秘歌之大事

2011年12月 9日 (金)

極意の秘歌(残歌10首目一つより百)

無外流百足伝より

「一つより百まで数へ学びては もとの初心となりにけるかな」

 百足伝は自鏡流祖多賀自鏡軒盛政が門人を指導するごとに人体の差別を見て、指南した口受である。人に大小長短幼老貧富の差別ある故指導者はこの点に心を配り、その人に応じて指導すべきで決して画一的に指導すべきではない。指導者の心得うべき事である。

百足とは「ムカデ」のことである。百足は歩くのに此の数多い足をからませる事なく、緩急自在に運んでいる。これ無意識なるが故である。居合を行うに当っても之と同様刀に気をとられ、手や足に気をとられては充分な動作は出来難い。無意識の状態に入ってこそ真の居合が出来るので、この境地へ迄行くのが修業である。

また百足は小なりと雖も猛毒を有している。この毒あるが故に他の動物が近づけないのである。これは武道の鋭である。鋭が進めば威となる。武道修業の考うべき所である。(無外流大十三代中川士竜宗家の語)

*無外流の百足伝は四十首の歌からなっています。百足は40足ある所からとも云われているようです。此の歌はその百足伝の四十首目の歌となります。

学ぶと云う事は、奥へ奥へと行くばかりではなく、もう之までかと思う矢先に初めの一歩が不十分と知れたりして、又初めからやり直す事が度々です。

この百足伝の第一首目の歌

「稽古には清水の末の細々と 絶えず流るゝ心こそよき」

* 良い歌です、長い修業によって培われた師匠の心からなる声でしょう。

入門当時これらの歌を聞かされても、「そうか」と思うばかりで実感はありません。慣れてくると面白さも増して、次々と新しい業を覚え一気に幾つもの業を吸収して「清水の末の細々と」など、聞いた事もない気分です。

やがて壁にぶつかり、振り返ってみれば、置いてきた幾つかに気付きます。元に戻ってやり直しです。3年で行った道が今度は一年で辿れます。

次の何年目かに再び壁に突き当たります、自由自在に動けるばかりで、残心している空しさです。今度は簡単に抜けられないでしょう。一年経ち2年経ち、石の上にも何年とか。

百まで数えるまでも無く、行ったり来たりしながら、少しずつ前に進むのでしょう。

真っ黒に塗りつぶして、出来ていると思っている人を見ていると、戻るのはあなたの心ですよとささやく声が聞こえるでしょう。聞こえても聞こえない振りをするほど俗気は持ち合わせていません。

「極意の秘歌」は居合に限らず、あらゆる分野に共通する先人の残した心です。噛み締めてみれば、至らぬ気付きがのしかかってきます。

ある先輩が、「稽古熱心だな~、大会でよい成績が取れるだろう」空しい応援歌です。そんなものは不要です。

ある女剣士が「切れる居合を教えて」・・・「切らない居合の方がいい」

冷えた道場の床に座って、流儀の一本目・・・・・。

極意の秘歌は、まだまだ幾つもあります。この辺で一旦終わりにして次回は、明治の書道家中林梧竹先生の「梧竹堂書話」を読んでみます。

居合でも何とも品の無い演武をこれ見よがしに見せ付けられるとうんざりします。

書も同様に技法は抜群でしょが見ているのがいやになるような作品も沢山あります。自分の書いたものですら見たくないなど幾らもあるものです。

遠い昔に小さな展覧会に出品した中に惚れ惚れとする気品に満ちたものがあったりしますとほっとします。上手、下手ならきっと今の方が上手いのでしょう。あの遠い日に書いた素直な書には心が素直にじみ出ているのです。

娘が小学生の頃のお習字の一枚を飾っています。「目は心の窓」伸び伸びと育った感受性豊かな子の一枚です。きっと此の子は「目は心の窓」を感じていたのでしょう。

足りないのは技法ではなくにじみ出る風品と云うものなのでしょう。いつの間にか上手く見せようとか、賞を取ろうとか、褒められようとか、誰々に負けまいなど、余計な事が一杯詰め込まれてむちゃくちゃになって、自分が何処にもいなくなる事です。

まかり間違っても、師匠のコピーではならないのは、書でも居合でも同じ事です。

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2011年12月 8日 (木)

極意の秘歌(残歌9首目水月をとる)

田宮流歌伝口訣より

「水月をとるとはなしに敵と我 心の水に澄むにうつらふ」

水月とは機の移りをいう。清水に月の移る如く敵の機の我に移ることを水月と名付ける。我心の水澄めば敵の機は彼より来たって移る理ぞ、そこを譬えて水月と云う。水は無心なるものにて月を求めとらんとすることなけれども、明らかなるもの故に月の方より移る。心は元来明らかなるものにて清水の如し然れども意識にからまされて濁る故に修業の功を積み、無我の住に至る時は澄む時は敵の機は水月の移る如く彼よりのって移る理ぞ。そこを澄むにうつらふと云う。うつらふとは移ると云う詞である。

* 無我の境地になれば敵の機は我心に移ろうと云う、敵も無我の境地であれば如何に、稽古を積み上げ、自信に満ちた位の高さが明暗を分けるのでしょう。先に機を発したものが敗れるのでしょうか。

沢庵和尚の不動智神妙録に

「思はじとおもうも物をおもふなり 思はじとだに思はじや君」

*  思わないぞと思うのだが物を思うものだ 絶対に思わないと思うのでしょう君は。無心にはなりがたいものです。無心になろうと思ったのでは無心にはなれません。

それよりも無心になるべき機会を持たないなどの事もあるかもしれません。好きな事をやっていても「夢中」にはなれても「無心」にはなれない、夢中でああしよう、こうしようと錬ってしまいます。

「留まる所なき心を無心と申候、留まれば心に物があり、留まる所なければ心に何もなし、無心の心に能くなりぬれば、一事に留めず一事を欠かず、常に水湛へたるやうにして、この身にあって用の向く時出して用を叶ふる也」

無外流百足伝より

「うつるとも月も思はずうつすとも 水も思はぬ猿沢の池」

「吹けば行く吹かねば行かぬ浮雲の 風にまかする身こそやすけれ

塚原卜伝の歌と言われる歌

「武士の心の鏡くもらずば 立ちあう敵うつし知るべし」

一刀流兵法仮名字目録に「水月ノ事」

水月ノ事 水ニウツル月也其ノ月影ヲ亦汲器ニウツス処也月ハ汲ツルトイヘトモ影ウツラスト云ウ事ナシ。自身体サハキテ不見分ニヨリ汲ツル水ニ月ナキト見ユル是ヲ狐気ノ心ト云ウ心誠ニテ汲テ見ヨ汲ツル水ニモ同月在

* 心が清く静かで明鏡止水のようであれば相手の隙が見えてくる。と云うたとえでしょう。

「早き瀬に浮かびて流る水鳥の嘴振る露にうつる月影」

* 極意の歌などと思わなければよい情景描写です。情景描写だけでは、歌の先生が冷たく「それでどうした」と横を向かれそうです。水鳥が浮き上がって嘴を振ると水玉が飛んでそれにも月が映っているよ、あんな小さな水玉の瞬間の動きでさえも心を静めて観れば見えるものだ。

「敵ヲタタ打ツト思ウナ身ヲマモレ オノツカラモルシツカヤノ月」

言ハ負ナカラン太刀ニカカハルハ非也或ハ賤トイヘド己カ庵ヲ漏ルト思ハネトモ事不足シテフク故ニ月ハ一天ニアレトモ自然ニ影モル也 其の如ク敵ヲ討タント思ハネドモ己ガ一身ヲヨクマミリタレハ悪キ処ヲ不知シテ己ト勝理也手前ノ守ル事ヲ忘敵ヲ討タント思ヒ身体少少サワキタル時ハ負大ヒナルヘシ

* 「敵をただ打つと思うな身を守れ 自ずから漏る賎茅の月」

お金が無くて葺く茅が少なかったために、月影が隙間から漏れてきてしまった。そのように敵を討とう思わずに己の身をよく守れば隙は無い、守る事を忘れて敵を討とうと思うと隙が出来て負けてしまう。

一刀流に伝わる仮字書目録の一節でした。

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2011年12月 7日 (水)

極意の秘歌(残歌8首目極意とは)

田宮流歌伝口訣より

「極意とは表の内にあるものを 心尽しに奥な尋ねそ」

居合の究極は何所に有るかと尋ね見れば矢張り表の内の一本に有ることぞ。あれをなぜに極意と云うぞなれば、あの手数は唯三角に抜て納める迄なれども気体にヒズミなく三角の力子に抜放したる中に発して敵を両断となすの鋭機を含みて寂然不動たる所は生まれの儘の本体である。是天然の体を教ゆる所にて気体に豪髪も虚隙なき所より贏理(えいり・かちみ)は備わる。此所を始終修業の基として成就の場も是に外ならず他の手数もあれより発する。極意の萬事抜く所はどこで抜くも一理なるわけにて皆この一本より発するの意にて萬事抜と名付くともいう。

* 「表の内の一本」とは田宮流の表之巻一本を指しています。稲妻に極意はあると云うのでしょう。他の手数も是より発する、従って萬事抜と云うわけです。

無双直伝英信流に於いても正座の部の前、あるいは立膝の部の横雲でしょうか。もっとも単純でもっとも難しい業です。

奥義についての歌では無外流の百足伝より

「兵法の奥義は睫の如くにて 余り近くて迷いこそすれ」

極意の歌の幾つか

「習とて何を秘すべき物は無し 心の外に大事なければ}

「数々の業は多しといふとても もと一体のものと知るべし」

「兵法は懸・待・表裏三つなれど つづめて見ればただひとつなり」

「奥深く山を尋ねて入る程に 至り至りて里に出でけり」

「なかなかに人里近くなりにけり 余りに山の奥を尋ねて」

「目の前のまつげの秘事をしらずして とやかくせんとあんじこそすれ」

* 流派によっては奥居合は極意業のように言って、なかなか教えようとしない師もおられるようです。初伝と云われる業を充分稽古した上で習えと言われます。そんな事を言っている間に師匠は膝を痛めて座れなくなり、見せて教える事が出来なくなります。古参の者もろくろく指導を受けていませんし、いつの間にか雲の上の業の如く扱い幻になります。

極意の業は初伝の初めの数本が気剣体一致になれば十分なことで、他の業は応用問題に過ぎません。そのように極意の歌は詠じています。

習いたいと思った時に習うか、独習して師に「是でよいか」と問えばいい事です。形だけならば直ぐ出来るようになるはずです。その際の師の言葉の持つ意味を充分噛み締めて見る事でしょう。師である人は弟子に心からの言葉を掛けえたのか、其の弟子の師である事を忘れ、おざなりの言葉だったか心に手をあててみる事でしょう。

大会や昇段審査では、ルールにのっとり業の選択をすればよいことで、5段までは奥はダメならそれを演武しないだけの事でしょう。稽古は幾らやってもいい事です。ルールに制約が無ければ自信を持ってガンガンやればよい事です。ヘボなら注意に飛んできてくれるありがたい方も居られます。ありがたく受けられる剣士であれば良いことです。

武蔵の五輪書を読み直しています。

他流に奥表と云う事(五輪書風の巻)

兵法之ことに於いて、何れを表と言い、何れを奥といわん。芸により、ことにふれて、極意・秘伝などと云いて、奥口あれども、敵と打ち合う時の理に於いては、表にて戦い、奥を以って切るという事にあらず。我兵法の教えようは、初めて道を学ぶ人には、その業のなりよき所をさせ習わせ、合点の早くゆく理を先に教え、心の及び難き事をば、其の人の心をほどくる所を見分けて、次第次第に深き所の理を後に教えるなり。されども、大方は其の事に対したる事などを、覚えさするによって、奥口と云う所なき事也。・・何事の道に於いても、奥の出合う所もあり、口を出してよき事もあり。何をか隠し、何をか顕さん。・・」

武蔵はおおらかです。褒め上手だったかもしれません。

前日の書き込みにダブりますが指導者の心得は尾張柳生の始終不捨書にもあります。

初心者に初めより巧者の如く能く直す事悪し。先ず成り次第に十禁十好之習を癖にさせ手足を動かし、心のかたまる所を見付け直すべし。

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2011年12月 6日 (火)

極意の秘歌(残歌7首目居合とは)

田宮流歌伝口訣より

「居合とは我身の勝を元として 扨てその後に人に勝つなり」

我身の勝とは手前の気体のヒヅミを正しくすることなり。其我身に勝つ趣は、気の位が調ふ時は我身勝つなり。手前の気体調ひて虚隙無き時は、敵より撃つべき非はなき也。そこで敵に勝たるゝ也。これ孫子に「先勝而後求戦」と云へる語意也。

無外流の百足伝に同様の歌が見えます。

「前後左右心の技直ならば 敵のゆがみは天然と見ゆ」

* 「我が身の気体の歪を正しくする」戦う前に充分に腕を磨き心を練っておけば、敵の歪んだ気体は自ずから見えるという教えでしょう。己の歪みにも気付かずに歪んだまま稽古し続ければどんどん歪みは大きくなって、相手が「心の技直ぐ」なのに己の歪みで歪んで見えたりします。

2m先のカップを30cmも外す歪みは、アンジュレーションや芝めの読み誤りでは決してありません。

窪田清音の剣法規則後伝口伝に「天性筋骨順逆の形」と云うのがあります。

「剣法の第一は形なり。形体ただしく整はざれば動作自由なること能はず。人各天性筋骨の順あれば其の順に随ふべし。然るに衆人気よりして形に病を生じ天性の如く正直なる事能はずして偏斜の癖を生じ腰肩正座せず手足の動作意の如くならず四肢の均衡を失ひ各所に癖を生ずるが故に心を用ひて形態を正しくし横斜せしめざるべし、凡そ百事善にかえり難く悪になれ易ければ常に反省して天性の形を失うことなかるべし」

窪田清音は江戸末期の田宮流の使い手でした。

口伝に云う形は天性に随い其の心静ならざれば変に応じがたし

「心静ならざれば」は「己の足らざるは自ら知らるゝものなれば、其の足らざるを知る心より強敵を恐れず、弱敵を侮らず、唯一死を決すれば勝たざる事なし」という事から心を静ならしめるわけです。

まず、其の日の稽古の目的が何であるかを知りそのことを正すために稽古しなければ、音楽に合わせたラジオ体操に過ぎないのでしょう。

そのためには、真っ黒に塗りつぶして心が居ついてしまった己の心を見詰めなおす事でしょう。そうでなければすべて己が可ですから稽古の目的は見えるわけは無いでしょう。手持ち無沙汰が初心者相手の教え魔となり、似非師匠となる原因と思います。

徒にビュービュー刃鳴りをさせていても意味の無い事です。

尾張柳生の柳生兵庫助利厳によって尾張大納言義利に進上した公案に「始終不捨書」があります。その中の「十問十答之事の一番目」

初心者に初めより巧者の如く能く直す事悪し。先ず成り次第に十禁十好之習を癖にさせ手足を動かし、心のかたまる所を見付け直すべし。

初心者に、といっていますが、尾張大納言にもいつも自分をチェックするようにと言っているはずです。

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2011年12月 5日 (月)

極意の秘歌(残歌6首目初学には)

田宮流歌伝口訣より

「初学には調子を習へ兎に角に 早きにまさる兵法はなし」

居合は抜付け一本にて勝つの教えゆえに、初学より先ず調子を習うが専一である。初めより、三調子に習わすこと肝要なリ。それより二調子に、次に一調子に抜かすこと。この調子は「ハナレの至極」という。初学よりは一調子にゆかぬ故、三調子、二調子の場より習わすことが肝要なリ。

極意の歌にはよくよく味わって見なければ解らないものが多いのですが、わかれば納得です。

林崎新夢想流秘歌之大事の中にこんな歌がありました。

早くなくおそくはあらし重くなく をそきことをぞあしきとぞいふ

* 早くなく遅くはあらじ重くなく 遅き事をぞ悪しきとぞ云う

今回は「早きにまさる兵法はなし」です。そのために調子を覚えさせる方法を歌にして解説しています。

この辺の調子も大会演舞に溺れた、いつまで経っても大きくゆっくり正確にの人には不向きです。

意識して三調子によって無駄な動作を切り捨てます。そうするといつの間にか二調子になっています。一調子は無駄な間をなくせば自然に身につきます。

早くやろうなどと考える必要は無いことです。

そして、場間に応じて間の抜けない動きを身につける事で、一人演武の居合のもっとも容易でもっとも困難な事でしょう。

さすれば剣舞から兵法に近づくと思いますがいかがでしょう。

無外流の百足伝より

「兵法の先は早きと心得て 勝をあせって危うかりけり」

* 無外流にたしなめられたりして、愉快です。

ついでに2つ百足伝より

兵法は強きを能きと思いなば終には負けと成ると知るべし

兵法は強き内には強みなし強からずして負けぬものなり

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2011年12月 4日 (日)

極意の秘歌(残歌5首目敵合に)

田宮流歌伝口訣より

敵合に早き業とは何をいふ こゝろとどめぬ人をいふなり」

敵合に臨んで、敵がカウスルゾ、ナラバ、ケ様にしようと色々思慮按排にわたる時は勝負合鈍クなる也。故にそこに心を留めず敵に向ふと、まだ敵の刀も振り上げぬと云うやうふる未発の場に打込む時は必勝を得る也。愚慮按排にわたらず無分別の住より見込みたる所を一断撃に討ち取るを心とどめぬと云ふ也。

* 「早き業」の意味する所を教えているわけです。長い刀を素早くせこせこと立派に派手にする事とは違います。 

此の歌の心は既に「極意の秘歌(5首目寒事に)で書き込んであります。

霜の下りる音を聞いて敵に対するのでは負ける、敵の未発に已発する極意の歌です。

新庄藩 林崎新夢想流 秘歌之大事 5首目

「寒事尓て霜を聞遍幾心こそ 敵尓於ふて能勝盤とる遍き」

「寒事にて霜を聞くべき心こそ 敵におふての勝はとるべき」

* 直訳すれば、寒い朝に霜が結ぶを聞くほどの澄んだ心があれば 敵に出会っても勝ちを得られるであろう。

武術肝要集に「我れ已発を以って敵の未発を抑ふ。是れ業を言わず、気の位いを言うなり」とあります。

霜が降りて真っ白になってから霜を知ったのではならないと云う事でしょう。寒さの度合いで霜が降りる事を察知する位の感性を持つことを云うのでしょう。

敵の未だ発せざるに、すでに発している事を已発というのでしょう

田宮流居合和歌之伝

「寒夜にて霜を聞くべき心こそ 敵にあいての勝をとるなり」

寒夜に霜を聞くほどに心を鎮めよ、心の騒ぎは怒りから出る。臆するところより出るなり敵を打つべきと思うに、怒るに及ばず、臆するに及ばず、心のおさまり第一。

* 「早き業」のポイントはただ早ければよいのでしょうか。

下村派の古伝に英信流居合目録秘訣と云うのが有ります。其処の一節。

「当流には雷電の時の心、また、霞越しに見るが如きの心の所に大事の勝有る事を教るなり。夢うつつの如くの所よりヒラリと勝事あり、其の勝事無疵に勝と思うべからず。我が身を先土壇となして後自然に勝あり、その処は敵の拳なり委しき事は印可歌に有」

沢庵和尚の不動智神妙録から下村派の「神伝流極秘」に「間に不容髪と云う事有」でこの辺の事を取り上げています。

「敵の振り上げる太刀に心が止まり候得ば間が出来て其の儘手前の働きが抜け候敵の振り上げる太刀と我働きとの間へ髪筋も入れず程の事成ば人の太刀は我太刀たるべし

先だって大会向け演武から抜けたいと云う女剣士の話を聞いて「切れる居合がしたい」と投げかけられました。私は「切らない居合が目標です」と言っておきましたが、「切れる居合」とは抜きつけがどうの、刃筋がどうのと云う技法の問題ではなく、気の問題なのです。

「我が身を土壇となして」とか「人の太刀は我太刀たるべし」が理解できない限り「切れる居合」はありえないでしょう。

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2011年12月 3日 (土)

極意の秘歌(残歌4首目居合とはこころ)

田宮流歌伝口訣より抜粋

「居合とはこゝろの上手下手なれ 刀をぬくは下手と知るべし」

凡そ技芸の道に心の上手技の上手と云差別有り。居合の上にて云はゞ、長き刀などを立派に抜き放してハデなる技をするを技の上手と号る也。然るに居合の術は刀室(さや)の内に贏理(えいり・かちみ)は有るもの故に、心が上手なればいつにても勝つの理也。されば抜きつけ一本にて勝つの教えゆへに敵合に臨んで気を修め、ジリジリと詰寄せ4寸の鉄の塩合いにて初霜の目附をあやまたす抜き放つ時は必ず勝つの理有る也。さるほどに心気をゆりすへ昏迷せざる時は目附をあやまたず抜き付けるべき也。これを心の上手と号る也。心の上手云々なれとは居合は心の上手こそ居合の上手でこそあれと云事也。技が上手でも心が下手なれば勝つ事はならぬ也。さるほどに長い刀を立派に抜くなどと云ふは第二第参の事にて下手の仕業ぢゃと云事也。

「我気にて己が身をつかふものそよし 業はこゝろを奪ひ取らるな」

* 此の歌は上記の歌心をよく解説しているように思えます。心の思うように身を動かす事ができればよいでしょう。一人稽古の居合はその点「気にて身を使うこと」がなかなか出来ず何時まで経っても右足左足と敵も心もどこかに、形を追いかけて暢気なものです。せめて形を打つことが出来れば少しは変わるでしょう。形は上級者のものと何時の間にか怠け者が決めてしまったような事もあるようです。

形は初心のうちに木刀でしっかり稽古してから刀を抜かせるべきでしょう。チャンバラ好きの新人はそんな思いより摸擬刀を振り回したい気持ちの方が強いようです。

基礎は、対敵との間と間合い、気を以って身を使うことなのですが・・・・。

無外流の百足伝より

「我流を使はゞ常に心また 物云ふ迄も修業ともなせ」

「朝夕に心にかけて稽古せよ 日々に新たに徳を得るかな」

「長短を論ずることをさて置て 己が心の利剣にて斬れ」

「前後左右心の技直ならば 敵のゆがみは天然と見ゆ」

下村派の伝書より

「身の曲尺や心位の有ものを よそを見こそ懸るなりけれ」

「数ならぬ故々路に身をばまかせねど 身にしたかふはこゝろなりけり」

「あたにのみ人をつらしと何かおもふ 故々路よ我を憂ものとしれ」

* 心を歌ったものは多くあります。なるほどと思います。しかし心は百足伝にある「心また物云ふ迄も修業ともなせ」でなければ心だけが上滑りしてしまいそうです。

下村派の「身にしたかふはこゝろなりけり」で心に身を任せずに、ともすると人は楽な方に心を従わせてしまうものです。

かといって苦虫噛み潰したような心に支配されても困ったものです。

折にふれ、「心こそ心迷わす心なり心に心心許すな」と唱えるほどで迷い迷って頭を掻いていたいものです。

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2011年12月 2日 (金)

極意の秘歌(残歌2首・3種目師に問いて)

田宮流歌伝口訣

「師に問いていかで大事を悟るべき こゝろを尽しねんごろに問へ」

萬の芸術師に問はないで其の奥義を悟ること能はぬ。故に兎角師の胸中を子んごろに問い尽くし見る時は一流の奥秘理会すべき也。

「天芸を願わばこゝろ一筋に 師教の道をふかく信ぜよ」

天下に並びなき達人に至りたく願うならば兎角師の教導をふかく信じて修業不懈(おこたらず)時一度は至るであろう。師教に疑いを生じ我意を交る時は精一至誠の所に至らず、成就する事能はぬぞ。(田宮流妻木正麟先生の詳解田宮流居合より2首)

* 師との信頼関係についての教えはどの分野にも共通の事です。よほどの師でない限り弟子の選り好みは出来ないのが普通です。師を選ぶのは弟子の選り好みより遥かに容易なことです。

しかし一般には良い師であるかよりも、場所、曜日、時間が優先で、居合の流派さえ認識の無いまま入門されます。

師が立派でも弟子がダメ、弟子は潜在能力が旺盛でも師がダメ。弟子が師を越えようとする兆しが見えた時、師はいかにすべきか思いのない師との出会いは不幸でしょう。

凡そ流派を開いた人は実力は群を抜いているはずですが流派を守っただけの人には勝れた痕跡が見られないのが多といわれます。そんなこんなで師と弟子との出会いは偶然の結果かもしれません。

弟子にも師の社会的地位を利用するだけのように見受けられる似非弟子なども居たりして複雑です。

師で在りたいと思う者は、常に進歩する心がけが必要と思うのです。80歳にあとわずかという方も入門されてきます。運動能力は覚束なくとも、人として頑張ってこられた方がほとんどです。他所からやむ終えずこちらに入門される方もおられます。そんな方にはその後に立派な師が付いています。教わるつもりで教えられる度量も欲しいものです。

弟子も、教わると云う事は、指示されて手足を心無く、1・2・3と動かすのが教わると云うことではないでしょう。

尾張柳生の始終不捨書の「習い・稽古・工夫」を以って、習った事を稽古の上「これでよいか」と尋ね、答えを得るものです。満足な答えを得られなければ、次の稽古日に再び「これでよいか」と問うものです。冒頭の歌心を思い描くべきです。

師はどんな弟子でも、去っていった弟子でも忘れられないものです。

弟子を育てるのは師、師を育てるのは弟子のはずです。

会う人皆わが師

下村派伝書より、師の思いの伝わらない不詳の弟子の事を歌っている歌。

いや、師の事も歌っています。

「大事をは皆請とると思ふとも みかゝさるには得道は無」

時期が来たので昇段し上がれば「大事を皆請取った」と本人は思いあがっています。

「最初から何も請けとっていない」と思われる人も見られるような気がします。

業技法をすべてマスターしても、それは「大事を請けとった」とは云わないと思うのです。極意の歌にあるような奥義の心を受け取る事と信じています。

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2011年12月 1日 (木)

極意の秘歌(残歌1首目物をよく)

極意の秘歌は山形県村山市の林崎甚助重信公資料研究委員会の編著になる「林崎明神と林崎甚助重信」平成3年発行の初版本を元に、新庄藩に伝わった「林崎新夢想流」元禄14年1701年相馬忠左衛門政住から田口彦八郎へ伝授した「秘歌之大事」を読み解いてみました。

此の伝書の伝系は林崎甚助‐田宮平兵衛-長野無楽齊-一宮左太輔‐谷小左衛門‐駒杵平次衛門‐相馬忠左衛門‐田口彦八郎

明治44年1911年の伝書は、相馬忠左衛門‐松田梅翁‐松田諸意‐松田六左衛門‐桜井友右衛門-門屋又八郎-松坂善之進-松田隼人-松坂次郎左衛門-早坂理三

河野百錬宗家の「居合道真諦」に掲載されている伝書も寛政3年のものですが相馬忠左衛門-常井甚五右衛門・・・

相馬忠左衛門は何人かに複数伝授したようです。

土佐の無双直伝英信流居合道の正統宗家

林崎甚助-田宮平兵衛-長野無楽斎-百々軍兵衛‐蟻川正左衛門-萬野団右衛門-長谷川英信・・・・・・

歌は田宮平兵衛業政の頃に成立したかもしれません。長野無楽斎も一緒に3人で歩いた時期があったかもしれません。

林崎新夢想流の秘歌之大事は無双直伝英信流に伝わる歌、田宮流に伝わる歌ともにその原型に近い歌かもしれません。幾つかは夫々に見出せました。

現在の無双直伝英信流は土佐から明治以降全国に広がって行ったのですが、東北地方に営々と明治末まで伝承した林崎甚助重信の居合の原型もあったわけです。東と西に、あるいは田宮流に業名からは繋がらないものも、歌の心ではつながりを感じられました。

林崎新夢想流の秘歌之大事27首に無い歌で、田宮真剣は居合歌の秘伝と下村派伝書の居合兵法之和歌から幾つか引き続き詠んでみたいと思います。

田宮流歌伝口訣より

「物をよく習ひ納とおもふとも 心懸けずばみな廢るべし」

此の歌は下村派の伝書にもあります

「物を能習ひ納と思ふとも 心かけすば皆すたるべし」

田宮流の妻木正麟先生の解説書によりますと「例へば許を取り、習い納めたると思ひて心にも捨て、思い出す事なき時は一向に習はざるよりはおとる也。心は勝の理を知れ共、次第に心はうすくなりて、心計いたり結局ガイになるものなり」。

武道のような古い因習を残している芸事には、在籍年数の順位による序列と段位による序列が暗黙に流れています。是は日本の軍隊の指揮命令系統、そして年功序列とそれによる賃金体系の根幹をなしてきた風習で年功を否定するつもりは有りません。しかし是だけ変化の激しい時代では年功だけでは仕事が進まないのも事実でしょう。

古参の者が豊かな経験に裏打ちされた能力と、底にある暖かな人間味と、弛まぬ努力の人で有り、若手は古参に見習うべきものを見つけ、見守られている安心感の中で新しいものを吸収し活き活きと働ける事が本来でしょう。

古参の者が疎んじられる原因は古参のものにあるべき事が自覚されていない事、にも拘らず古参風だけ吹かせることです。

何処の道場でも数十年の古参で高段位の方も居られるでしょう。段位は何かの都合で審査を受けられなくなり、後輩に段位を越されながらも日々の稽古をされる求道の剣士も居られる筈です。

始末が悪いのは古いだけで稽古にもロクに顔を出さず、たまに来れば私服で、初心者相手に「ああだ、こうだ」と教え魔になる者です。もっと悪いのは稽古にも来ず、道場の行事でもあれば真っ先に自己主張をするような者です。それが80代ならいざ知らず50代や60代では呆れ返ってしまいます。

来る時は稽古着で来るのが当然の事、自らも稽古し、見取り稽古をさせるほどのことでありたいものです。

きっと此の歌のように、習い覚えた亡霊が頭に巣くい、抜けば心いたりて技にならず、と云えましょう。そんな人は鬱陶しいばかりです。

それも呑み込み悟りの境地に至りたい、とは少しも思えず苦笑しています。

納会シーズンですが、ダメ古参との不味い酒とは縁を切って、糟糠の妻と美味しい肴でおいしい新米を食べる事にしましょう。

「居合とは心に勝つが居合なり 人に逆うは非がたなりけり」(秘歌之大事)

「心こそ敵と思いてすり磨け 心の外に敵はあらじな」(百足伝)

「性を張る人と見るなら前方に 物争いをせぬが剣術」(百足伝)

我身の至らなさを揶揄する声が聞こえてきますが・・・・・天邪鬼でへそ曲りです。

三つ子の魂百までとはよく言ったものです。

銀さんの娘さんに

「怖いものは有りますか」

4人平均年齢93歳、口をそろえて

「何んも無い」

そんな境地には程遠いのですが・・・・・・・。

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2011年11月30日 (水)

極意の秘歌(27首目引もまよ)

新庄藩の林崎新夢想流 秘歌之大事 二十七首目(最終)

「引もまよかゝ留も満とハ知奈可ら ぬかぬ尓き留ハ非か多也希里」

*此の歌の読みを天童郷土研究会長伊藤文治郎先生

「引もまよいかかるもまどい知ながら ぬかぬにきるは非かた也けり」

と読まれています。注意書きに「註 引もまよい いの字ぬけにしやう」とされています。「満とハ」の所は伊藤先生は「満とい」、「ハをい」と見ました。「は」の片仮名は「ハ」で前後関係や書き手の癖により判断します。古文書解読の微妙な所です。

私は書かれた儘に読みを入れてみました。

引もまよかかるもまとは知ながら ぬかぬにきるは非がたなりけり」

「引も間よ掛かるも間とは知ながら 抜かぬに切るは非がたなりけり」

伊藤先生は元禄14年の伝書のみで判読されたのでしょう。ご苦労をお察しします。

寛政3年1791年の新庄藩 林崎新夢想流の伝書では

「引も間よかゝ流も間とハ知奈可ら 怒かぬ尓き類は非方也介利」

「引も間よかかるも間とは知ながら ぬかぬにきるはひがたなりけり」

* 以後の伝書も読みは同じと見えますから、私の読みが伝えられたとして良いのでしょう。

「引くのも間、掛かるのも間が大事とは知りながら 相手が抜かないのに切ると云う法は無いでしょう」と云う意味でしょう。

柳生宗矩の兵法家伝書にある活人剣のことを思い浮かべました。そして居合は間がもっとも大切な要素であり、敵の仕掛けが発せられる寸前で敵が後戻りできないポイントをとらえ対応すると云う鞘の内の極意を詠んだと思います。

是も奥義の歌として直訳のような歌心でしょうか。此の林崎新夢想流の伝書の最後を飾る秘歌の大事です。

間と間合いはどのような事に於いても正しいと信ずる事を貫こうとするには大切な事だろうと思います。しかし相手も同様に信じた事を貫いて行こうとしている筈です。とことん話し合い解決すべきであって力で打ち勝つ事は本意では有りません。私はそのように解釈してみたいのです。

武道好きの者はともすると威圧する事によって、自己顕示しようとする傾向が有るやも知れません。それは暴力に過ぎません。

あるいは、段位とか経験年数などの年功序列と云う借り物による威圧です。是も権力をバックにした空威張りでしょう。

どれも、振りかざすほどに哀れです。

林崎新夢想流の根元之巻秘歌之大事は免許皆伝の先にある根元を示唆していました。

今回を以って新庄藩の林崎新夢想流の秘歌之大事を終了します。

古文書の解読には書き手の文字の癖が読みを誤らせます、原本とはかけ離れた5mm角程度の文字で用紙は江戸時代の密画に用いられる最高級の鳥の子和紙との事、刷り込まれた絵柄も細字の邪魔をしますから厄介でした。白黒写真の印刷からの限界です。ぜひ現物を拝見したいものです。

読みは古文書解析の専門ではないにもかかわらず、知りたい一心で取り組んでみました。

読めても意味が解らない、極意の伝書なのに何を言っているのだろうと何度も声に出して読んでみました。

結局いつもの「思いつくままに」で納めてみました。「思いつくことも出来ないもの」はそれはそれで、有識者の教えを待つばかりです。「今在る自分の精一杯の事」と思っています。

折に触れて読み直しながら手を入れてこれぞ極意としたいものです。

極意を知りえても秘しておいて、この時代に何の意味があるのでしょう。己が消えれば消えてしまいます。

公開されたとしても、それにふさわしい力量の者意外は知りえても無用の長物です。事理一致の修養が無ければ極意を得たい思いだけで終わってしまうでしょう。

流派の業技法を秘すなど動作は初歩に過ぎないものを何のために隠すのでしょう。この時代に意味などは全く無いものと信じています。まして極意の文書は、持つべき者以外は、唯の骨董品、あるいはレプリカにすぎません。

同様に業技法についても、業の意義、剣理、理合とか云われるものは、正しく習い、稽古し、その意義を達成する技法は、より無駄の無いものとし、心の発する事を全うするため日々進化するのが当然の事と思っています。もしその心が無ければそれは所作鍛錬に培われたとしても武道とは異なる伝統芸能の伝承ではないでしょうか。

無外流の百足伝にこんな和歌が伝わっています。

「我が流を教へしまゝに直にせば 所作鍛錬の人に勝つべし」

参考に、此の「極意之秘歌」は、平成3年に発行された「林崎明神と林崎甚助重信」編著林崎甚助重信公資料研究委員会 財団法人居合振武会発行の初版本をテキストにしています。

発行までに13年の資料収集、続いて7年の出版準備あわせて20年の歳月をかけて発行された貴重な図書です。

現在は発行事業を山形県村山市が引き継ぎ、平成18年に復刻版が発行されています。

在庫僅かとのことでした。

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