもっと見つめて励みなさいと言っているのでしょう。
優しい心で、現代居合の根元は古伝にあるからこれで良いと励ましてくれているのでしょう。
本意は判りません。
書の臨書の心得に当てはまるものです。
先ずしっかりとお手本を見て、お手本通りに何回も何回も書き込んでみます。
そのうち何度書いても形は似ていても、少しもお手本に近づかないのです。
体が違う、哲学が違う幾らでも理由は見つかります。それでも懲りずに手習いします。
其の内1000年以上も多くの先達の手本となった意味が少し見えてくるものです。
書の教室で、9月から良寛の般若心経を宿題にして手習いをしてもらっています。
あの淡々として、鉛筆で描いたような楷書の般若心経です。
良寛は求められた時も、自ら求めて書いた時も、声に出しつつ書いたのだろうと思います。そこに良寛の生き様があるようです。
宗派が違うと云って手にしようとしない者。
般若心経は活字体のカチッとした楷書でなければと、お経に不敬と言って拒否する者。
この仮名釘流の文字が書の手本になるほどの価値があるのかと見る者。
市販の引き写しに頼ろうとする者。
とにかく真似てみる者。
文字だけ真似ても全体が整いすぎる者。
良寛関係の書物を読み始めた者。
般若心経のとりこになり始めた者。
一見弱々しく、粗雑な感じに見えるにもかかわらず、良寛の厳しい線と誰でも受け入れてくれる豊かな心持ちの現れた般若心経にいま皆さん魅せられ始めています。
般若心経には経典のすべてが凝縮されているはずです。
般若心経は色々な人が書き残されています。古いもので手本にされているものは王羲之の集字による集字聖教序の般若心経・空海のものといわれる般若心経・良寛の般若心経などでしょう。現代では数知れず写経というよりも般若心経を書いた造形でしょう。
12月の書道教室の稽古納に此の良寛の般若心経の臨書作品が出来上がって来ました。
どんなに臨書しても、10人10色はここにも表現されてきます。
書けば書くほど、そして般若心経を学べば学ぶほどその人の思い入れが表面に現れてくるようです。
このブログは2014年11月24日「場違い」の後半に付しておいたものですが、久しぶりに「書を楽しむ」のカテゴリーに加筆して移しておきます。
2011年7月 9日 (土)
一字書「古」
書道教室の宿題に一字書で「古」の字を出しておきました。
半切を4分の1に切った良く滲む紙を清書用に持って帰ってもらいます。
今回の「古」の文字の元になる作品は、松井如流先生の昭和58年パピルス展の作品で古隷風な行書。
古びた事毎をくよくよ思い煩うのではなく、いにしえに遊ぶような、それでいて決して浮ついたものでない雰囲気を感じさせる作品です。
それを元に一人一人をイメージをしながら、雰囲気を変えて手本を示して置きます。
字を書く事の楽しさををもっと膨らませるように、同じ松井如流先生の昭和43年毎日書道展の金文による「古」を、図録によって見てもらいます。
書を越えた造形の妙であり古代を彷彿とさせるものです。
中国の古典を習うのは日常的でしょうが、日本の一字書や仮名書は中国の書を凌ぐものも沢山あります。
しかし、見方を誤れば、技巧のみが目に付くいやなものも多いので困ります。
他所の社中の先生の書だからといって習っておかないのは損している様なものです。
それをその場で臨書して、似て非なるものしか出来ないこと、文字の由来など少々薀蓄を述べて観て貰います。
今日其の宿題が出来てきました。
皆の前で、出来上がってきた夫々の4枚ずつの作品を鑑賞します。
皆なが感心するもの、自分が良いと自負するもの、私が少々からい事を付け加えて選ぶもの。
それが自分の思いと一致すると、うれしさがこみ上げてくるのです。
初めた頃は、おずおずと出していましたが、今では堂々と見せてくれます。
上手い下手や技術的に高い低いよりも、50歳ならば生きてきた人生そのもの、それを其の儘に書にぶつけられればいいのでしょう。それ以上でも以下でもないはずです。
そして仲間の作品にも一喜一憂しています。
お習字を習って、毛筆でせめて結婚式の記帳ぐらいは、と思ってこられた方の目が創作の楽しさにきらきら輝いています。
昨年の暮れに、今まで筆を持ったこともないと仰る御婦人が来られ、「筆が思うように動かない、書けない、書き順が判らない、バランスが取れない、・・ないないずくし」と言っている間に、みんなを「あっ」と言わせる「古」を書いてきました。
私が松煙墨でその場で臨書した如流先生の金文の「古」によほど感化されたと見えて、自由に駆け巡っています。
彼女の前で書いたものは、活字に近い符号を越えない楷書の「古」でした。
2010年1月29日 (金)
近代詩文書(読める書)
毎日書道展では「近代詩文書」といわれる書の分野があります。現代の詩や文を、それにふさわしい漢字や仮名の書体によって書かれた書を指します。
日展と読売書道展では調和体と呼んでいる書作品の分野です。
呼び名は変わっていても、現代の詩や文を、現代の文字で、書そのものと同時に読むことでも感動を味わう事が出来るものといったらよいのでしょうか。
文章のある部分にえらく感動を覚え、書作家はそれを書作品にしたい衝動にかき立てられそれにふさわしい書体で書く事が出来れば、素晴らしいことでしょう。
詩人や小説家、或いは自分自身などによる「感動的な言葉」ですから、それだけで十分感動を得られるものでしょう。それを書にして作家の意図を書家の書法を持ってトレースするわけです。
自分の言葉ならば、意図したものを自分の書法で文字にすることで、より高い、文言だけでは気がつかなかった感動を引き出す事もありうるでしょう。
他人の文言を書き表す事は難しいですね。何処にでも共通の活字で淡々とかかれた方が作家の意図は伝わりやすいはずです。
書家が書くことによって、文字が軽薄でありすぎたり重過ぎたりすれば、作家の意図とかけ離れてしまいます。よほどの書法の能力と、文言に対する洞察力がいるかもしれません。
展示会に出品される多くの書は、文字を書くことに専念して、詩文との調和にまで気心が回っていないのが現実です。ですから作家の詩や文章に調和させる事は、漢字と仮名の調和より遥かに難しいでしょう。
誰も読んでくれない漢詩、漢文。変体仮名が邪魔して読めない和歌や俳句の仮名書を、読めて喜ばれる書となるように目指さざるをえません。
古典のままでいい、と云う書家もいるでしょうが、古典の臨書まがいの書でいいのでしょうか。
やはり自分の言葉でない文の書には限界があるのかも知れません。ならば「前衛」「大字書」などなのでしょうか。
近年よく言われる、鉛筆を握り締めて書いた少女文字、丸文字などは字形の上では漢字仮名の調和はとてもよく出来ています。
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調和体(読める書)
つい100年ぐらい前まで、少し素養があれば、片仮名、平仮名はもとより、楷書、行書、草書で連綿の漢文交じりのお手紙を読める人がそこそこ居たのではないかと思います。
よほどの教養がないと読めっこないと思うのは、われわれ戦後の連中でしょう。其の証拠に草書で書かれた封書の宛名書きでも間違いなく配達されていた、と言ったら「連中はプロフェッショナルだ」と云う人もいました。
それにしても、当用漢字の楷書か楷書に近い行書と片仮名、平仮名だけで教育されてはどうしようもありません。
草書や変体仮名は古代史を飾る文字になってしまいます。千年も書き、読みしてきたものをここ60年足らずで捨てていくのは情けない事です。
書道会では、漢字は漢字の専門家、仮名は仮名の専門家といった意識があって双方の伝統の中で武道で嫌う居ついている間に、一般の教養の価値基準が、どんどん位置かわりしてしまい、置いて行かれてしまったわけです。其の上書道家は、お習字の先生であって字を書くことに全力を傾けてしまって自分の文章も、詩も生み出せない者がほとんどですから主体性に欠けてしまいます。
読める作品を発表していこうとする動きが芽生えて久しいのですが、どうも今一で書道への憧憬は読めなくても古典に注目されてしまいます。
日本を代表する書道展では毎日書道展は昭和29年に「近代詩文書」部門を設けています。昭和30年には日展が「調和体」部門を設置しています。大分遅れて平成7年に読売書道展が「調和体」部門を設置しました。これが漢字仮名交じりで読める書の分野です。
読める書、漢字仮名交じりの書、新書芸、近代詩文書、調和体などと呼び名もまちまちで今もって何がなにやらわかりません。
漢字や仮名を専門に習ってきたのでしたら其の風で現代に通じ読めて感動できるものならばいいのでは思うのですが。
平成8年に書の雑誌「墨」で調和体大研究を特集しています。村上三島先生のご存命中に読売書道展の調和体部門の内規に「漢字は楷書と行書しか用いてはいけない。連綿は二字以内でなくてはいけない。散らし書きはいけない。文字の大小を極端につけてはいけない。文字と文字の間を大きく離してはいけない。短い詩文が望ましい。・・・・
なぜか現代竹刀剣道が、組太刀の形や居合の形を連盟が制定してしまい流派の伝統が失念していく事が被ってきます。
朗々たる詩には、大きな書き出しや、散らしや、限りなき連綿もありかもしれません。
流派の掟が違っては、昇段試験や演武の判定が難しいという統一の理論は、武道や芸術に求める事は何なんでしょう。
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2009年12月 6日 (日)
落款
書作品には署名をしハンコを二つ押すのが一般的です。上に押すのは白文字でこれは正式な姓名を押します。下の方は雅号を朱文字で押します。自書した文字の方が「落款」でハンコの方は「款識」と云うのが正式です。詩文などを書き上げて、最後に雅号を程よい位置に書いてハンコを押すわけで、「雅号を書いて落款を押す」と云う言い方は本来は間違えた言い方です。
現在の書作品の署名ですが「○○書」と署名する場合は、その作品が自分で作った詩句である場合に限られ自作でない場合は「雅号」だけで「書」を書いてはいけないとされています。
本当はどうであれ、自分の作品でもない詩句に「雅号+書」が何にも言われず通用してしまう事が現代の凄いことでもあり、落款と款識についての言葉遣いの間違えている事など、遠い未来にどのように思われるのかはかり知れない事です。
以上のことは野村無象先生の「書を志す人にー落款と季語と印」の冒頭に詳しく書かれています。
いつ書いたかを示すには「時」を記すのですが、今月は平成21年12月6日ですから干支を使って平成己丑暮歳上澣(へいせい・つちのとうし/きちゅう・ぼさい・じょうかん)と書いて平成21年12月上旬をあらわします。
12月31日は平成己丑窮月尽日(へいせい・きちゅう・きゅうげつ・じんじつ)ともなります。
来年は平成22年ですから庚寅(かのえとら/こういん)、1月は元月・初春・新春などと書きます。
1月1日は元旦ですから平成庚寅元旦。
書初めでは平成庚寅 試筆 ○○書 □□
面白いやらわからないやら、効果的に使いこなせれば楽しいのですがどんどん現実離れしてしまいます。
少し勉強すれば、古い先祖の書付がいつごろのものかわかったりして嬉しくなるかも知れません。
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2009年7月 1日 (水)
花押
武将の書状には花押が書かれています。
「花押はもと、己が名、又は字(あざな)の文字を草体に書くことなり。
書き方、全く草体のままに用ゆるにあらず。少しく意を加えて花(あや)を成すべきなり。
ゆえに花押又は花字とも称す」と「雲谷雑記」や「南斉書」に云う。と、かの米庵は書いています。
そこで武将の花押を引っ張り出して眺めるのですがなかなか判然としません。
名字以外の文字を持ってきて飾っていたりするので、印鑑代わりのサイン程度に見てしまいます。
花押は書状に用いるもので、書画の落款としては使用しないものです。
書の勉強がてら名前を草書で書いて花(あや)なして自分の花押を作り、手紙に使うのもお洒落です。
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