曽田本スクラップ土佐の居合

2012年6月26日 (火)

長谷川主税助英信の身元考

無双直伝英信流第九代林六太夫守政先生の事は中西岩樹先生のご研究を曽田本スクラップで見てきました。
林六太夫先生の前は第八代荒井勢哲清信、其の前が第七代長谷川主税助英信となります。
此の長谷川主税助英信の身元は良くわかっていないようです。

下村派の第16代曽田虎彦先生の無双直伝英信流居合系譜(本ブログでは曽田本その2 2012年4月29日、岩田憲一先生の「土佐の英信流旦慕芥考」のP124)では曽田先生の添え書きで長谷川主税助英信について「土佐の人と云う。江戸屋敷にて居合術を修業したる由にてこの時より土佐に伝う。」としています。
この「土佐の人・・」の出所は不明です。

曽田本の2012年3月24日(居合兵法極意秘訣その4林崎甚助重信の項P94)によると
・ 1 長谷川主税助は後に蔵助と云う、尾州公え仕え千石領す、第一弓馬の上手也。諸国弓の伝、馬の伝、得たる人多し。

・ 1 荒井兵作は関東の人浪人也。後清哲(勢哲 曽田。

荒井勢哲先生についても判らないと言った方がよさそうです。メモ)と号す

昭和41年8月1日号の全日本居合道新聞に「長谷川主税助英信 身元考」を水鴎流宗家勝瀬光安先生が書かれています。
曽田本スクラップではありませんが、林六太夫守政先生の出自が土佐にあるとすればその先師を訪ねたくなるものです。

以下抜粋します。

長谷川主税助英信が、長谷川英信流居合の流祖である事は衆知の事であるが、その身元に関しての細詳はあまり知られていない。
筆者は最近元駿府勤番の士、布施権十郎正秀の後裔の家に伝わる寶蔵院槍術伝書を調査するうち、居合の長谷川主税助英信に該当するらしい人物を発見した。
布施家の寶蔵院流槍術伝書に「長谷川主税助英信は、太平記の越智越前守の末葉也。
讃劦(*讃岐か)に生まれ、後京大阪等を武者修行同様にして廻国なし、江戸芝において竹川無敵、天上天下唯我独尊と看板を出せる時、無敵と仕合をなして、神明前にて高名を現す。
老年の後実子なく甥官兵衛を養子として家を継がしむ」とあり。
槍術に付いては「先師長谷川主税助英信は元来大嶋流の達人也。成年南部に趣き寶蔵院鳳栄に随身し槍法の妙術を得たり。
後推して法蔵院流長谷川派と曰う。
当流にては宝と法と書替えたる事先師英信深き意味あり。
先師英信は紀州家に仕え後浪人となり江戸に居る。
正保年中(1644年~1648年)竹川無敵と真剣の仕合し之に勝ち名を天下に顕す」と誌し。

出生没年に付いては左の通り記載している。
「長谷川主税助英信は文禄七寅壬寅也(文禄は4年までしかありません)、(慶長3年)(1597年)竹川無敵と仕合は正保3年4月(1646年)と也。大阪御陣(慶長19年1614年冬の陣、慶長20年1616年夏の陣)は14歳の時也。
嶋原の陣は37歳の時(寛永14年1637年)也、享保4年巳12月(1719年)死す。歳百十八歳也」

*少々年が合いませんがそう書かれているそうです。

右の伝書の記事を要約すると、長谷川主税助英信は文禄7年(慶長3年)讃岐国に生まれ、武芸修業の為廻国し大嶋流の槍術を極め、更に奈良の宝蔵院鳳栄に付いて宝蔵院流槍術を修業し悟る処あって宝の字を法に改め法蔵院流長谷川派と称した。紀州家に仕えたが後辞して江戸に出で、正保3年4月竹川無敵と仕合して之に勝ち武名をあげた。老年に及んで甥官兵衛英政を養子として家業をつがせ、享保4年12月百十八歳(?)で没した。

但し年代の違う別の目録細註には、紀州の生れとあるが、これは紀州家に仕えたことと、生国とを混同したらしい。

その槍術伝系は左の通りで甲府を経て駿府に伝った。

元祖、宝蔵院鳳栄‐長谷川主税助英信‐長谷川官兵衛英政‐大河原庄兵衛政久-野田市左衛門成方(甲府勤番)-嶋田八郎左衛門利屋(甲府勤番)‐嶋田元次郎利頼(甲府勤番)‐榊原彦太郎政明‐大橋平左衛門豊成‐吉田新五郎種賢‐吉田三十郎種徳‐吉田芳之助種治ー布施権十郎正秀(駿府勤番)
布施権十郎は駿府勤番二百俵高、文久2年5月(1862年)江戸城に於いて剣術槍術を上覧に供士し反物二反を下賜され、又その父権三郎正忠は文化8年2月(1811年)江戸城に於いて一寸二分の強弓を以て弓術を上覧に供し日本一の称を得ている。

この伝書は槍術の伝書だから居合については何も書いていない。従ってこの長谷川主税助英信が、長谷川英信流の英信と同一人物であるとの立証は出来ないが、生国、時代、名前等から考えると同一人物ではないかと考えられる。

この流の槍術には田宮流長谷川派の居合が併せ伝えられている、布施権三郎正忠の武術書上には、田宮流長谷川派の居合を父市郎次正輝につき、寛政二年(1790年)より17年間修業したと誌されている。

或るはこれが今日の長谷川英信流を当時此の地方に於いては田宮流長谷川派と呼んでいたのかも知れない。これだけ資料から一方的な結論は危険だが、若干の信憑性はあるようにも思われる。

註 河野百錬~本稿は6月上旬、勝瀬範士から私に頂いたものであるが、その直後土佐の英信流宗家福井春政先生に、本稿を送付して、ご意見を承った所~英信流の地元土佐には全然長谷川英信公に関する資料は無いとの事であるが、福井先生はかって英信が尾張藩に仕えたとの事を仄聞した事がある。~との御返書を頂いた。駿府布施家に伝わる此の伝書の、英信が英信流第七代の英信公と同一人物かどうかは、勝瀬範士の言う如く、今後の研究にまたねばならぬが、之は洵に当流を学ぶものにとって貴重な掲載を願ったが之を契機に広く当流同人の御研究を切望する次第である。

*その後いかほどの進展があったのでしょう。

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2012年6月25日 (月)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生4

居合英信流の恩人 林六太夫先生4

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡(*読みは「せいく」でしょうか?、詡の意味は、ほこる・おこる・ふんわりとかぶるさま・あまねくゆきわたるなど)が嗣がれて後林氏が二人迄顕れている。
六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其二、三をご紹介して筆を擱くことにする。

先生は前述の如く幼にして家を嗣がれた、そして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為十五歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は、先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁うと言ったを甚だ尤至極と考え、江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習い始めた。
文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖もいろはより始めるは子一人なりと呆れたが其年より在府三年間精力を尽くし遂に能書となり藩中弟子の礼を執る者が多かったという。

又或る時八軒町に火災あり、火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず、家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛て小隅を取って投出し泉水一つ越して向うの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであろうかと皆の人は驚嘆したという。

又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此処には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であろう包丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水の中に下して灑ぐ(*そそぐ)こと実に妙、見る人の目を駭(*おどろかす)した。
先生は傍の船にて之を見舷側に寄掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず、彼の料理する人も己れの業を恥じてやめたという。
昔の御料理方は□も手が利いていたそうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたというが仲々出来る業ではない。
又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷
(*すべり)り落ち易いものである。
それを箸で挟みすいちゅうで数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであろう。

又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(*やめ)まなかったという一例に次の記録がある。

偖(*さて)又、在江戸で諸国の士、集会の時、奥人某、鉛子除去の法を知ると称し、一時数人鳥銃の口を揃えて対し事ありしに、我此の法を行いて放事不能終とて自負したるを満座妄言なりと思惟、大笑其人、怒気甚だしく公等余の言を信ぜず笑う事安からず今其術見るべしとて、火縄に火移し座中の人々に持たせ一々消して通りしに、人眼を遮らず一時火減し人々初めて驚き失笑の謝罪す。
六太夫深く感じ其の術学ばんと欲し、後日其の宅を訪うて懇ろに乞うて、しかと先に笑われしことを以て許容せさりしかは大いに悔いて仮令妄言なるも白笑う事勿れ益(
*ますます)事無き也とて此の事を證とし子孫を戒めたりと云う。

天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの資格十六を得ていられたのである。

此の項終ります。

これは出典明らかではありませんが、曽田本その2にスクラップされていたもので、岩田憲一先生も「土佐の英信流旦慕芥考」に写されています。

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2012年6月24日 (日)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生3

居合英信流の恩人林六太夫守政先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

此の五左衛門政良こそ仍(*かさねて・なお)林氏の初めである。
而して姓を林氏に改めた政良は万治3年
(1660年)山内二代の藩主忠義公の命に依り礼節を其宗家伊勢家に学び寛文十年(1670年)四代豊昌公の時宋邑八十石を給うて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝三年四月晦日(1675年)病死したので翌五月六太夫先生が跡をつぎ城南八軒町に居住した。(以下次号)

先生は天資英才にして器量非凡故実礼節を伊勢兵庫に学び到底し、剣道居合は荒井二代目の勢埋直伝にて意を極め、書は佐々木文山に就て之を能くする等和術庖術伎謡俗楽をはじめ凡そ人の師と為るに足る伎芸十六を得ていたというから大したものである。

而して先生は宝永三年十二月二十二日(1706年)御料理頭より大扈従役に進められ礼節方を兼ねられ、正徳三年八月(1713年)病の為め拝辞し、同月二十四日大扈従役を免ぜられ礼節指南は旧の儘、御馬廻りとなり山内第八代豊敷公の時享保十七年七月十七日(1732年)七〇歳で八軒町の邸に病没せられた、が其間第四代藩主豊昌公、第五代豊房公、第六代豊隆公と三代の藩主に仕え貞享三年六月(1686年)君主より故実の御下問あった。
詳細記述して之を奉り殊の外御褒辞と共に白銀若干を賜うた外、元禄二十年十二月十二日
(*元禄は17年2月までのはずです12年の間違いでしょうか。雑録では元禄10年です)禄二十万石を加増され、更に同十六年九月四日(1703年)故実礼節究極の功労旁々又も五十石を加増されて旧禄に合し百五十石となりたる等名誉を重ね御羽織其他下賜品を受けた事も多い。
斯くの如く三代の君主に仕えて寵衰えず然も太平の代数度の加増を以て厚遇されたということは容易の事ではない、之を以て観ても先生が常人でなかった事が窺われるのである。

先生の居合は其表芸ではなかった従って特別に子弟を養うような事はせられなかったがそれでも藩中弟子の礼を執る者が有って当時水野流、田宮流等の居合が有ったにも拘らず断然此の英信流が重用されるに至り数代後の徳川氏末期には土州武士にして居合を知らざるものは真の土州武士に非ずとせられた程八釜間敷いものになり彼の有名なる山内容堂公は谷村亀之丞先生に就て一入熱心に錬磨され藩主文武館に居合科を設けて藩の子弟に之を伝習せしめられたのである。

以下次号

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2012年6月23日 (土)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生2

居合英信流の恩人 林六太夫先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基をつくられた恩人故大江子敬(正治)(*ここでは大江正治という名が使われています、無双直伝英信流居合術全で河野先生が使われたと同じです)、細川善馬(義昌)両先生の事及び少し辿って其の絶滅の危機より救われた恩人板垣退助伯の事跡を衷心より有難く思い感謝の念に堪えないのである。

此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた
(*英信流居合と板垣伯 中西岩樹 2012年6月7日、8日に此のブログで書き込み済み)事が有るように記憶するので今回は更に其の昔に辿り最初に此の居合を土佐に伝えた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみようと思う。

先ず林六太夫守政先生の直系を掲げてみると次の通りである。
(*この林六太夫守政先生の事については「雑録 長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて」で平尾道雄氏のレポートを2012年6月15日~6月21日に記載して有ります。ダブル所も在るものです。何れのものも何時何処に記事としてレポートされ曽田先生がそれをスクラップとしたかが不明なものです)
池田豊後、助五郎政弘、助五郎政勝、権吉郎政久、市兵衛政友、五左衛門政良、六太夫守政
即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
池田豊後は大和の人で一條家に仕うる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469年~1486年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随い幣多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。

政弘は宗閑と号し爾来一條家に仕えている中、槿花一朝一條家が久からずして滅亡し、豪族長曽我部氏興るに及び其子助五郎政勝之に仕え兵部と称し後従軍して戦死し当時七歳であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕え権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜うて処士となり南隣大津に居住していた。

そして長曽我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間(1652から1654年)死没した後、子五左衛門が山内氏に召出され御料理方となるに至った。

以下次号

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2012年6月22日 (金)

居合英信流の恩人林六太夫守政先生1

居合英信流の恩人 林六太夫守政先生

居合術教士 剣道錬士 中西岩樹

* これも出典は不明です。岩田憲一先生の平成元年7月発行の「土佐の英信流 旦慕芥考」P131に同様の題で掲載されています。岩田先生の「序」は以下の通りです。

この項のものは、総て土佐下村派第十六代曽田虎彦先生の遺書のなかに記されていたものであります。即ち、土佐英信流第十七代大江正路先生並びに下村派第十五代行宗貞義先生を師として修練された方々が発表されたものや、その他の名士が指針として書き残されたものであります。昭和初期から終戦までのもので、なかには戦中の香りや国を憶う心の披瀝もある点をご了承ください。

曽田本その2の手製和綴じの中に、曽田先生は丁寧に切り抜かれたスクラップを綴りの大きさに合わせ切りとって収められています。岩田先生もそのコピーをご覧になられ感動を覚えた事と思います。

手書きの書写、自筆文章、スクラップが厚紙の表紙に「大森流長谷川流居合術」故行宗貞義先生、門人旧姓土居事、無双直伝英信流下村派第十六代筆山曽田虎彦記」とされ表紙の裏には書簡を入れるポケットを作り書簡が入っています。行宗先生のお写真もその中に保管されています。裏表紙には35mmの小さな写真が4枚、恐らく曽田先生でしょう浮雲・詰合之位の出会・太刀打之位の出合・請込と思われる形が張られています。すでにセピア色に褪せて居ます。

曽田先生のご長男が戦後これは自分で持っていても意味がないので居合する職場の同僚に譲り、その方が多分岩田先生にコピーを送られたのでしょう。何時如何なる状況かは、岩田先生はお亡くなりになり、コピーされた方はご存命ながら記憶が薄れ定かではないとお聞きしています。

大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無双直伝英信流の事である。
私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。

而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘らず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸いに其の絶滅を免れ現代迄伝統して来たことに就いては

1、伝えられた土地柄が建衣別の古称にある尚武の国で人間が総体男性てきであり武張っていること。

2、伝えられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整えた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。

*ここの部分も、河野先生の「居合は剣道の一分派」の発言に対する曽田先生の「分派にあらず」の一端を解説しているものと思われます。

3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公亦文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜場現刑務所々在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用いられたこと

の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったかといえば、


1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。

2、交通不便なるに加え当時の事情が鎖国的であったこと。

3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又希に有っても未だ他国者には一切伝授せぬという気風が残っていて機運が熟していなかったこと。

等に基因しておるのである。

以下次回に続きます。

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2012年6月21日 (木)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて5

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて5

‐特に此一篇を屡々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県楯岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐ-

平尾道雄

*この項の最終です。曽田先生のスクラップは原本は何か、スクラップした時期はなどの記載がありません。これも其の一つです。平尾道雄氏についての事もわかりません。山形楯岡町の伊藤芳夫氏についても、平尾氏との交流についても判りません。
岩田憲一先生にもこのコピーはある方から渡っていたはずですが先生は「土佐の英信流 旦慕芥考」に取り上げられていません。史実として捉えるには不十分でしょうが伝系の様子は伺えます。

9.明治になって有名なのは細川義昌氏であろう、鶏卵や米粒の如きものを見事に両断した程、人神の技だったそうである。
大正十二年二月二十三日((1923年)七十五歳で物故したから、其技を実見した人々も少くあるまい。
維新の勤皇家松島隆氏も長谷川流の達人であった。
畳一枚の席上で、蝋燭に点火し、柄頭三寸の距離で気合と共に之を薙ぐ。
即ち灯心を半ば切払って、火は依然として燃えて居たと云う。宮内省に出仕して居たので、明治大帝の御召により、御前に於て此神技を試みたが、後ち帝国大学から学生のために演技を望まれた時は、「余の武道は見世物ではない」と言って跳ねつけた。
是は私が直接遺族の方から承はった話しである。
松島氏は明治三十三年(1900年)五十九歳で他界した。

大江正路氏も有名だったが、先年長逝し(昭和2年1927年先年長逝し、と言っているので此の文章は昭和2年から昭和10年頃のものでしょうか)、現今ではその門下生穂岐山波雄・中西岩樹・竹村静夫の諸氏が居合術教士として活躍して居る。
流技は就れも長谷川流とその分派大森流。

伊藤芳夫氏の報に拠れば、抜刀の始祖林崎甚助重信の後七代長谷川流英信に至り、所謂長谷川流起こり、八代荒井勢哲、九代林六太夫、十代林安太夫、十一代大黒某(是より谷村派出づ谷村亀之丞か)、十二代坪内某、十三代島村某、十四代松吉某、十五代山川某(久蔵か)、十六代下村某(茂市か)、17代細川義昌を経て十八代が現警視庁師範中山博道氏とある。

以上を以て観ても長谷川流居合と土佐との関係は浅くないが、更に調査を進むる事を得れば一層その密接なるを確める事が出来よう。
以上は寧ろその一端を明らかにしたのに過ぎないのである。

註1、系統に関しては、伊藤氏の御教示を主に武術流祖録、本朝武芸小伝、日本中興武術系譜略を参観した。

註2、個人の伝は土佐国人物志、土佐偉人伝、御侍中先祖書系図牒、手抄を主に、高知武徳会井上衛氏の報告、及び私の見聞を加えた。本文中要所にはその出自を挙げたので、煩を避けて尽く之を示さない。

*伊藤氏の報告は土佐の系譜を示したもので、奥州山形の事は少しも触れていません。どのような方だったのでしょうね。雑録でいいのでしょう。

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2012年6月20日 (水)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて4

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について4

平尾道夫

7.林氏の門に出でて、最も其名を謳われた者に山川久蔵がある。名は幸雄、もと錠八とも称した。
山川久右衛門幸鑑の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。
林氏との関係に就き、「手抄」二十四巻に左の如き噂を載せてある。

山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の伝授皆伝なるべし致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取に参り申さず、相分らざる事也。
夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。

其後久蔵は門弟を取立師家に成り。長谷川流の伝書は何方より授かりしにや、林氏の伝書とは違いたるよし、或人より承わる。

これは非常に興味ある問題だが、遺憾ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚られる。
山川久蔵は文政三年正月九日
(1820年)藩から居合術指南役を命ぜられ、其の心掛け厚きを以て、切符拾石を加増された。弘化三年二月九日(1845年)には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年十月八日(1848年)病死した。同苗小文次の子鋼八幸水が跡を相続したが、家芸は継いで居ない。

8.山川氏の如く居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。
前者は小児科医下村宗真の子で嘉永五年正月十二日
(1852年)、居合術身体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久三年四月十五日(1863年)居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第六節にのべたから、此所には反復しない。

右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。
山内家第十五代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。
板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実を語ったものに、左の一齣(ひとこま)がある。

(上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附属した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合というものが十二本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。七日七夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録二百二十三輯(しゅう))

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2012年6月19日 (火)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて3

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて3

平尾道雄

5.居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸でなかったから、別に師匠役などの任命はなかった。
併し個人として之を門弟に授けた為に、此以後長谷川流居合は小栗流無害流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。
六太夫の子安太夫政詡を経て、六之亟(*丞か)政長、其弟益亟政誠(
*益之亟政誠か)、彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝えている。
益之亟政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であろう。
六太夫の二男脩之亟正晴は、甚三郎と改め小栗流師家足達茂兵衛正藹の後を継いだ。
益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政十三年正月廿二日
(1830年)其技を以て特に召出され、三人扶持御馬廻末子に列し、屢々(*しばしば)藩主豊資公の感賞に与ったが、後池田和太夫と改名、天保二年七月十八日(1831年)に病死して、後は断絶した。

楠目成徳の「手抄」二十四巻には「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀術を伝え、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書二十五巻には「文政の頃林八郎次(彌太夫の弟歟())と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次々々々と諸人と賞誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云えり」と見て居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

6.林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝寿と云う者が妙手であった。
槍術家の新国彦九郎に一寸計の杭を二本の指に挟ませて置いて之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云う。
御小姓格渋谷彌五兵衛勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和九年五月十日
(1772年)を以て病死した。
林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。

林彌太夫(政敬)先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。
皆大男にて、左平太が業前は業小なれども豪気なる居合也。
彦八は業大きく行込み、強く練熟したり。
亀之丞先生も彦八氏と同じくて上手也。彦八氏、亀之丞氏とは業前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立んことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄二十五)

亀之丞は谷村久之丞自熈(*じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保八年(1836年)稽古扶持として三人扶持を賜った。
同十五年
(1844年)には同流の芸家として取立てられ、文久二年(1862年)にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

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2012年6月18日 (月)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて2

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて2

平尾道雄

3.同流に関して土佐に伝えられる文献は、私の知る限りに於て、林安太夫の話しとして南路志七十一巻に収められた次の一節である。

無双流の居合は、林崎甚助重信より始まる。
林崎は北條五代目に仕え、此流を以て後太閤秀吉御学被る成り、無双流と云う名を始めて御附け被せ成しと也。
其後塙團右衛門に伝わり、團右衛門より長谷川内蔵助に伝え、内蔵助より荒井勢哲に伝え、夫より子の勢哲に伝え、夫より近年の平作に伝え、兵作は大男つみこぼしにて褊綴(へんてつ)を着けると也。(
*下線部分、平作は大男で無邪気に医者などの切る羽織を着る・・意味不明です
権現様以来、江戸住居の浪人也。林氏の居合剣術は二代目の勢哲より直伝也。
右の林崎は居合の元祖也。其以後段々に流技出来る也。林崎は上泉伊勢守弟子也。上泉は鬼一法眼の創術鍛錬の由云々。

真偽は別として、先ず上述の如くである。
その長谷川流と称するのは、伊藤芳夫氏の説に「林崎甚助重信七代目長谷川主税助英信は、始祖以来の名人なるが故、目録には無双神伝英信流と称し、普通には長谷川英信流と唱う」とあるを更に英信を略して長谷川流と称するのであろう。
神伝重信流に神影流の古流五本の仕形を加えて大森六郎左衛門が発明した大森流と、此の長谷川流とは現今土佐に於て尚行われて居ると云う。

4.長谷川流居合を土佐に伝えたのは上述の如く林六太夫守政である。
林氏の先祖は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕え、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。其子兵部政勝戦死した為、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曽我部氏に仕え、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
其子市兵衛政良初めて林氏を称し、山内家に仕えた。
延宝三年四月晦日
(1675年)政良病死後、同年五月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行八十石、格式新御扈従、御料人頭と云う父の職禄も其儘承けたものである。

豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗う手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せじめたと云う逸話も残って居る。
よろず才能に秀でて、本職の包丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲樂皷の末技に至るまで諸芸十六般を極め、孰れも人師となるに足りたと云う。
就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其の奥を極め、縷々典礼に関する書付を上って、其都度感賞に与り、元禄十年
(1697年)には加増二十石、同十六年(1703年)には更に五十石を加えられて、都合百五十石を賜り、宝永三年には大御御扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
正徳二年
(1706年)には老齢によって大御御扈従を免ぜられて馬廻りになり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保十七年七月十七日(1732年)、七十歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷五代の藩主に歴仕し、君寵の衰えなかったのを見ても、如何に其人格の円熟していたかを察すべきであろう。

* この逸話は何処かで読んだ事のあるものです。

次回に続きます

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2012年6月17日 (日)

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて1

雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて1

特に此の一篇を屡々垂教を重ねられた同流発祥の地山形県楯岡町の伊藤芳夫氏に捧ぐ

平尾道夫

*この雑録は何処から曽田先生がスクラップされたのか不明です。土佐の居合について面白いものです。数回に分けて書き込みます。昭和11年以前のものであることは間違いないでしょう。
何方か楯岡の伊藤芳夫先生や平尾道夫先生をご存知の方はコメントをいただきたく思います。

1、居合、即ち抜刀術は土佐に於ても剣道の発達に伴い、かなり古くから行われたようである。
土佐に於ける武芸の祖と称せられる朝比奈中左衛門可長は、山内家第三代忠豊公に禄仕し、小栗流を伝えた人であるが、亦居合の名手として伝えられる。
或る時、同輩数名と共に称名寺住僧に招待せられた席上、人々から爾来嗜みの居合を是非一手拝見したいと云う懇望があった。
忠左衛門は之を快諾したが、暫くして人々にうち向い、只今抜刀致せしが、御覧もなかりしやと云うのである。
人々が呆然として顔見合わせて居るのを見て、忠左衛門は笑いながら、只今給仕に出たる小姓の髪の元結を切り申したりと云うので、試しにその小姓を呼んで調べて見ると、果たして言の如く見事に切断せられて居たと云う。
忠左衛門の居合は、小栗流の一分科として其の後土佐藩士人の間に伝えられたが、本格的に、居合術として独立し、且、土佐に於いて大いに基本色を発揮したものは山内家第四代豊昌公の世、林六太夫守政によって伝えられた長谷川流居合そのものである。

2、抜刀中興の祖と呼ばれる林崎甚助重信は、奥州楯岡の人である。
永禄年間、甚助は同地の林崎明神(社伝に拠るに大同年間神霊大明神山より飛来し、同所に鎮座、居合明神とも俗称する由)に父讐(*あだ)一雲斎を討つ心願を以て参籠し、夢想によって長柄の刀を発明し、居合術を心得する所があった。
後、山城国伏見に於いて一雲斎を討って本望を果たし、更に将軍足利義輝の上覧試合に新田一郎に勝ち、武名を揚げた。
これによって林崎甚助重信は、抜刀中興の祖と称せられるけれども、其の以前に於いて抜刀術の系体はなかったから、事実上その鼻祖とも称せらるべきもので、これを神伝重信流とも、林崎夢想流とも、或は単に居合流とも呼ぶそうである。

上杉家の猛将甘糟近江守は甚助の門弟で、林崎氏は其の後同家に随身して、維新に及んだと云われ、また甚助の高弟田宮平兵衛重正(一説成政)は、別に田宮流を起こし、其の子対馬守長勝は、初め池田輝政に、後徳川頼宣に仕えて、之を紀州に伝えた。
水戸に於いては和田平助、新田宮流を開き、長野無楽斎槿露は、初め小田原北条家に、後彦根井伊家に仕え、一宮左太夫照信は、甲州武田家に仕えて抜刀一ノ宮流を始めて居る。
仙台には幕末に重信十七世嫡伝と称する堀津之助友徳、及び大規定之助安広あり、新庄戸沢家に平賀清兵衛あり、江戸に於いては田宮流より出た斎木三右衛門(清勝)、依田市左衛門等が声名を博したと云う。
其の他野州宇都宮にも其の流があり、神伝重信流は数派に分かたれてかくの如く全国に普及して居る。

*この辺は江戸時代の諸本の受け売りのようですが、まあこんなものでしょう

以下次号

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