曾田本その2を読み解く

2019年8月17日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人林六太夫先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹先生の4

 又或る時八軒町に火災アリ火焔其の邸宅に至らんとして挙家騒擾一方ならず家財雑具を外部に搬出す此の時先生は床上の畳を一枚宛小隅を取って投出し泉水一つ越して向ふの築山の下に堆く積上げたが目覚しい働きにて何か術が有って斯く為し得たであらふかと皆の人は驚嘆したといふ。
 又或る年君主の伴をして参勤交替の為藩船に乗り大阪の川口港に碇泊した、此處には折柄薩摩家の召船も碇泊していたが、其船中御料理方であらふ庖丁の名手が有って生魚を斬り之を竹の魚箸で挟み水中に下してすすぐこと実に妙見る人の目を駭した(おどろかした)、先生は傍の船にて之を見舷側に倚掛り同じく魚箸を取って磁盆を挟み波間に差下して雪ぐこと数回にして引上げた見る人感に堪えず彼の料理する人も己の業を恥ぢてやめたといふ。昔の御料理方は逆も手が利いていたさうで、之が試験には能く器に油を充たし其中に小判を落込み之を箸で取らせたといふが仲々出来る業ではない。又土佐の磁盆は肴や料理を入れる大鉢で深さは余り深くないが直径一尺位から二尺以上もある重い磁器で水中では手で持っても辷り落ち易いものである、それを箸で挟み水中で数回すゝいで引上げたとは余程手の利いていたものであらふ。
 又先生が事に熱心で何事にも其徹底を期せざれば歇(や)まなかったといふ一例に次の記録がある。偖又(さてまた)在江戸而諸国の士集合之時奥人某鉛子除之法を知ると称し一時数人鳥銃の口を揃へて対ひし事ありしに我此の法を行而放事不能終とて自負したるを満坐妄言なりと思惟大笑其人怒気甚敷公等予之言不信笑事不安今其術可見とて火縄に移火座中の人々に持たせ一々消而通りしに人眼不遮一時滅火人々初て驚失笑罪謝六太夫深感其術学欲後日其宅訪ふて懇乞需しかと先に笑はれしことを以て許容せざりしかは大に侮いて假令妄言なるも白笑フ事勿益無事也とて此事を證として子孫を戒めたりと云ふ。
 天性の器用に此の熱心ありたればこそ人に師たるの16を得ていられたのである。ー(終)ー

 林六太夫の逸話の意味は何なのかスクラップを写し乍ら何も際立ったものを持たないので、火事場の働きにしても、磁器を箸で挟んで洗われても是と云って、へそ曲がりの私は感動する事もありません。いざという時に力を発揮し、些細な事でも見過ごさず熱心に稽古して磨き上げれば器用さはより秀でる事はあり得るものでしょう。
 偖又(さてまた)で始まる逸話は読みずらい漢文調ですが、要はたとえ妄言であっても軽々しく人を笑いものにするような無益な事をしない様に子孫を戒めたと云うのでしょう。
 

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2019年8月16日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の3

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士中西岩樹
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 先生は天資英才にして器量非凡故実礼節を伊勢兵庫に学び到底し剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め書は佐々木文山に就いて之を能くする等和術砲術伎謡俗楽をはじめ凡そ人の師と為るに足る伎芸16を得ていたといふから大したものである。
 而して先生は宝永3年(1707年)12月22日御料理頭より第扈扈従役に進められ礼節方を兼ねられ正徳3年(1714年)8月病の為め拝辞し同月24日大扈従役を免ぜられ礼節指南は旧の儘御馬廻りとなり山内第8代豊敷公の時享保17年(1733年)7月17日71才で八軒町の邸に病没せられたが其間第4代藩主豊昌公、第5代豊房公、第6代豊隆公と3代の藩主に仕へ貞享3年(1687年)6月君主より故実の御下問あった時詳細記述して之を奉り殊の外の御褒辞と共に白銀若干を賜ふた外元禄20年(1708年)12月12日禄20石を加増され更に同16年(1704年)9月4日故実礼節究極の功労旁々又も50石を加増されて旧禄に合し150石となりたる等名誉を重ね御羽織其他下賜品を受けた事も多い。
 斯くの如く3代の君主に仕へて寵衰へず然も太平の代数度の加増を以て厚遇されたといふことは容易の事ではない之を以て観ても先生が常人でなかった事が窺はれる。
 先生の居合は其表芸ではなかった従って特別に子弟を養ふやうな事はせられなかったがそれでも藩中弟子の礼を執る者が有って当時水野流田宮流等の居合が有ったにも拘わらず断然此の英信流が重用されるに至り数代後の徳川氏末期には土州武士にして居合を知らざるものは真の土州武士に非ずとせられた程八釜間敷い(やかましい)ものになり彼の有名なる山内容堂公は谷村亀之丞先生に就て一人熱心に練磨され藩主文武館に居合科を設けて藩の子弟に之を伝習せしめられたのである。
 当流の伝統は既に発表されてある通り六太夫先生の没後其の養子安太夫政詡先生が嗣がれて後林氏が二人迄嗣がれている、六太夫先生の逸話は数々あれど私は古記録に残る其ニ三をご紹介して筆を擱くことにする。
 先生は前述の如く幼にして家を嗣がれたそして初めは専ら武道に没頭され文字に疎かったが為15歳の時君主の参勤交替に従って江戸に上るに際し其母は先生の無学を嘆じて無筆に同じくして他郷に於ける勤事に当り不自由ならんことを愁ふと言ったを甚だ尤至極と考へ江戸に上るや間もなく当時の学者佐々木文山の門に入りいろは文字より習ひ始めた文山は驚いて余の門人一千人に及ぶと雖いろはより始めるは小一人なりと呆れたが其年より在府3年間精力を盡し遂に能書となり藩邸中弟子の礼を執る者が多かったといふ。

 中西岩樹先生の林六太夫の解説で、「剣道居合は荒井二代目の勢理直伝にて意を極め」と有るのですが、第8代荒井勢哲の二代目は荒井勢理だそうです。この荒井勢理とはどの様な人物なのか、どの様な文献もしくは説話から出されたものなのか、私は知りません。中西岩樹先生が昭和8年1933年土佐史談会発行の冊子に無雙直傳英信流居合に就いてと云う論文を書かれています、其処に「南路志は、守政の養子10代林安太夫の物語りとして、守政の居合剣術は荒井二代の勢哲より直伝なりと記し・・。」とあります。荒井勢哲の後は荒井勢理なのかは見えません。南路志の原書に因って確認して見る方法も有ろうかと思いますが、南路志自体も信頼できるものかは疑わしいものでしょう。土佐のお国自慢の裏附けの一つぐらいで良いのでしょう。

 林六太夫守政は平尾道夫氏の土佐武道史話では享保17年(1732年)7月7日70歳で没したとされています。土佐史談では7月17日なので土佐武道史話が誤植かも知れませんが亡くなった月はともかく日にちはどうでもいいでしょう。

 平尾先生の土佐武道史話では山内5代に仕えたとされています「豊昌・豊房・豊隆・豊常・豊敷」ですが中西岩樹先生は「第4代藩主豊昌・第5代豊房・第6代豊隆公三代の藩主に仕へ」とされています。第7代豊常の時には隠居し第8代豊敷の時に亡くなったと解釈するのかも知れません。

 水野流、田宮流居合が土佐ではすでにあった所に林六太夫の居合が広まった様に書かれていますが、之も英信流を引き立てるだけの挿入かも知れません。江戸に参勤交代のお供で出れば江戸の剣術道場は幾つもあったのでしょうから特に藩として取り上げなければ個人の自由だったかもしれません。
  

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2019年8月15日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の2

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政
24の6居合術教士県道錬士中西岩樹の2

 先づ林六太夫守政先生までの直系を掲げてみると次の通りである。池田豊後・助五郎政弘・助五郎政勝・権吉郎政久・市兵衛政友・五左衛門政良・六太夫守政
 即ち先生は池田豊後五代の孫五左衛門政良が子である。
 池田豊後は大和の人で一條家に仕ふる武士であったが混沌たる乱世の文明年間(1469~1487年)一條房家が土佐に国司として下向するに及び男助五郎政弘と共に之に随ひ弊多郡中村に来たり後政弘を留めて其身は又再び大和に帰って行った。
 政弘は宗閑と號し爾来一條家に仕へている中槿花一朝一條家が久しからずして滅亡し豪族長曾我部氏興るにおよび其子助五郎政勝之に仕へ兵部と称し後従軍して戦死し当時7才であった子の戌之助が跡を嗣いで元親に仕へ権吉郎政久と名乗り高知城東布師田に所領を賜ふて處士となり南隣大津に居住していたそして長曾我部氏没落して山内氏土佐に封ぜらるゝに至り子の市兵衛政友が之を嗣ぎ承応年間死没した後子五左衛門政良が山内氏に召出され御料理方となるに至った此の五左衛門政良こそ仍(乃ち)林氏の初めである。
 而して姓を林氏に改めた政良は萬治3年(1661年)山内二代の藩主忠義公の命により礼節を其宗家伊勢家に学び寛文10年(1671年)4代豊昌公の時宗邑80石を給ふて御扈従格に進められ御料理頭を命ぜられたが延宝3年(1675年)4月晦日病死したので翌5月晦日六太夫先生が跡を嗣ぎ城南八軒町に居住した。

 文明年間と云えば1469年~1487年ですからたった11年間です。12代足利義尚の時代、応仁の乱の後土佐に入り土佐一條家を成したそうです。その一條家に従って林姓の元の姓である池田豊後が随身して土佐に下った。池田豊後は郷里大和へ帰ってしまい、子の池田助五郎政弘を土佐に残して置いた。そんな中で「槿花一朝」ムクゲの花の様に朝咲いて夕べには萎れる様に「はかない夢を見た様に」土佐一條家は滅亡してしまった。
 林六太夫の父池田五左衛門政良は土佐藩主山内氏に召されて御料理方となって居ます。年代は明らかでありませんが承応元年1652年から明暦3年1657年の間でしょう。萬治3年1660年には2代藩主山内忠義公から80石賜っています。延宝3年1675年に没しています。其の年林六太夫は後を嗣でいます。

 

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2019年8月14日 (水)

曽田本その2を読み解く24スクラップ居合英信流の恩人林六太夫守政先生24の6中西岩樹の1

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ居合英信流の恩人
林六太夫守政先生
24の6居合術教士剣道錬士
中西岩樹先生の1

 大森流、長谷川流、長谷川英信流と言っても所詮は無雙直傳英信流の事である。
 私共は之を単に英信流と略称しているが現下各流居合の中で最一般的に広く且又最多数の同好者を以て研究されているのは即ち土佐を振出しに興隆した此の居合である。
 而して当流が他の何処の国にも残存伝統していないにも拘わらず唯独り南海の僻遠土佐の国に之が残存して彼の明治初期乃至中期の武道頽廃の危機に際しても幸に其絶滅を免れ現代迄伝統して来たことについては
1、伝へられた土地柄が建依別の古称ある尚武の国で人間が総体男性的であり武張っていること。
2、伝へられた居合が他の武道附属のものでなく一貫の系態を整へた独立独歩の居合道にして衆に勝れていること。
3、それが殆ど山内氏の家臣に依って伝統され藩公又文武の道場たる藩立の文武館(後致道館と改む高知市桜馬現刑務所所在地)に於ける課目の一と為し極力其指導奨励に意を用ひられたこと、の三条件が揃って其因を成して居り又何故早く世に表れなかったといへば
1、前述の如く伝統者の殆ど総てが山内公の家臣にして藩外の者に伝授する自由や機会を得ていなかったこと。
2、交通不便なるに加へ当時の事情が鎖国的であったこと。
3、維新後は一般的に武道が衰微し他より伝授を受けに来る者無く又稀に有っても未だ他国者には一切伝授せぬといふ気風が残っていて機運が熟していなかったこと。等に基因しておるのである。
 私は今内地に於ける斯道の旺盛なる発展振りを聞き当流の歴史を回顧するときに之を直接世に紹介して今日興隆の基を造られた恩人故大子敬(正治)細川善馬(義昌)両先生の事及び少し遡って其絶滅の危機より救はれた恩人故板垣退助伯の事績を衷心より有難く思ひ感謝の念に堪えないのである。
 此の先生方の事に関しては既に前回一度述べた事があるやうに記憶するので今回は更に其昔に遡り最初に此の居合を土佐に伝えへた恩人林六太夫守政先生のことを少し述べてみやうと思ふ。

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中西岩樹先生

 土佐の料理人頭であった林六太夫が藩主の参勤の際江戸に伴われて、当時江戸で道場を開いて居た荒井勢哲に居合を習ったのでしょう。どれくらいの期間江戸の居られたかは分かりません。せいぜい3年程度のことでしょう。併し幼少の頃より武術を嗜んでいれば十分ともいえる期間かも知れません。
 土佐藩内に認められ居合が定着したのは1800年代初めの事で明治維新まで50年か60年の事と推察します。居合術だけならば形を学べば、家で畳一帖も有れば稽古可能です。
 土佐の居合が、江戸時代に日本全国に普及しなかったのは、江戸での道場開設が荒井勢哲以降消えてしまったと想像できます。其の上習いに来ていた門人も下級武士が専らでしょうから、個人の域を超える事は出来なかったでしょう。荒井勢哲以外に藩から出て江戸に道場を開く程の剣客を生み出せなかったこともあるかもしれません。
 明治維新以降の剣術の衰退は当然の事で、板垣伯による土佐に残そうとする推進が寄与した事は大きそうです。それが寄与して土佐の中学校での稽古が始まっています。
 維新後土佐から職を関東関西ひいては全国に移さざるを得なかった土佐の下級武士個人個人の時代背景も土佐の居合が土佐を出て行った背景にある筈です。この中西岩樹先生の論文が何時何によって発表され曽田先生のスクラップになったのか、曽田先生はその事が分る事を残して居ませんからわかりませんが、恐らく昭和5、6年から昭和15、16年のことでしょう。其の頃から大阪の河野百錬先生が八重垣会を仕切られていたと思います。曽田先生は昭和25年には亡くなられていますから、時代を思えば戦前のものと云えそうです。
 お国自慢が居合に寄せられ強いのも、薩長に牛耳られていま一歩政権に満足できなかった土佐にとっての自慢できるものだったのでしょう。

 以下次回
 

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2019年8月13日 (火)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の9

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の9

 明治になって有名なのは細川義昌氏であらう。鶏卵や米粒の如きものを見事に両断した程、入神の技だったそうである。大正12年2月23日75歳で物故したから、其技を實見した人々も少くあるまい。維新の勤王家松島隆成氏も長谷川流の達人であった。畳一枚の席上で、蝋燭に点火し、柄頭三寸の距離で気合と共に之を薙ぐ。即ち燈心を半ば切払って、火は依然として燃えて居たと云ふ。宮内省に出仕して居たので、明治大帝の御召により、御前に於て此神技を試みたが、後ち帝国大学から学生のために演技を望まれた時は、「余の武道は見世物ではない」と言って跳ねつけた。是は私が直接遺族から承はった話である。松島氏は明治33年59歳で他界した。大江正路も有名だったが、先年長逝し、現今では其の門下生穂岐山波雄・中西岩樹・竹村静夫の諸氏が居合術教士として活躍して居る。流技は就れも長谷川流とその分派大森流。
 伊藤芳夫氏の報に拠れば、抜刀の始祖林崎甚助重信の後7代長谷川英信に至り、所謂長谷川流起り、8代荒井勢哲、9代林六太夫・10代林安太夫、11代大黒某(是より谷村派出づ谷村亀之丞か)、12代坪内某、13代島村某、14代松吉某、15代山川某(久蔵か)、16代下村某(茂市か)、17代細川義昌を経て18代が現警視庁師範中山博道氏である。以上を以て観ても長谷川流居合と土佐との関係は浅くないが、更に調査を進むることを得れば、一層その密接なるを確める事ができやう。以上は寧ろその一端を明らかにしたのに過ぎないのである。
 註1、系統に関しては、伊藤氏の御教示を主に武術流祖録、本朝武芸小伝、日本中興武術系譜略を参観した。
 註2、個人の伝は土佐国人物志、土佐伝人伝、後侍中祖書系図牒、手抄を主に、高知県武徳会井上衛氏の報告。及び私の見聞を加へた。本文中要所にはその出自を挙げたので、煩を避けて盡く之を示さない。

 この平尾先生の土佐史談は昭和7年1931年のものだろうと思います。細川義昌先生の蝋燭の芯を薙ぎ切った話が松島隆成氏の行為に読み違えそうになる、その文章力には「ちょっと」と云いたいのですが、私も似たようなものです。松島隆成に就いては聞いたことがありません。大江先生は昭和2年1927年76歳で没しています。この雑録の5年前の事でしょう。
 伊東芳夫氏は山形県楯岡の人ですから、林崎神社の辺りの人です。土佐の居合の系統迄よく知ってはいなかったのでしょう。谷村派と下村派が混在してしまっています。荒井勢哲までは江戸での無雙神伝重信流でもいいでしょうが、土佐に入ってからは無雙神伝長谷川流(英信流)でしょう。
 平尾先生は土佐の居合を「長谷川流」と云っていますが、土佐での呼び方は「英信流」の方が強かったかもしれません。現代では「英信流」それも「無双直伝英信流居合兵法」だそうです。「無双直伝」は何処から持ってきたのか、大江先生によると云われている様ですが、さて。
 平尾先生の資料は江戸時代のもので広範な流祖に就いて書かれたものですが、史実とは云えない箇所も個別にはあるので、全面的に信頼は出来そうにありません。寧ろ土佐内部にまだ眠っている資料があると思うのですが、明治維新による無用な反故に過ぎなくなり、更に高知空襲で焼失、戦後の核家族化による家の歴史観念の欠如は高知だとて資料は少なそうです。

 平尾道夫先生の雑録を終ります。
 

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2019年8月12日 (月)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の8

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の8

 山川氏の如く、居合術を以て芸家として身を立てた者には、下村茂市(定)と、下村衛守(盛正)がある。前者は小児科医下村宗真の子で嘉永5年正月12日居合術体術を以て召出され、後者は下村庄右衛門の子で、文久3年4月15日居合術を以て召出された。共にその導役を拝命し、致道館に於て子弟の教導に任じたのである。谷村亀之丞に就いては已に第6節に述べたから、此所には反復しない。
 右の如く斯道の隆盛を極めた事は、一に林・山川・谷村・両下村等諸師家の努力に基づくことは勿論であるが、之を奨励した藩主の隠れたる力を看過する事は出来ぬ。山内家第15代豊信公、即ち容堂老公は、人も知る如く文武兼備の方であったが、居合術には谷村亀之丞に就いて殊に熱心だった。板垣退助伯が、嘗て史談会に於て公の行実をかたったものに、左の一齣(ひとこま)がある。
 (上略)それから抜刀術をやりました。土佐の居合は槍術剣術に附随した居合でなく、専門の居合術であって、大森流、長谷川流などあり、長谷川流の奥居合といふものが12本附いて居りますが、それを好んで能く抜きました。7日7夜居合の稽古をしまして、臣下の者多くは皆倒れて、其間続けて容堂の相手をして居た者は、二人か三人しかなかったそうであります。(史談速記録223輯)

 山川久蔵幸雅は文政3年1820年に藩から居合指南役を命ぜられています。
 下村茂市が召し出されたのは嘉永5年ですから1852年の事です、其の翌年には米国のペリーが浦賀に来航しています。
 谷村亀之丞自雄は天保8年1837年に稽古扶持として3人扶持を賜り、天保15年1844年には芸家として取り立てられ、文久2年1862年には導役となって居ます。江戸時代末期の50年程の期間が土佐での居合の隆盛期だったように思えます。
 
 平尾先生の土佐武道史話によると、容堂公が谷村亀之丞自雄を師として居合に励み弘化元年1844年に根元之巻と目録を受けているとされています。この頃には複数の者に根元之巻と目録が授与されていたのでしょう。第15代谷村亀之丞自雄から根元之巻及び目録を受けた者は、山内容堂、楠目繁次成栄、五藤孫兵衛正亮という事でしょう。
 

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2019年8月11日 (日)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の7

曽田本その2を富み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及
24の5平尾道夫の7

 林氏の門に出でて、最も其名を謳はれた者に山川久蔵がある。名は幸雅、もと錠八とも称した。山川久右衛門幸艦の二男で、同姓武八包祝の跡を継ぎ、格式は馬廻末子、三人扶持の小身であった。林氏との関係に就き、「手抄」24巻に左の如き噂を載せてある。
 山川久蔵も長谷川流を数年相学び、益之丞(政誠)氏或は彌太夫氏より抜刀の傳授(皆傳なるべし)致し申すべき約諾に相成る処、久蔵いかなる所存に変れるや、総て受取りに参り申さず、相わからざる事也。夫より林氏、山川氏とは疎遠に打過たる。其後久蔵は門弟を取立師家に成れり。長谷川流の傳書は何方より授かりしにや、林氏の傳書と違ひたるよし、或人より承はる。
 これは非常に興味ある問題だが、如何ながら私は之を解説すべき資料を得ず、妄に想像する事も憚かられる。山川久蔵は文政3年正月9日、藩から居合術指南役を命ぜられ、其心掛厚きを以て切符拾石を加増された。弘化3年2月9日には、老齢の故に指南役を辞退し、幾くもなく嘉永元年10月8日病死した。同苗古文次の子鋼八幸永が跡を相続したが家督は継いで居ない。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によると、「谷村亀之丞と同時代に山川久蔵(幸雅)が居合師家として活躍していた。是は林彌太夫の門人だったが、いつしか林家をはなれて別に伝書をうけ、門人を教えるようになったので当時の世評にもなったが、その系譜をたどると山川久蔵から松吉某、島村某、坪内某とさかのぼって大黒元右衛門に至るそうである。すなわち大黒元右衛門は伝書を林益之丞にゆずると同時に坪内某にもあたえたわけで、楠目盛徳は山川久蔵のことについて「長谷川流の伝書は何方より授かりしにや。林氏の伝書とは違ひたるよし或人より承る」と、その随筆手抄に書いている。これがいわゆる大森流ではなかったか。
 山川久蔵は、その伝書を下村茂市(定)にゆずり、細川義昌を経て、昭和初期に警視庁の剣道師範として知られる中山博道に及んだそうで、多年土佐にその伝統をつないだこの居合伝は中山博道につたわることによって県外に出たわけである。」

 山川久蔵が手に入れた伝書は第11代大黒元右衛門が第12代林益之丞政誠と、また一方で第12代松吉貞助久盛にも伝授された事があったと云う事で、事実はどうでも納まったのでしょう。
 林益之丞が受けた伝書と、松吉貞助の受けた伝書が違うと云う事で、平尾先生は大森流がどちらかに無かったのではないかと仰っていますが、その根拠が不明です。今手元にあるものは山川久蔵系統のもので、其処には大森六郎左衛門は林六太夫の剣術の先生だった、その先生がもたらした大森流居合だと記されています。
 「此居合と申すは大森六郎左衛門之流也、英信流に格段意味相違無き故に話して守政翁是を入候、六郎左衛門は守政先生剣術の師也真陰流之上泉伊勢守信綱の古流五本の仕形有と言」と云う事でもし平尾先生の想像が正しければ林益之丞に伝授されたものには大森流は無かったかもしれません。
 それよりも、林益之丞系統から出たと云う伝書の存在が判りません。松吉貞助系統の細川義昌先生からの伝書は木村栄寿先生に依って公開されていて、私の曽田本と神傳流秘書等同じ内容のものです。
 土佐の居合が中山博道先生によって土佐を出た以前に第16代五藤孫兵衛正亮先生の門弟森本兎久身によって中山博道は土佐の居合を学んだし、大江正路先生と共著の剣道手ほどきによって堀田捨次郎より土佐から出ています。
 土佐でもこの居合の正しい伝承はよく解らない。判らなくなってしまったほど明治維新は多くの日本の伝統文化を抹殺して来たと云えるのでしょう。

 

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2019年8月10日 (土)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて24の5平尾道夫の6

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及に就いて
24の5平尾道夫の6

 林安太夫の門弟では、渋谷和平次勝壽と云ふ者が妙手であった。槍術家の新國彦九郎に一寸計の杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して唯の一度も彦九郎に疵をさせなかったので、見る人はいづれも「抜き手も抜きて、杭の持ち手も持ち手」と感賞せざるはなかったと云ふ。御小姓格渋谷彌五平勝胤の嫡子で、まだ相続しない内に明和9年5月10日を以て病死した。林彌太夫の門弟では、生駒彦八正持・棚橋左平太長序・谷村亀之丞自雄等が有名である。楠目成徳が此三人評したものがある。
 林彌太夫政敬先生の門弟に、生駒彦八、棚橋左平太、谷村亀之丞の三人は、抜群の抜き手也。皆大男にて、左平太が技前は業小なれども豪気なる居合也・彦八は業大きく行込み、強く錬熟したり。亀之丞先生も彦八氏と同じく上手也。彦八氏、亀之丞氏とは技前勁敵なるべきなれども、打見たる所は彦八氏の上に立たんことは難かるべきか。猶諸人の高評を俟つ。(手抄25)
 亀之丞は谷村久之丞自凞(じき)の二男で、居合の外に馬術にも達し、天保8年稽古扶持として三人扶持を賜った。同15年には同流の芸家として取立てられ、文久2年にはその導役となって居る。彦八の父生駒道之丞正脩之丞正脩も斯道で相当知られて居た。

 居合抜の妙について、「一寸ばかりの杭を二本指に挟ませて置いて、之に抜付けたのに、見事両断して」と有るのですが、現代居合でこんな事が出来る人はいるのでしょうか。一寸と云えば3cmそこそこ、杭とは楊枝のようなものと思えばいいのかも知れません。この様な芸当はともかく、抜き付けるべき部位にピタリと抜き付けるのは至難の業です。現代居合の抜き付けは正坐の部一本目前ですら、敵の右肩から首こめかみと相手の動作によって動く位置を特定していますが、抜き付けの動作では腰を延び切って、抜き付けた右拳の位置は右肩の高さで斬り付けた刀刃水平に走らせています。こんな抜き付けで動く高さの目標に斬り付けられる訳はありません。斬り付ける相手の部位など、据物同然の抜き付けです。形に拘り過ぎて役立たずの稽古法が問題なのかとも思えます。根元之巻では勝つ部位は敵の拳です。
 古流剣術の抜刀を稽古していますが、相方に小手を着けてもらい斬り込んでくる小手に抜き付ける稽古をしています。或は抜刀せんとする小手に下から抜き付けています。抜刀してからの剣術でも小手に斬り込むとか右面左面目標物に見事に斬り込むもので、動く相手の太刀をかわして小手に斬り込むわけで、現代居合の様に抜き付けたフィニッシュの決まった状況を優先してしまいますと目標など無いも同然なのかとも思います。
 この、雑録にある見事な両断は稽古次第で出来る様になれるかもしれません。出来ると思えない人には出来るわけはないでしょう。動かない仮想敵を相手に稽古している様では無理でしょう。ましてかって指導を受けた先生の様に仮想敵は修行の末に現れるなどの嘘つきには絶対に無理なことです。

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2019年8月 9日 (金)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史談雑録長谷川流居合と土佐の於けるその普及について24の5平尾道夫の5

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史談雑録
長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の5

 居合術は荒井勢哲に就いてその奥義を極めたが、之は六太夫の表芸で無かったから、別に師匠役などの任命はなかった。併し個人として之を門弟に授けた為めに、此以後長谷川流居合は小栗流無外流などの間に在って、非常な勢いを以て普及し、且発達した。六太夫の子安太夫政詡を経て、六之丞政長、其弟益之丞政誠彌太夫政敬、益之丞政護など、師家にはならなかったけれども能くその技を伝へて居る。益之丞政護の養子となった亀吉茂平は、維新の志士として一地歩を占めて居る事は人の知る所であらう。
 六太夫の二男脩之丞正靖は、甚三郎と改めて小栗流師家足立茂兵衛正藹の後を継いだ。益之丞政誠の二男(彌太夫政敬の弟)八郎次政承も抜群の聞え高く、文政13年正月22日其技を以て特に召し出され、三人扶持御馬廻り末子に列し、屢々藩主豊資公の感賞に與ったが、後ち池田和太夫と改名、天保2年7月18日病死して、後は断絶した。楠目成徳の「手抄」24巻には、「林氏は芸家にはなけれども、代々長谷川流抜刀の術を伝へ、林六太夫守政、林安太夫政詡、林益之丞政誠は抜群の上手にて、門弟も数十人之有り」とあり、同書25巻には「文政の頃林八郎次彌太夫の弟と云人、長谷川流奥居合を能く抜得て、八郎次八郎次と諸人に称誉せられ、並の居合は少しあかぬ所ありと云へり」と見えて居る。以て林氏一門が同流の普及に如何に功績があったか察するに難くない。

 この林家のメンバーを現在言われている道統に従って並べてみると以下の様になります。
 9代林六太夫守政ー10代林安太夫政詡ー(11代大黒元右衛門清勝)―12代林益之丞政誠ー(13代依田萬蔵敬勝)―14代林彌太夫政敬ー(15代谷村亀之丞自雄)―(16代五藤孫兵衛正亮)―(17代大江正路子敬)・・。

 平尾道夫先生の土佐武道史話によれば、第9代林六太夫守政の妻は大黒茂左衛門勝盛の娘で、二人の子をもうけて助五郎政彬と縫之丞正靖(脩之丞正靖)であったが幼少の為、安田道玄という医者の次男をもらって家督と居合伝授を授けた。これが第10代林安太夫政詡である。名字から推し測れば、第10代林安太夫の後は、第9代林六太夫の妻の実家大黒家から第11代大黒元右衛門清勝が道統を継いだのでしょう。
 第12代林益之丞政誠は第10代林安太夫の子であったかこの平尾道夫先生の著となる土佐史談と土佐武道史話だけでは読み取れませんが、恐らく12代は10代安太夫の子であったろうと思いたいのは私の勝手です。
 第13代依田萬蔵敬勝は何処にも其の謂れが無いのでわかりませんが、第12代林益之丞政誠の長男が第14代林彌太夫ですから12代の後は弟子の中の優秀な者であって、その後は林家に戻され林彌太夫が14代になったのでしょう。
 それ以後は優秀な弟子が選任されたと思われます。

 第17代大江正路先生は大黒元右衛門の後に分離した下村派の第14代下村茂市定の弟子でしたから、谷村派の第16代五藤孫兵衛正亮の後を継ぐ事が出来たか疑問ですが、五藤正亮亡き後、引き継いだ谷村樵夫自庸も亡くなってしまい、維新後の事なので其の辺の事は幻の中なのでしょう。家は継ぐ事は出来ても芸事を血筋のみで引き継ぐ事は大変難しい事でしょう。それは現代の方がより難しくなっている様にも思えます。 

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2019年8月 8日 (木)

曽田本その2を読み解く24スクラップ土佐史伝雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について24の5平尾道夫の4

曽田本その2を読み解く
24、スクラップ土佐史伝
雑録長谷川流居合と土佐に於けるその普及について
24の5平尾道夫の4

 長谷川流居合を土佐に傳へたのは上述の如く林六太夫守政である。林氏の祖先は池田豊後と云って、大和の人、文明中一條房家公に随従して土佐に下り、豊後は間もなくその本国に帰ったが、嫡子助五郎政弘は留って一條家に仕へ、幡多郡中村に居住し、後、宗閑と称した。
 其子兵部政勝戦死した為め、孫権吉郎政久、七歳の時土佐郡布師田に移り、長曾我部氏に仕へ、後、浪人して長岡郡大津村に居た。
 其子市兵衛政友、承応年中に逝き、政友の子政右衛門政良初めて林氏を称し、山内家に仕へた。
 延宝3年4月晦日政良病死後、同年5月晦日その跡を襲いだのが六太夫守政で、知行80石、格式新御扈従、料理人頭と云ふ父の職禄も其儘承けたものである。豊昌公の時であったか、年時は不詳だが、淀川御通船の時さる大名と行逢って御馳走を出された時、六太夫が料理を承り、まな箸で銀の皿鉢を挟みながら、船から川水を掬って皿鉢を洗ふ手際が、頗る巧みで、諸人を嘆称せしめたと云ふ逸話も残って居る。
 よろず才能に秀でて、本職の庖丁は勿論、弓術和術剣術は総て印可を受け、謡曲楽鼓の末枝に至るまで諸芸16般を極め、孰れも人師となるに足りたと云ふ。就中故実礼節は伊勢兵庫に学び、書法は佐々木文山に習って、其奥を極め、累々典礼に関する書付けを上って、其都度感賞に與り、元禄10年には加増20石、同16年には更に50石を加へられて、都合150石を賜はり、宝永3年には大扈従に進み、御料理人頭を罷めて故実礼節方専門に仰付けられた。
 正徳2年には老齢によって大御扈従を免ぜられて馬廻になり、故実礼節指南の役は其儘勤仕したが、享保17年7月17日、70歳で城下七軒町の屋敷にその生涯を終るまで、豊昌、豊房、豊隆、豊常、豊敷5代の藩主に歴任し、君寵の衰へなかったのを見ても。如何に其人格の円熟して居たかを察すべきであらう。

 平尾道夫先生による土佐史談34の雑録の内容は、平尾道夫著昭和36年1961年発行「土佐武道史話」に長谷川流居合として整理され記載されています。
 少々気になったのは、土佐武道史話によると「はじめは知行80石で新小姓の格だったのが、後には160石の馬廻に昇進し、料理人頭から故実礼節方専門の指南役にまで出世した。太平の時節にこの様な昇進を見ることは異数の例で、それだけに彼の才能がいかにすぐれていたかが想像されるだろう。彼の名を後世に残す長谷川流居合は、実は六太夫にとって余技にすぎなかったのである。六太夫は城下八軒町に住んでいたが、享保17年(1732年)7月7日に70歳で亡くなった。・・」扶持高10石の違いと17日の死亡日が7日の違いが気になりました。
 林六太夫にとって余技に過ぎない長谷川流居合を、神傳流秘書をはじめ多くの目録秘訣を林安太夫に伝え残された事には並々ならぬ能力をお持ちだったと驚くばかりです。

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