曽田本免許皆伝目録15-11

2015年12月31日 (木)

曽田本免許皆伝目録52細川義昌先生の目録

曽田本免許皆伝目録


52.細川義昌先生の目録

*細川義昌先生は、旧姓嶋村善馬17歳の時、下村派下村茂市より慶応2年1866年12月吉日に根元之巻と「林崎重信直伝流居合兵法」の目録をうけています。
 政岡先生の「細川義昌先生の傳書」として「地之巻」に掲載されている細川先生が大正11年1922年3月吉日に発行された伝書では、目録の始めに「無双神傳英信流兵法目録」とされています。
 嶋村善馬が受けた目録の流名は「林崎重信直伝流居合兵法」とあります。
 此の事は巻物を写真に撮られて、木村栄寿先生は「林崎抜刀術兵法夢想神傳重信流傳書集及び業手付解説」P33に載せられています。
 余談ですが、その根元之巻には「此始尋奥州林崎神助重信・・」と「神助」が使われていますが、目録の「林崎重信流居合兵法」ではその奥書に「右林崎甚助重信流居合兵法貴殿・・」と「神助」を「甚助」と書かれています。
 不思議な不一致ですが、土佐はおおらかだったとしておきましょう。
 此処では政岡先生により発表されている、大正11年1922年の細川先生の目録を勉強します。
 この目録も政岡先生の地之巻のものと、下村茂市に依る目録とは同じと思いますが対比もして置きます。(括弧)内は、嶋村善馬の伝書に依ります。
・・
無双神傳英信流兵法目録
(括弧内は林崎重信直伝流居合兵法の目録名)
(事 形)
1、向身 横雲・虎一足・稲妻
1、右身 浮雲・山下し(山下)
1、左身 岩波(岩浪)・鱗返
1、後身 浪返(波返)・滝落(瀧落)
     四方切  向右左後
太刀打三位(立相之位)
1、出合 1、附込 1、請流 1、請込(請入) 1、月影 
(1、絶妙剣 地之巻欠落) 1、水月刀 1、独妙剣 1、心明剣
詰合之位
1、八相 1、拳取 1、岩波(岩浪) 1、八重垣 1、鱗返(鱗形)
1、位弛 1、燕返 1、眼関落 1、水月刀(水月) 1、霞剣
大小詰(大小詰之位)
1、抱詰 1、骨防(骨防□) 1、柄留 1、小手留 1、胸捕 
1、右伏 (1、左伏 地之巻欠落) 1、山形詰 
(1、〆捕) (1、袖摺返) (1、鍔打返) (1、骨防返)
(1、蜻蛉返) (1、乱曲) (電光石火)
*嶋村善馬の伝書は大小詰・大小立詰を合せ大小詰之位としています。
 細川先生が古伝に基づき、下村茂市の伝書を改めたのか、政岡先生が改めたのか判りません。
大小立詰
1、〆捕 1、袖摺返 1、鍔打返 1、骨防返
1、蜻蛉返 1、乱曲
*政岡先生の地之巻では、左伏、電光石火が欠落しています。
外之物之大事
1、行連 1、連達 1、追懸切(遂懸切) 1、惣捲 
1、雷電 1、霞
上意之大事
1、虎走 1、両詰 1、三角 1、四角 1、門入
1、戸詰 1、戸脇 1、壁添 1、棚下 1、鐺返
1、行違 1、手之内(手内) 1、輪之内(輪内) 1、十文字
(1、手離剣)
極意之大事
1、暇乞 1、獅子洞入 1、地極捜(地獄捜) 1、野中幕 1、逢意時雨
1、火対雨(火村風) 1、鉄石 1、遠方近所 1、外之剣(外剣) 1、釣瓶返
1、智羅離風車
居合心持肝要之事(抜刀兵術真心肝要之大事)
1、捕手和居合心持之大事 1、立合心之大事(立相心之大事) 
1、太刀組附位之事(太刀組附位事) 1、太刀目附之事(太刀目付之事)
(1、軍場之剣) 1、野中之幕之大事 1、夜之太刀之大事(夜之太刀)
(1、閨之大事) 1、潜り之大事(潜之大事) (1、帯車之事)
1、戸脇之事 1、獅子之洞出之事 1、獅子之洞入之事
(雷電霞是極刀萬法一心 口伝)
右九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也
(此九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相傳者也)
貴殿無双直伝英信流居合就多年御執心太刀次悉令相伝候向後御□専要候若御所望之仁於有之者兼而其人之取罰又指南尤可仍免許之状如件
(右林崎甚助重信流居合兵法貴殿就多年御執心抜刀一術悉令相傳□向後御嗜専用候依而目録免状如件)
・・
*奥書読み下し
(雷電霞是極の刀、萬法一心)
右九ヶ条は之を深く秘す極意也、真実の人に非ざれば努々相伝有るべからざるもの也
(此の九ヶ条は之を深く秘す極意也、真実の人に非ざれば努々相伝有るべからざるもの也)
貴殿は無双直伝英信流居合に就き多年御執心ありて太刀次悉く相伝せしめ候、向後(□)嗜み専要に候、若し、御所望の仁之れ有るに於いては、兼ねてその人の罰文(又 文誤植か)を取り、指南尤もにして之を免許する事くだんのごとし
(右林崎甚助重信流居合兵法を、貴殿多年に就き御執心、抜刀一術悉く相伝せしむ、□向後御嗜み専用に候、依って目録免状くだんの如し)
・・
*この目録を読んで見ますと、政岡先生の書き写された細川義昌先生の原本の行方が気になります。下村茂市より伝授されたものとはどこか違うのです。
 谷村派の大江先生程変えてしまう事は無かったのですが、土佐の居合は、先師の教えをいじって動いているのでしょう。
 伝書集を略2カ月に渡って、掲載して来ました。大江先生は複数に根元之巻を授与されました、細川先生は植田平太郎先生・中山博道先生の名が上がっていますがそれ以外は聞こえてきません。
 中山博道先生は、谷村派の16代五藤正亮先生の弟子森本兎久身先生に土佐の居合を習い免許皆伝と言われます。細川義昌先生からも免許皆伝を貰ったの、間に合わなかったのと云われて、長期にわたって指導を受けたであろう森本兎久身先生が霞んで見えます。
 細川先生の方が社会的地位が高いとか、居合で名が高いなどの単なる権威主義の為せることかも知れません。
 中山博道先生や植田平太郎先生等はその業績からみれば、土佐の居合の免許皆伝などに拘ることもないでしょう。
 大江先生の根元之巻の複数発行(七人とか)が宗家問題の混乱のきっかけであったかもしれません。
 大日本武徳会の段位、戦後の全居連・全剣連・其の他の連盟・個別道場の段位が絡み合って本来の根元之巻及び業目録の価値がぐちゃぐちゃになっているようです。
 連盟の段位は有るが、流派の印可は何もないお化けを生み出しているのも不思議な現象です。
 飛躍しますが流派が連盟に媚びていてはいずれ消えていくでしょう。
 根元之巻は柄口六寸の奥義と居合心を伝えています。根元之巻を持ちながら柄口六寸を指導出来ない。
 業技法の動作や形に拘ってばかりで居合心など聞いたことすらないのでは困ったものです。
 業目録では大江先生の業目録を勝手に変更したり、附け足したり、挙句は他流の業を書き込んでいるものもあります。これなど伝系を蔑ろにするもので、本来別伝として明記すべきでしょう。
 価値の無い形だけの免許皆伝と貢献度による段位では、自己満足に過ぎずに大金のやり取りが横行し、根元之巻を授与されたものが連盟の範士の下であるとするならば流派は不要でしょう。
 
 思いつくままに・・・。
 
 
 

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2015年12月30日 (水)

曽田本免許皆伝目録51細川義昌先生の根元之巻読み下し意訳

曽田本免許皆伝目録


51.細川義昌先生の根元之巻


読み下し及び意訳
*細川義昌先生の根元之巻は政岡先生が大江先生と同じと云う事で省略されていますが下村派の下村茂市先生から嶋村善馬(後の細川義昌)へ授与されたものとは少々異なり寧ろ大江先生が大正10年1921年に鈴江吉重先生に授与されたものの方が近いので、之を読んでみます。
居合根元之巻 大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写 (曽田本2より)
抑此居合ト申者日本奥州林之従大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土堺不審之儀不可有之唯依㚑(霊)夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎(毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々
古語曰 其進疾 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違
又古語曰 夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然。
読み下し
「そも此の居合と申すは、日本奥州林の従、大明神の夢想に之を伝えしめ奉る。夫れ兵術は上古中古数多の違い他流に有ると雖も、大人小人、無力、剛力嫌わずに兵の用に合う云々。末代相応為る太刀に云う。手近の勝ち、一命之れの有無此の居合に極まる。
 恐らくは、粟散邊土の堺、不審の儀これ有るべからず、唯霊夢に依る処也。此の始めを尋ぬれば、奥州林崎神助重信と云う者、兵術を望み之有るに因り、林の明神に一百有日参籠せしめ、其の満暁に夢中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中憶持たる怨敵に勝を得る云々。
 則、霊夢の如く、腰刀三尺三寸を以て大利を得て、九寸五分に勝事、柄口六寸の勝ちの妙不思議の極意、一国一人の相伝也。 腰刀三尺三寸、三毒、則、三部にただ脇指九寸五分九曜五鈷の内証也。
 敵味方に成る事これ亦前生の業感也。生死一体戦場浄土也。此の如く観る、則、現世は大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世に仏と成るは縁なる事、豈疑い有らん哉。此の居合、千金を積むと雖も、不真実の人には堅くこれを授べからず。天罰を恐れ唯一人に之を伝え授くべし云々。
古語に曰く
 其の疾く進むは、其の速退く云々。此の意、貴賤尊卑を以て前後の輩を謂われずして隔て無く、其の所達せし者には目録印可等相違無く許せ。
亦古語に曰く
 夫れ百錬の構え在りて、則、茅や茨の荘鄙と兵の利を心懸けるは、夜、自ずから之を思い、神明佛陀に祈る者は、則、忽ち利方を得、是に依り心を済まし身には燦然たり。」
根元之巻意訳
「抑、この居合と申すものは、日本の東北地方の林の大明神により、夢の中に現れて伝えて来たものである。兵術というものは、上古中古より沢山の他流があってその違いは有るであろうが、大きな人、小さな人にも、無力や剛力の人にも嫌う事の無い兵術である。
 いずれ将来、相応に役立つ太刀で、手近の戦いに勝ち、一命の有る無しはこの居合に依って極まるものである。
 この居合は恐らく、天竺から見て日本の様に粟粒ほどの辺境の地の様に、どんな辺鄙な処であろうとも、この居合の役立つ事を不審に思うべきものでは無い。唯、霊夢に依るものである。
 この居合の始めを尋ねるならば、奥州の林崎神助重信と云う者が、兵法を望んで、林の明神に百日余りの参籠をし、満願の日の暁時、夢の中に老翁が現れ重信に告げて言うには、「汝、この太刀を以て、胸の中に持ち続けている怨みの有る敵に勝つ事を得られるであろう」と告げられた。
 則、霊夢の様に、腰刀三尺三寸を以て、敵の脇指九寸五分に勝つ大利である。柄口六寸に勝つ甚だ巧みな不思議な極意である。一国一人に相伝するものである。
 腰刀三尺三寸は三毒である貪瞋痴、むさぼり求める心・怒りの心・真理に対する無知を、三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地である煩悩を打ち破り、仏の慈悲の心で包み込み、それらを成就して、己の運命を切り開く様に、心の内の心理を悟り脇差九寸五分を打ち破る五鈷である証拠である。
 敵味方と成る事は前生の行為に依る報いを受ける事である。生死は一体のもので戦場も浄土である。この様に観れば、現世は大聖摩利支尊天の加護に守られ、来世に仏と成るのは縁に依る事である。
 この居合は千金を積むと言われても、真実で無い人にはけっして之を授けるべきでは無い。天罰を恐れるべきもので、唯一人に伝えるものである。
 古語に云うには、その疾く進むものは、それを速く退いてしまうものである。 この意味するものは、貴賤、尊卑、前後の輩と謂わず、隔て無くその心得る所を為す者には目録印可などを相違なく許せ。
 又古語に云うには、それは、百錬の茅や茨で拭いた別荘や鄙を構えで有っても、兵の利を心懸け夜之を思い、神や仏に祈るものは忽ち利方を得て、心は正しく整理され身は燦然と輝くものである。」
*この意訳は、谷村派谷村亀之丞自雄が土佐の14代藩主山内豊惇公へ弘化2年1845年に献取された根元の巻きから転写しました。(2015年12月13日)
 嶋村善馬(後の細川義昌)が下村派下村茂市より嘉永2年1849年に授与されたものと同様と思われます。
 少しもおかしなところは見られず、根元之巻そのものが、伝えようとするものは、谷村派も下村派も別段これと言って無いと判断できます。
 

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2015年12月29日 (火)

曽田本免許皆伝目録その50細川義昌先生の伝書根元之巻


曽田本免許皆伝目録
50.細川義昌先生の伝書
 細川義昌先生は大正11年に香川に旅行し植田平太郎先生に居合根元之巻及び目録を伝授されています。
 植田平太郎先生は明治10年1877年香川県高松の生まれ、天真正伝神道流剣術を習い、細川義昌先生には大正8年1919年(42歳)師事し大正11年1922年(45歳)に免許皆伝を授与されています。30歳の時27人勝ち抜きで名を轟かせ、三度の天覧試合、など戦歴は多数です。
 政岡先生の「無双直伝英信流居合兵法 地之巻」に細川義昌先生の傳書として掲載されています。
 年月日は大正11年1922年3月吉日で授与された人の名が無い写本と言う事で、恐らく中山博道先生だろうと思われるとされています。
 植田平太郎先生には授与されておられると思いますが、中山博道先生は授与されずに翌年大正12年1923年に細川義昌先生は74歳で亡くなられております。どちらも根元之巻の公開されたのを拝見した事は有りません。
 政岡先生の「地之巻」に有るまま取り上げさせていただきます。
 谷村派の第17代大江正路先生の伝書との違いを勉強して見ます。
*地之巻では細川義昌先生の根元之巻は大江正路先生と同じと云うことなので省略されています。従って「地之巻」に掲載されている根元之巻は政岡先生が授与されたものになります。
 
 恐らく、細川先生の伝書は、木村栄寿先生の「林崎抜刀術兵法 夢想神傳重信流伝書集及び業手附解説」のP31以下の下村茂市から嶋村善馬に慶応2年1866年に授与された根元之巻と同じ内容のものかも知れません。
 
 嶋村善馬は明治3年1870年に嶋村姓から細川と改め細川義昌となります。
 
 細川義昌先生は嘉永2年1849年生まれ、安永3年1856年に下村茂市に入門(7歳)、慶応2年1866年免許皆伝は17歳でした。
政岡壱實先生の「無双直伝英信流居合兵法 地之巻 伝書の発表」昭和49年1974年発行より。
細川義昌先生の傳書
一巻根元之巻は大江先生と同様 
*細川義昌先生の伝書は大江先生と同様の根元之巻であると政岡先生は地之巻に書かれています。
大江先生から政岡先生が授与された根元之巻(地之巻より)
抑此居合術ト申者日本奥州林従大明神夢相二テ奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀云々 手近勝一命有無之極此居合恐粟散辺土堺於不審之儀不可有之唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者兵術因有望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸則三部尓但脇差九寸五分九曜五之内証也 敵味方事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩其所者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
*これでは、細川先生の授与された伝書と内容は同じ様なものですが部分的に聊か異なります。寧ろ大江先生が鈴江吉重先生への根元之巻の方が同じ様です。
 太字の部分が異なる処です。内容的にはさして問題は無いと思います。
居合根元之巻
大江正路先生より鈴江吉重先生に伝授したる伝書の写

抑此居合ト申者日本奥州林之従大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違佗流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土堺不審之儀不可有之唯依㚑(霊)夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸三毎(毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五鈷之内証也 敵味方成事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人伝之云々

古語曰
其進疾 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違

又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利心懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然。


*根元之巻には道統が記載されていますが、「地之巻」はこれも大江先生と同じとして割愛されています。細川先生は下村派と云われますから大江先生とは大黒元右衛門清勝から以降の道統は異なります。

曽田先生の系譜から道統を作成します。

天真正

林明神

林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門尉光重
万野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安太夫政詡
大黒元右衛門清勝
松吉貞助久盛
山川久蔵幸雅
下村茂市

*曽田先生の作成された系譜と木村栄寿本との道統の姓名及び順番の違いは有りません。
 但し、万野團右衛門信定が信貞と一字異なります。

*根元之巻の奥書についても「地之巻」には記載されていません。政岡先生が授与された伝書には以下の様になりますが、此処は木村栄寿本と異なります。原文はそちらをご参照ください。読み下し文を載せておきます。

「貴殿は多年深くお望みに付き、相伝せしめ候、猶向後、御修行に依り、其の切り(目録手附か)極意印可等を授くべきもの也、厚きお心懸け肝要の事に候、よって奥書くだんの如し」


*政岡先生の地之巻による奥書

「貴殿夛年斯道二熱心錬磨之結果其温奥二達セラルルヲ認爰我英信流居合術相傳候宜将来本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之ガ擴張計漫ニ他流二媚ズ以傳授ノ責全フセラル事ヲ期セラル可シ」(地之巻より)

「貴殿は多年斯道に熱心錬磨の結果、その蘊奥に達せらるるを認め、ここに我が英信流を相い伝へ候、宜しく、将来、本流の品位をおとすことなく、之が拡張をはかりみだりに他流に媚びず、以て、伝授の責を全うせらるるべし」(地之巻読下し)

大正11年3月吉日

細川義昌

殿(*あて名は無い)

*細川先生に依る伝書は、恐らく下村茂市先生から授与された伝書を写して発行されたと思います。
 これを読んで見ますと、土佐の居合の根元之巻として谷村派、下村派に依る違いなど何処にも見る事は出来ません。寧ろ、伝承されたものは全く同じものとしか言いようのないものです。
 業手附が同じであっても、想定が違い、修行の違い、哲学などの違いは人それぞれです。
 現在の夢想神傳流もこの土佐の居合のお釈迦様の手の内を出るものでは無いのでしょう。中山博道先生が細川義昌先生から伝書を受けていたらと、惜しまれます。
 一般的には免許皆伝は受けられたと聞こえる様に思います。

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2015年12月28日 (月)

曽田本免許皆伝目録その49山本宅治先生より大田次吉先生を終えて

曽田本免許皆伝目録


その49.山本宅治先生より大田次吉先生を終えて


大田次吉先生の略歴を上げておきます。
これ等は大田先生のお弟子さんによる平成23年発行の「玉誠録 我等が師・大田次吉先生伝」に依ります。
大田先生の山本宅治先生への師事は昭和34年1959年入門(67歳)、昭和38年1963年免許皆伝です(71歳)。
居合道の履歴
*明治23年1890年西川倍水生まれる
明治25年1892年大田次吉高知県宿毛生まれる
*山本宅治明治19年1886年生まれ、6歳年上でした。
明治42年1909年大田次吉志願入隊(17歳)
大正10年1918年頃大田次吉退官(26歳)
大正11年1982年大田次吉日体大入学(27歳)
大正13年1924年大田次吉高知県安芸中奉職、
            長尾影房に師事(32歳)
*昭和2年大江正路没す
昭和3年1928年大田次吉退職し立正大に通う
           とか太平洋戦争などあって居
           合から遠ざかっていたと思われます。
*昭和25年1950年第19代福井春政、河野百錬に紹統印可
昭和30年1955年大田次吉居合を西川倍水に
           指導を受け再開。(63歳)
*昭和34年1959年西川倍水没す(69歳)
昭和34年1959年頃山本宅治先生に入門(67歳)
*山本宅治先生(73歳)
昭和38年1963年大田次吉山本宅治先生
          から免許皆伝(71歳)
*昭和49年1974年河野百錬没す(77歳)
昭和51年1976年大田次吉全居連副会長(84歳)
昭和52年1977年大田次吉関東地区居合道連盟結成(85歳)
*昭和53年1977年山本宅治没(91歳)
昭和55年1980年大田次吉「土佐英信流」出版(88歳)
昭和59年1984年大田次吉没(92歳)
 
 大田先生は山本宅治先生に69歳で入門されています。西川先生亡き後、新たに師を求めて前に向って行かれる程の凄い魂を宿されていたのでしょう。
 並の人ではそこで挫折して、衰えていくばかりです。
大田先生の居合を古い動画で見る限り「大きく迫力のある居合を抜いていた」とお弟子さん方は、懐かしんでおられる様です。
 残されたお弟子さんの居合は大田先生に似ていません、寧ろ華麗な洗練されたものです。高弟であった白石五郎先生の実技指導が身についたのでしょう。大田居合は、業技法ではなく慈愛に満ちた「心」が大田居合なのだろうと思っています。 師の指導とはそう云うものなのだろうと思います。
*玉誠録には「宗家を高知へ返還するための執念」の項目が語られています。
 第19代福井春政先生が土佐への思いを断ち切って、昭和25年に大阪の河野百錬先生に第20代宗家を紹統印可されています。(2015年12月23日ブログ)
 「宗家を土佐に戻すという思いは福井春政、山本宅治等の17代大江正路直門の先生方はもとより、土佐居合道界全体のものであった。土佐側の次代宗家候補を西川倍水として返還の話し合いを行うため香川県善通寺で行われた大会に関係者が集まった。しかしなんと西川先生が大会の会場で演武を見ている最中に倒れられて3日後に急逝される」
*西川倍水先生の逝去は昭和34年1959年の事でした。その後、昭和46年1971年に田岡 傳先生に因って第19代福井春政先生がお亡くなりになると(昭和46年2月18日)、福井宗家の遺言と称して、第20代宗家として竹嶋寿雄先生(当時41歳)を、河野先生存命中に、傍系宗家としてたてられています。これでは第19代福井春政先生を辱めるばかりの事です。
 土佐への思いがあったとしても、第20代河野先生存命中に、突然、第20代竹嶋寿雄先生を立てるなど、武士道精神を欠いた行為でしょう。
 既に全国に多くの同志を得ていた無双直伝英信流の剣士を蔑ろにしたただけの自己中の様に思えます。
 第19代宗家福井春政先生が、土佐に次期宗家を立てられずに悩まれた心情は、折りに触れて土佐の剣士に語られ、或は土佐の剣士から攻められたことは、その後の、土佐の剣士の行動から察せられます。
「昭和49年1974年5月21日河野先生が亡くなり大きな動きがあった、8月8日付けで「無双直伝英信流第21代宗家決定に関する通牒」と言う文書が流された。大江正路と穂岐山波雄直門の山本宅治、森 繁樹、田岡 傳、中川 稔、森藤米次、野村譲吉の所謂英信流長老の連名で、次期21代宗家に高知の竹嶋寿雄を推す事に関する賛否を問う内容であった。この通牒は範士全員(英信流の範士のみか?)に送られたと思われる。当然大田先生は竹嶋先生に賛成したはずである。
 しかし結果は福井虎雄が21代宗家の継承者となった、この宗家継承の経緯についてはここに記すだけの資料を持たない。」
「新宗家が決定した後に大田先生は、福井宗家を強く押した当時全居連会長の池田昂浡に対し「7年ゾヨ」と7年後には宗家を土佐に変換することを条件に承知している」
「竹嶋寿雄先生は19代宗家福井春政が亡くなるときの意を受け、高知において傍系20代宗家を継承していた。そして竹嶋寿雄は全居連を離れ全国居合道に所属し別に活動していた」
「竹嶋は流派名を「無双直伝英信流」から「土佐直伝英信流」と替えた。」
*20代河野宗家が存命のうちにも関わらず、20代宗家を押したてたのでは困ったものです。其の上20代河野宗家が没するや、竹嶋先生を21代宗家として賛否を問う通牒とは、之如何にです。傍系を標榜するなら、20代のまゝ押し通し、全国に広がった「無双直伝英信流」の剣士を、土佐の方々で束ねる、施策を打つべきだったでしょう。
 寧ろ傍系として立てずに19代福井先生の遺言として竹嶋先生を21代として河野先生存命中に立てて置き、河野先生に依って紹統されるとか方法もあったろうと思います。
 心無い長老方によって押したてられた竹嶋先生も辛かったろうと思います。
 この居合と言う伝統文化を惜しまれて土佐から広がる事を望み、第19代福井先生は苦渋の中に河野先生に託す決断をされたのでしょう。
 大江先生の居合も「剣道てほどき」に乗って広まって行きました、曽田先生も苦労して集められた土佐の居合の秘伝を瀬戸内を越えて望まれる方に出されています。細川先生も中山博道先生に伝授されています。免許皆伝も香川の植田平太郎先生に出され土佐を出ています。
門外不出を通したい願望は解らぬでもないが、あまりにも稚拙な行為としか思えません。大江先生はそんな弟子を育てはしなかったと泣いておられるでしょう。それは何故だったのでしょう。
 師匠の思いが強ければ、可愛がられたお弟子さんも、師匠亡き後にも「その幻に想いを致す」ものです。うらやましくもあるのですが、師匠の思いをどう受け止められたのか、大田師匠が捨てなかった全居連を幾人かのお弟子さんは師匠が没するや捨ててしまいました、全居連に残られた方を仲間と思わない行為も有るや無しや、けなげな姿というか・・・??を眺めるばかりです。
 昭和46年8月10日の居合道新聞に河野先生の「傍系20代~誕生、正統第20代宗家河野百錬」と題した記事が掲載されています。
「・・此上は分家として心を一にして故先生御意志に反する事無く益々精進を重ね而して徳と力を養うべく心を新たにした次第で分家に於かれても拙意を諒とされて、故恩師の御徳を汚す事無く益々自重精進あらん事を希う次第である」
と、無双直伝英信流宗家としてのらしき発言をされています。
 しかし、続けて「余談であるが、私見としては・・本流の傍系としての代を唱ゆる事は変則と思う=飽く迄も代を唱ゆる者はその流の正統ただ一人のみが本則であると信ずるものである。~此の見地に立って私は将来時期を得て当流の古老と諮り、土佐の国に人を得て正統宗家を紹統する考えであったが~先代の意志に依り茲に当流の20代を唱する傍系が今回誕生した事は各々の見解の相違に依るも私の平素の所管とは相違するものである」
 この文章は、道を外している事への嘆き(寧ろ怒り・・)の声でしょう。
 74,5歳の河野先生の居合を見た大田先生の御弟子さんは、「あんなへぼ居合はやりたくない」といっていたとか。其の御歳であれだけの居合が出来る人は何人居られるでしょう。
 林崎甚助重信の残された居合の伝書の幾つかを読み解いているうちに、「人の業」を垣間見てしまった様です。
 土佐に伝承された居合は、門外不出などに初めは捉われていても、文明開化によって板垣退助の勧めもあって大江先生も細川先生も目覚められ、土佐の素晴らしい武士道文化を広めようと改められたのに、「幻を引きずって」、土佐の長老を筆頭にしたその為され様は、子供の「いじめ」よりひどく考えさせられてしまいます。
 現在でも、似たような話は幾つか聞こえてきます。業技法の違いなど当たり前の事、考え方も、哲学も違って当たり前の事です。然し、分かれた方の居合も、どうやって見ても無双直伝英信流です、夢想神傳流を見て居ても同じ土佐の居合を少しも越えていません。
 何の為に居合を業ずるのか少しも判っていないただの棒振りなのでしょう。
 武術は自ら信じた事を貫く、人と人のコミュニケ-ションの最終手段です。居合を学びながら天地と和す事を学ぶものでしょう。
 

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2015年12月27日 (日)

曽田本免許皆伝目録その48山本宅治先生から大田次吉先生目録

曽田本免許皆伝目録

48.山本宅治先生から大田次吉先生

・目録
英信流居合術名称
正座之部
一番  向身
二番  左刀(大江先生は右身)
三番  右刀(大江先生は左身
四番  當刀(大江先生は後身
五番  陽進陰退(大江先生は八重垣
六番  流刀(大江先生は請流
七番  順刀(大江先生は介錯)
八番  逆刀(大江先生は附込
九番  勢中刀(大江先生は月影
十番  虎乱刀(大江先生は追風
十一番 抜打
立膝之部
一番  横雲
二番  虎ノ一足
三番  稲妻
四番  浮雲
五番  山颪
六番  岩浪
七番  鱗返
八番  浪返
九番  瀧落
十番  真向
奥居合之部 居業
一番  霞
二番  脛囲
三番  戸詰
四番  戸脇
五番  四方切
六番  棚下
七番  両詰
八番  虎走
奥居合之部 立業
九番  行連
十番  連達
十一番 総捲
十二番 総留
十三番 信夫
十四番 行違
十五番 袖摺返
十六番 門入
十七番 壁添
十八番 受流
十九番 暇乞
二十番 仝
二十一番 仝
番外
一番  速浪
二番  雷電
三番  迅雷
型並発声
イ-エ-イ
一番  出合
二番  掌取(拳取の誤字
三番  神妙剣
四番  獨妙剣
五番  鍔留
六番  請流
七番  真方
右之条々深秘之極意也
天真正
林明神
林崎神助重信
田宮平兵衛光重(業政?)
長野無楽入道権露斉(槿露斎?)
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗績
万野團右衛門信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林六大夫守正(守政?)
林安太夫政詡
大黒元衛門清勝
林益之丞政誠
依田万蔵敬勝
林弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
大江正路子敬
穂岐山波雄
福井春政
河野百錬(大江先生に師事した事は無い?)
右は大江正路子敬先生より御相傳を蒙りたる者也
居合道 九段
範士  山本宅治守誠
非真実之人者努々不可有相傳者也
貴殿多年斯道熱心錬磨之結果其温奥(蘊奥の誤字?)二達セラルヽヲ認爰二我英信流居合術之目録一軸(軸の相伝とはいかに?)相傳申所也宜敷将来本流之品位ヲ堕ス事無之ガ擴張ヲ計漫リニ他流ヲ媚ズ以傳授之責ヲ全フセラレン事期セザル可
昭和三十八年
居合道八段
教士 大田次吉殿
*この山本宅治先生の目録は正座之部の業名が大江先生のものと異なります。
大森流の業名を掲げておられますが何故かわかりません。
 大田先生に習われたお弟子さんも大江先生の業名で稽古されていて、此の事に気が付いているのか不明です。
 伝系に大江先生より河野先生が「御相傳を蒙り」と有るが穂岐山・福井先生に師事したとされて、大江先生には直接ご教授頂いたことは無い筈です。
 「右は大江正路子敬先生より御相傳を蒙りたる者也 居合道九段 範士山本宅治守誠」
の書き方ですと、大江先生から山本宅治先生は相伝されていない、河野先生からの様に思えてしまいます。
 此処は相伝しているが、宗家筋では無いと言う姿勢のあらわれかも知れません。
「英信流居合術之目録一軸相伝申所也」の「一軸」の文言は軸に拵えた巻物一巻に居合根元之巻及び業目録を相伝する、と云う意味でしょう。
 大江先生の様に「無双直伝英信流居合術令相伝候」で良いのに何を意図されたのか疑問です。
伝授された年月日が年だけですが、どうしたものでしょう。

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2015年12月26日 (土)

曽田本免許皆伝目録その47山本宅治先生から大田次吉先生

曽田本免許皆伝目録

47.山本宅治先生から大田次吉先生

*是までの処で、大江正路先生から伝授された先生方の伝書を拝読して来ました。
大江先生の直弟子から孫弟子への伝書は第19代福井春政先生から河野百錬先生への根元之巻・目録及び紹統印可を河野先生の無双直伝英信流居合兵法叢書から拝借しました。
 
今回は、土佐の山本宅治先生から、土佐出身ですが東京で居合を広められた、「土佐英信流」の著者大田次吉先生への伝書を拝見してみましょう。
大田先生の根元之巻きは、その著書「土佐英信流」の箱に大部分印刷されています。
 大田先生から御弟子さんへは、免許皆伝の無双直伝英信流根元之巻及び業目録は一人も授与されていないと聞いています。
 大田先生と曽田本のつながりは、天の為せる事と思います。大田先生の御弟子さんが曽田先生の息子さんから「私は居合をやらないから曽田本を持って居てほしい」とお預かりしたものがこのブログになっているわけです。
 この曽田本は、戦前にひたすら、土佐の居合を追い求めた曽田虎彦先生の思いが籠められたものです。このようなものは譬え「あげる」と言われても「金を出して買ったとしても」個人が、勝手に扱うべきものではないでしょう。天からお預かりしたもので、後世に引き継ぐべきで宝物です。
居合術根元ノ巻
抑此居合術ト申者日本奥州林之従大明神夢相(夢想の当て字か)ニテ奉傳之夫兵術者上古中古雖有数夛之違侘流大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相應之太刀尓云   手近勝一命有無之極此居合恐者粟散邊土於堺不審之儀不可有之唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者因有兵術望之林之明神一百有日会(令の誤字)□□籠(参籠の不明文字ムの下に火、その下に水、大江先生の伝書の写し書きに依る誤りか)其満暁夢中老翁重信告曰汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思儀之極意一国一人之相傳也 腰刀三尺三寸三毎(三毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五六(五鈷の判読ミスか古いの草体)内証也 敵味方成事(古に又)是亦最生(前生の誤字)の業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則也(也の挿入ミスか)蒙大聖摩利□(支の不明文字)尊天加護 来也(世の誤字)成仏成縁之事豈有疑哉 此居合雖千金(積千金の積の字欠如)不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳云々
古語曰
其達疾者 其退速云々
此意以貴賤尊卑無隔不謂最後(前後の誤字)輩其所作者許目録印可等無相違(大江先生の伝書では此処は「此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩達其所者許目録印可等無相違」(ですから山本先生は「達」の文字が欠如しています。達するものには)
又古語曰
夫百錬之搆在則茅茨荘鄙與兵利心懸者夜自思之明神佛陀者祈則忽得利方是依心済身事粲然(燦然の異体字)
居合根元ノ巻読下し
 抑、此の居合術と申すは日本奥州林の大明神により夢想にて之を伝え奉る、夫れ兵術は上古中古数多の違い有れども他流大人小人無力剛力嫌わずに兵の用に合う云々、末代相応に為る太刀に云う、手近の勝ち一命の有無、此の居合に極まる、恐らくは粟散邊土の堺に於いて不審の儀あるべからず、之は唯霊夢に依る処也。
 此の始めを尋ぬる、奥州林崎神助重信と云う者に因り、兵術有ると之を望み、林の明神に一百有日参籠せしむ、其の満暁の夢中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀を以て常に胸中に憶持たる怨敵に勝を得ん云々。
 則、霊夢に有る如く大利を得ん、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意、一国一人の相伝也、腰刀三尺三寸三毒、則、三部に、但脇差九寸五分九曜五鈷の内証也。
 敵味方と成る事、是亦前生の業感也、生死一体戦場浄土也。
 此の如く観るは、則、大聖摩利支尊天の加護を蒙る也、仏と成るは縁なるの事、豈疑いあらんや。
 此の居合千金と雖も不真実の人には堅く之を授くべからず、天罰を恐るべし唯授一人に伝う云々。
 古語に曰く
 其の達する事疾き者 其の速く退く云々
 此の意貴賤尊卑の隔て無く前後の輩と謂わず其の所を作る者に目録印可等相違無く許す。
 又古語に曰く
 夫れ百錬の搆え在りて、則、茅茨荘鄙と兵利を心懸けるは夜自ずから之を思い明神佛陀を祈るは、則、忽ち利方を得ん、是に依り心済み身に燦然。
山本宅治先生の伝書は大江先生の伝書から根元之巻を作成されていると思いますが聊か、判読ミスによる誤字が気になります。
伝書には他人に判読させない様に敢えて誤りの文言も有と云いますが、土佐の伝書に其れは感じられません。
又、仏教用語が判りませんと判読不能に陥ったと言えるかもしれません。
「腰刀三尺三寸三毎(三毒の誤字)則三部尓但脇差九寸五分九曜五六(五鈷の判読ミス)内証也」
腰刀三尺三寸は貪・瞋・痴の三毒である欲望・怒り・無知に対し三部の金剛界・胎蔵界・蘇悉地によって煩悩を打ち破り智徳を以って一切を包み込む菩提の心に依って、但(ただ)、脇差九寸五分に勝つのである、己の運命を切り開く五鈷をもって成就する事の証しである。
しかし、土佐の居合の根元之巻が指し示しているように、太刀を以て脇指の討ち込んで来る柄口六寸に応じる業は、失念して土佐の居合では見る影も無いと言えます。
 更に、居合心を曹洞禅によって導こうとする、曹洞五位の教えも、生死を越えて黙然として「珊瑚枝々掌に月着く」の譬えも、聞かされる事の無いものになっている様に思います。
 
 

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2015年12月25日 (金)

曽田本免許皆伝46-2大江先生相伝政岡壱實先生経歴

曽田本免許皆伝目録


46-2大江正路先生相伝


政岡壱實先生経歴
 政岡先生の授与された根元之巻には、発行された年月日が有りません。それで「あれは本物では無い、土佐で大江先生について習った期間が短すぎる。」とか、「全居連に所属しながら全剣連に移籍するなどとんでもない。」
 何を根拠に言っているのか可笑しな人も居る様です。
 土佐では爪弾きしているなど、当時の土佐の居合人の感情に載せられ知りもしないのに、自分の師匠からの又聞きか、何かで思い込んでいる人もいます。
 土佐からは第19代によって大阪の河野百錬先生に宗家紹統印可が為された事も合わせての僻みかも知れません。
 土佐の方が言うのはともかく、内地の方でその程度のレベルで批判しているなどこの世界はどんな根性で成り立っているのでしょう。
 大江正路先生生誕から数えて164年経って、幾つにも分派した土佐の居合がそろそろ分派を越えて御互いに一つに纏まって、それぞれに伝承した居合を披露し交流をしても良さそうなものです。小さく纏まって消えていくのでは、草葉の陰で先師の方々が泣いているでしょう。
 
 地之巻きには、曽田先生が苦心して集められた土佐の古伝神傳流秘書の内容が随所に散りばめられて解説され動作も付けられています。
 天之巻、地之巻共に無双直伝英信流の御研究は奥深いものです。何より武専出身の武術で飯を食う専門家でもありました。
 金沢在住の頃中山博道先生との交流もあった様でその影響をうけたところもある、と云いますが、個性とはそういうものでしょう。
 此処では、それらを思い、大江正路先生の経歴と政岡壱實先生の経歴を重ねてみます。
その上で地之巻を熟読される事をお勧めします。
大江正路先生及び政岡壱實先生経歴
(この経歴は政岡先生の地之巻から抜粋し、当時の世情を合せ作成しました。大江先生の経歴は地之巻が最も詳しい様に思います)
嘉永5年1852年  大江正路 高知県土佐郡旭村に生まれる
嘉永6年1853年  ぺリ-来航
明治1年1868年  戊辰戦争 明治維新 大江正路16歳
明治2年1869年  藩籍奉還
明治3年1870年  大江正路 藩立文武館剣道専業拝命
明治5年1872年  大江正路 士の常職を解かれ廃業20歳
明治6年1873年  徴兵令
明治9年1876年  廃刀令
明治10年1977年 西南戦争
明治15年1882年 大江正路 高知県武術会剣術教授30歳
明治17年1884年 大江正路 同上辞退
            長崎県高島三菱炭坑抗外取締監督
                           ・剣術教士32歳
明治24年1891年 大江正路 同上辞退
明治25年1892年 大江正路 高知共立学校撃剣教士40歳
明治26年1893年 大江正路 同上辞退
明治27年1894年 大江正路 東京芝区有待館撃剣教授42歳
明治28年1895年 日清戦争
            大日本武徳会設立
            大江正路 有待館辞退
            高知県武術会長に推挙せらる43歳
            高知県師範学校撃剣科教授嘱託
明治29年1896年 大江正路 同上辞職
            政岡壱實 高知県吾川郡吾北村に生まれる
明治30年1897年 大江正路 高知県尋常中学校撃剣教授、
                           病気依願退職45歳
             石川県警剣術教師
                          ・石川県立第二中学剣術教授
明治32年1899年 大江正路 大日本武徳会
                         石川地方委員47歳
明治33年1900年 大江正路 病気の為同上辞職
                         石川県を去る48歳
            高知県第二中学校撃剣教授
明治35年1902年 大江正路 大日本武徳会高知支部
                          剣道教授50歳
明治37年1904年 日露戦争
明治45年1912年 大江正路 高知県第一中学校
                          助教諭心得60歳
大正3年1914年  第一次世界大戦
大正4年1915年  政岡壱實 高知一中卒業19歳
大正7年1918年  第一次世界大戦終了
            大江正路 剣道手ほどき発行
大正10年1921年 政岡壱實 京都武専卒業
                         ・研究科入学25歳
大正11年1922年 政岡壱實 金沢三中に奉職
                        ・山砲兵第11聯隊入隊26歳
大正12年1923年 政岡壱實 同上除隊
                        ・金沢三中復職27歳
大正13年1924年 大江正路 大日本武徳会
                          居合道範士72歳
大正15年1926年 政岡壱實 無双直伝英信流兵法
                         免許皆伝30歳
昭和2年1927年  大江正路 死亡75歳
昭和6年1931年  満州事変
昭和11年1936年 第二次世界大戦
昭和13年1938年 政岡壱實 応召バイヤス湾敵前上陸
                         進撃中発病42歳
昭和14年1939年 政岡壱實 除隊43歳
昭和20年1945年 第二次世界大戦終了、敗戦
昭和23年1948年 政岡壱實 金沢第二高等学校併設中学校
                         勤務52歳
昭和24年1949年 政岡壱實 金沢市公立学校教員
                        ・野田中学校教諭53歳
昭和25年1950年 政岡壱實 石川県教育委員会退職
            高知県吾川郡吾北村へ帰る54歳
            福井春政、河野百錬へ無双直伝英信流
                          紹統印可
昭和26年1951年 政岡壱實 高知県小川村村会議員55歳
昭和27年1952年 全日本剣道連盟創設
昭和29年1954年 全日本居合道連盟創設
昭和30年1955年 政岡壱實 土佐高等学校国語科講師59歳
昭和31年1956年 政岡壱實 全剣連居合道代表理事60歳
昭和32年1957年 政岡壱實 剣連居合道範士61歳
            無双直伝英信流居合道天之巻発行
昭和37年1962年 政岡壱實 剣連居合道九段66歳
昭和40年1965年 政岡壱實 高知県体育協会功労賞69歳
昭和41年1966年 政岡壱實 剣連制定居合委員70歳
昭和42年1967年 政岡壱實 土佐高等学校講師を辞任71歳
                   剣連居合道研究委員委嘱
昭和43年1968年 政岡壱實 剣連制定居合7本制定72歳
                   金沢へ転出
昭和44年1969年 政岡壱實 剣連居合道研究委員長委嘱73歳
昭和48年1973年 政岡壱實 死亡77歳
昭和49年1974年   無双直伝英信流居合兵法地之巻発行
 政岡先生の免許皆伝に年月日の無い事については、政岡先生の中学の先輩森 繁樹先生が、「政岡も続けているし、進学後も帰省時には居合を見ているので彼にも根元之巻を支給しようと思う」と大江先生は言っていたと述べられているそうです。
 と、言う事は、大江先生は政岡先生の免許皆伝を書いてはあるが、帰省時に手渡そうとして日付の無いまま持っておられたのでしょう。
 この時代、いらぬ詮索をするより、筆跡鑑定でもすれば済む事ですし、何よりも政岡先生はそれだけの実績が見られる事はこの経歴が伝えてくれます。
 
 剣連に移籍した為に、土佐では全居連に所属して要職についていた人も多く、政岡先生は剣連の要職を狙い鞍替えしたと邪推し、土佐から政岡先生の排斥を口にする者もいて、高知は二つに割れて口も利かなかったそうです。
 政岡先生は、剣連が旧武徳会の自然発生的連盟なので、武徳会出身の自分が剣連居合道部に移るのは自然のことと決心を語られたそうです。
 河野先生の時にも土佐の人達に依って傍系宗家を立てるなど、視野の狭い、僻み根性のどうもそんな風紀があるのでしょうか。土佐は明治維新に多くの俊才を出して近代日本の礎を築いた土地と思っています、ですからそんな風に思いたくないのですが、他に理由があったかもしれません。
 土佐に弟子を残し、息子さんの住む金沢に転出されています。昭和43年72歳の時です。忸怩たる思いもあったろうし、土佐の仲間割れを憚っての事でもあったろうなど思っております。
 
 赤い表紙の「地之巻」には、制定居合が古来からの伝統武術を駆逐してしまう現象を悔やむ思いが語られています。古伝を熟知した手ほどきを示されて、曽田本にある神傳流秘書の解析に大いに助けていただいています。
 前にも書きましたが、形に拘り過ぎて、舞台で踊る踊り子の様に、同じ形で同じ拍子を要求したのでは、多くの流派も、それから分派した先師の努力も不要のものになってしまいます。
 居合は流の手附にそって、師匠の教えを噛みしめ乍ら、一人一人が正しいと信じたものを業ずるものでしょう。
 其の違いを、見極める技量は演じる者にも、審査する者にも要求されるべきものでしょう。
 そして、流の掟は隠さず伝えなければ、制定居合のようなものに居合が駆逐されてしまうでしょう。
 
 
 

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曽田本免許皆伝目録その46大江正路先生相伝政岡先生読み下し

田本免許皆伝目録

46.大江正路先生相伝

政岡壱實先生伝書読み下し

原文
抑此居合術ト申者日本奥州林従 大明神夢相二〆奉伝之 夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流 大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合 恐者粟散辺土堺於不審之儀不可有之 唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者兵術因有望之 林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰 汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸則三部尓但脇差九寸五分九曜五之内証也 敵味方事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩 其所者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
読み下し
*そも此の居合術と申すは、日本奥州林の従大明神の夢相(想の誤字)にて伝え奉る。   
夫れ兵術は、上古中古数多の他流の違い有ると雖も、大人小人、無力剛力、嫌わずに合う兵の用云々。
 末代、相応の太刀と為る云々。手近の勝ち一命の有無此の居合に極まる、恐らくは粟散辺土の堺(境)(*粟散辺土の意味:遠く離れた地にある、粟粒(あわつぶ)を散らしたような小国。インド・中国などの大国に対して日本をさしていうことが多い。仏教語。)に於いて、不審の儀之有るべからず、唯霊夢に依る処也。
 此の始めを尋ぬれば、奥州林崎神助重信(*神助:土佐に伝わった甚助の誤字か、敢えて神助としたかわかりません。谷村亀之丞自雄の伝書も神助、大江先生は神助の名で通しています。福井春政先生は甚助に改められています。)と云う者、兵術を望み有るに因って、之を林の明神に一百有日参籠せしめ、其の満暁の夢中に老翁重信に告げて曰く、汝此の太刀、常に胸中に憶持する怨敵に勝を得ん云々。
 則、霊夢に有る如く大利を得、腰刀三尺三寸を以て九寸五分に勝事、柄口六寸に勝つの妙不思議の極意、一国一人の相伝也。
 腰刀三尺三寸、則、三部に、但し脇差し九寸五分は九曜五之(五鈷の判読ミスか)の内証也。
*(此処は、元、三毒則三部であった処、大江先生が三部のみ残されたと思います。三毒は貪瞋痴、むさぼり求める心・怒りの心・真理に対する無知。
 三部は密教の仏部・蓮華部・金剛部、また金剛界・胎蔵界・蘇悉地。金剛界は密教で、大日如来の、すべての煩悩 (ぼんのう) を打ち破る強固な力を持つ智徳の面を表した部門。胎蔵界は金剛界に対して、大日如来の理性の面をいう。仏の菩提 心が一切を包み育成することを、母胎にたとえたもの。蘇悉地(そしつじ)はそれらの成就。)
*九曜五古は九曜五鈷の間違いでしょう。
 土曜(聖観音)、水曜(弥勒)、木曜(薬師)、火曜(虚空蔵)、金曜(阿弥陀)、月曜(勢至)、日曜(千手観音)、計都(釈迦)、羅睺(不動明王)の9つの星を「九曜曼荼羅」として信仰した。
 平安時代には「九曜曼陀羅」は真言のご本尊として崇拝され、中でも、この九曜文様が「道途の安全の守護」今で言う「交通安全」の霊験あらたかな「おまじない」だ、ということで、公家衆の輿車・牛車・網代輿・雨眉車・文車等の多くに描かれたと伝えられ厄よけの重要な文様です。
*五鈷は五鈷杵の略で金剛杵、密教で煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具。
*内訟は内証、仏語、自己の心の内で真理を悟ること。内面的な悟り。)
 
 敵味方の事、是れ亦前生の業感也(*業感は仏語、善悪の行為が因となって、苦楽の報いを感受すること。 )
 生死一體戦場浄土也(*浄土は五濁、悪道のない仏・菩薩の住する国。)
 此の如く観て、則、現世は大聖摩利支尊天の加護を蒙り、来世に仏と成るは縁なるの事、豈疑い有らんや。
 此の居合千金を積むと雖も、不真実の人には、堅く之を授くべからず。天罰を恐るべし。唯一人に之の伝を授(さずく)云々。
 古語に曰く 其の疾き者は進み 其の速く退く云々 此の意、貴賤尊卑を以て前後の輩、其の所の者と謂わず隔てなく、目録印可等相違無く許す。
 又、古語に曰く 夫れ、百錬の構え在りて、則、茅茨(茅や茨)荘鄙と兵の利を懸ける(心懸ける)者は夜自ずから之を思い神明佛陀に祈る者は、則、忽ち利方を得、是に依って心済み身は燦然。
英信流居合術名稱
正座之部
㈠向身 ㈡右身 ㈢左身 ㈣後身 ㈤八重 
㈥請流 ㈦介錯 ㈧附込 ㈨月影 ㈩追風 (十一)抜打
(*五本目 八重で垣の文字が欠落しています)
立膝之部
㈠横雲 ㈡虎一足 ㈢稲妻 ㈣浮雲 ㈤颪 
㈥岩浪 ㈦鱗返 ㈧浪返 ㈨瀧落 ㈩真向
奥居合之部
㈠霞 ㈡脛囲 ㈢四方切 ㈣戸詰 ㈤戸脇
㈥棚下 ㈦両詰 ㈧虎走 
㈨行連 ㈩連達 (十一)惣留 (十二)惣捲 (十三)信夫 
(十四)行違 (十五)袖摺返 (十六)門入 (十七)壁添 (十八)請流
(十九)暇乞 (二十)同 (二十一)同
型並発声
ヤ-エイ-(*大江先生の鈴江吉重への伝書では「イ-エ-イ」でした。)
㈠出合 ㈡拳取 ㈢絶妙剣 ㈣独妙剣 ㈤鍔留 ㈥請流 ㈦真方
右之条者(条々の判読も有か)深秘之極意也非真実之人者努々不可有相傳也
貴殿夛年斯道二熱心錬磨之結果其温奥二達セラルルヲ認爰我英信流居合術相傳候宜将来本流ノ品位ヲ堕ス事ナク之ガ擴張計漫ニ他流二媚ズ以傳授ノ責全フセラル事ヲ期セラル可シ
読み下し
 右の条は、深秘の極意也、非真実の人には、努々相伝有るべからざる也。
 貴殿多年斯道に熱心に錬磨の結果、其の温奥(蘊奥でしょう)に達せらるるを認め爰(ここに)我が英信流居合術を相伝候。宜しく将来、本流の品位をおとす事なく之が拡張を計り漫(濫)りに他流に媚びず以て伝授の責を全うせらる事を期せらるべし。
天真正
林明神
初代 林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
万野団衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
無双直伝英信流居合術十七代目
大江正路
政岡一實殿
(*政岡先生のお名前は壹實です、ここでは一實、ブログでは壱實としてあります)

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2015年12月24日 (木)

曽田本免許皆伝目録その45大江正路先生相伝政岡先生原文

曽田本免許皆伝目録

45.大江正路先生相伝政岡先生原文

第17代大江正路先生が弟子に伝授された免許皆伝目録は、いくつかあると聞いています。
 
 此処では、政岡壱實先生への根元之巻及び目録を「無双直伝英信流居合兵法 地之巻」の巻頭の根元之巻写真から虫メガネで判読します。
抑此居合術ト申者日本奥州林従 大明神夢相二〆奉伝之夫兵術者上古中古雖有数多之違侘流 大人小人無力剛力不嫌合兵用云々 末代為相応之太刀尓云 手近勝一命有無之極此居合 恐者粟散辺土堺於不審之儀不可有之 唯依㚑夢処也 此始尋奥州林崎神助重信ト云者兵術因有望之 林之明神一百有日令参籠其満暁夢中老翁重信告曰 汝以此太刀常胸中憶持者得勝怨敵云々 則如㚑夢有得大利以腰刀三尺三寸勝九寸五分事柄口六寸勝之妙不思議之極意一国一人之相伝也 腰刀三尺三寸則三部尓但脇差九寸五分九曜五之内証也 敵味方事是亦前生之業感也 生死一體戦場浄土也 如此観則現世蒙大聖摩利支尊天加護来世成佛成縁之事豈有疑哉 此居合雖積千金不真実之人者堅不可授之可恐天罰唯授一人傳之云々
古語曰
其進疾者 其退速云々 此意以貴賤尊卑無隔不謂前後輩 其所者許目録印可等無相違
又古語曰
夫百錬之構在則茅茨荘鄙輿兵利懸者夜自思之神明佛陀祈者則忽得利方是依心済身事燦然
英信流居合術名稱
正座之部
㈠向身 ㈡右身 ㈢左身 ㈣後身 ㈤八重 
㈥請流 ㈦介錯 ㈧附込 ㈨月影 ㈩追風 (十一)抜打
立膝之部
㈠横雲 ㈡虎一足 ㈢稲妻 ㈣浮雲 ㈤颪 
㈥岩浪 ㈦鱗返 ㈧浪返 ㈨瀧落 ㈩真向
奥居合之部
㈠霞 ㈡脛囲 ㈢四方切 ㈣戸詰 ㈤戸脇
㈥棚下 ㈦両詰 ㈧虎走 
㈨行連 ㈩連達 (十一)惣留 (十二)惣捲 (十三)信夫 
(十四)行違 (十五)袖摺返 (十六)門入 (十七)壁添 (十八)請流
(十九)暇乞 (二十)同 (二十一)同
型並発声
ヤ-エイ-
㈠出合 ㈡拳取 ㈢絶妙剣 ㈣独妙剣 ㈤鍔留 ㈥請流 ㈦真方
右之条を(条々の判読も有か)深秘之極意也非真実之人者努々不可有相傳也
貴殿夛年斯道二熱心錬磨之結果其温奥(蘊奥の誤字か)二達セラルルヲ認爰我英信流居合術相傳候宜将来本流ノ品位ヲ髄(堕の誤字)ス事ナク之ガ擴張計漫ニ他流二媚ズ以傳授ノ責全フセラル事ヲ期セラル可シ
天真正
林明神
初代 林崎神助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
万野団衛門尉信定
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
無双直伝英信流居合術十七代目
大江正路
政岡一實殿
*この伝書には発行された日付けが見られません。
 大正15年3月10日に第17代大江正路先生より免許皆伝されたと略歴には記載されています。
 地之巻P109にある判読では「右之九条」と書いたのは「右之条」と書くべきを政岡先生の御弟子さん方は読み誤ったのだろうと思います。
 地之巻の大剣取迄は政岡先生が昭和47年秋までに脱稿されており、48年7月9日稽古中にお亡くなりになられています。ですから無双直伝英信流の歴史と変遷は、残された方に依って纏められたのだろうと思います。
大江先生の伝書は他に伝授されたものでは「右之条々」となっています。
参考に右之九条は大江先生の伝書以前にはあるものです、以下のものです。
 是は小藤亀江の伝書にあるものです。(2015年11月12日)
・無双直伝英信流居合目録 
・太刀打之位     
・詰合之位       
・大小詰          
・大小立詰        
・外之物之大事  

・上意之大事   

・極意之大事   

・居合心持肝要之大事
右九ヶ条者深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也
こちらは、谷村亀之丞自雄から山内豊惇公への伝書にあるものです。(2015年12月9日)
・無双直伝英信流居合目録 
・太刀打之位
・詰合之位
・大小詰
・大小立詰
・外之物之大事
・上意之大事
・極意之大事
・居合心持肝要之大事
右九カ条者深秘之極意也非真実之者努々(ゆめゆめ)不可有相伝者也
大江先生が鈴江吉重先生に伝授した皆伝目録です。(2015年11月25日)
九カ条であったものが、四カ条になってしまっています。
・大森流之部
・長谷川流之部
・奥居合之部
・形並発声
右之条々深秘之極意也非真実之人者努々不可有相伝者也

 

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2015年12月23日 (水)

曽田本免許皆伝目録その44福井春政先生の紹統印可

曽田本免許皆伝目録

44.福井春政先生の紹統印可

無双直伝英信流紹統印可之巻
(昭和25年5月14日、摂州住吉大社御神前に於いて、紹統式典を厳粛に挙行された)

紹統印可
貴殿道縁二依リ昭和二年八月日大日本武徳会大阪府支部二於テ当流二入門シ第十八代宗家穂岐山波雄先生ノ門二学ビ精励斯道ノ研鑽普及二務メ昭和六年大日本居合道八重垣会を組織シ門生ヲ育成其数二千六百余名二及ビ入門以来嘗テ剣ヲ執ラザル日無ㇰ錬磨精進以テ当流ノ奥秘ヲ得昭和二十一年五月二十日大日本武徳会総裁梨本宮守正王殿下ヨリ剣家最高ノ栄誉タル居合道範士ノ称號を授与サレ道ノ為メ尽ス所大ナリ依而流祖並歴代宗家ノ神霊二諮リテ茲二無雙直伝英信流居合兵法正統第二十代宗家ヲ紹統印可スル者也
依而奥書如件
林崎明神
林崎甚助重信
田宮平兵衛業正
長野無楽入道槿露齋
百々軍兵衛光重
蟻川正左衛門宗続
萬野団衛門尉信貞
長谷川主税助英信
荒井勢哲清信
林 六大夫守政
林 安大夫政詡
大黒元衛門清勝
林 益之丞政誠
依田萬藏敬勝
林 弥太夫政敬
谷村亀之丞自雄
五藤正亮
大江正路
穂岐山波雄
福井春政
昭和弐拾五庚寅年 正月吉辰
第十九代正統宗家 福井春政
河野稔百錬殿
・・
*この紹統印可は、居合根元之巻同様に、第20代河野百錬先生による、曽田虎彦先生の土佐の居合の古伝神傳流秘書及び曽田先生が収集された土佐の居合関係資料を公開された「無双直伝英信流居合兵法叢書」の巻末に付記されているものです。
 
 曽田先生は書写されたものを河野百錬先生に、昭和23年に送られたと記されています。河野先生との手紙に依る、流の疑問などもあって、やり取りされた事は曽田本に残されています。
 ・
 その、曽田虎彦先生による土佐の古伝を原文のまま「無双直伝英信流居合兵法叢書」として、河野先生は昭和30年1950年に発行されたのでした。
 曽田先生は昭和25年にお亡くなりになっておられ、ご自分で世に出したかった土佐の古伝を河野百錬先生の手をお借りして世に出されたと云えます。
 その巻末に、河野先生は自らの授与された根元之巻、及び紹統印可を公表されています。それは土佐の居合の歴史の中に自らもある事を語っておきたかったからと思うのは間違いでしょうか。
 そうでなければ、他にもこれら免許皆伝目録と紹統印可を載せるべき書物はあったはずです。
 たとえば、この無双直伝英信流居合兵法叢書の発行以降に昭和33年無双直伝英信流嘆異録、或は昭和37年発行の居合道真諦でも良いかも知れません。
 ブログに其の儘、書き込む事は憚られましたが、踏み込ませていただきました。
 河野宗家が紹統印可を授与された21年後の昭和46年1974年に、第19代福井春政宗家が没せられるや、土佐の古老によって福井宗家の遺言と称し傍系宗家が立たれています。
土佐の方に紹統印可をする事が出来なかった第19代福井春政先生の苦汁の思いが傍系宗家を立てられた古老方に理解しえたのでしょうか。
 第20代河野百錬先生が昭和13年1938年に発行の無双直伝英信流居合道で当時錬士の頃であろうと思いますが、そのなかで居合修養の心得があります。
 「居合を学ぶには元より其の流儀の形を重んじ、苟も之を変改するが如き事無く錬磨すべきは勿論なるも、その習熟するに於いては、何等形の末節に拘泥する事無く、各流を一貫する居合本来の精神を悟りて、日夜錬磨の功を積み、心の円成に努め、不浄神武不殺の活人剣の位ひに至るを以て至極となす」。と、述べられています。
 大江先生の改変、河野先生の改変、目に余る程に変えておられます。
 至極を求めて、或は時代に応じての改変であったかも知れません。近年の様に昇段審査や演武競技に良い成績を上げる事を求めて、武術を忘れて形に拘るのとは意義がちがうでしょう。
 戦中戦後を、己の業を磨きつつ、無双直伝英信流を纏められた事に対し、紹統印可を知りながら傍系を立てた土佐の古老とは、何だったのでしょう。
 大江先生の伝書の文言に有る「宜しく将来本流の品位を堕す事なく之が拡張を計り漫りに他流に媚びず以て伝授の責を全ふせん事を期せらる可し」をどの様に受け止めていたのでしょう。
 土佐の居合を全国に広めたのは、無双直伝英信流第20代宗家河野百錬先生と夢想神傳流の中山博道先生だったことを、改めて思い出します。
 ある文章に「居合振興の為、県外に普及の講習などが大江先生時代に(新潟県)実施されていた、その後も阪神地方に講習などがあり、神戸市、大阪市などで盛んになった。
 そこで講習を受けた熱心家で実業家達の中から、援助者が出現し高知県外不出の鉄則も神威を喪失して、十九代何某が大阪市の河野百錬氏に二十代を譲渡した。
 それ以来、宗家などと称する表現が流行した」。
 中山博道先生に接した時の大江正路先生、細川義昌先生の思いをこの文章を書いた人も土佐の人です。この方はどこまで土佐の居合の将来を理解して居たのでしょう。
 居合は、師の話をよく聞き、その動作をよく観て、よくその書き付けられたものを読み、自ら考え修行するものと当代は仰います。
 質問しても答えられない様な師匠は、師匠では無いので、さっさと師を替えた方が良いのですが、その見極めは、自分が如何に勉強して居るか、何を居合に求めているのかによるのでしょう。
 物真似に憂き身をやつし、業の末節に拘り、真似をするだけに留まって、何時の間にか本流から遠くなっている事も知るべきものでしょう。
 
 
 
 
 

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