道歌4無外流百足伝

2020年4月15日 (水)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の40一つより百まで

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の40一つより百まで

無外流百足伝
一つより百まで数へ学びては
       もとの初心となりにけるかな

 無外流真伝剣法訣の十剣秘訣の十番目は「万法帰一刀 問うて云く万法一に帰す、一とは何処にか帰す、答えて云く、我青洲に在って一領の布衫を作る、重き事七斤。 更に参ぜよ三十年。円相文字の沙汰にあらず。附短剣法就中三有りて三無し各三」
 これは中国宋の時代の雪竇重顕禅師(せっちょうじゅうけんぜんし)による碧巌録第45則「挙す、僧趙州に問う、万法一に帰す、一何れの処にか帰す、州云く、我青州に在り一領の布衫を作る、重き事七斤、編辟曽て挨す老古錐、七斤衫重し幾人か知る、如今抛擲す西湖の裏、下載清風誰にか付与せん」による禅問答です。
 
 この意味は、万法は一に帰着する、一とは何かといえばで、仏教では「空」、ここでは「一」。趙州は答えて、われ青州に在る時一領の布衫(麻布)を作った、重い事七斤あったと答えている。一とは何処にあると問うのに答える趙州の答えも老古錐のように鋭い。この答えの重さを幾人が知ろうか。それを西湖に投げ捨ててしまった。一切の重荷を下ろしてこの清風を誰に付与しようか。

 万法は重いから投げ捨てて初めからやり直すその清い心は素晴らしいよ、とでもいうのでしょう。
 この百足伝の歌は、一切の学びを得たものを下して、身軽になって元の初心に帰って学び直す心を歌っているのでしょう。学び直すとは言え全くの空では無く、新しい一からであればクルクル回る円相もスパイラルを描くのかも知れません。終わりなき修行とは進歩するもので、柳生新陰流の円相、習い・稽古・工夫とも通ずるものでしょう。
 然し、過去に習った或いは身に付けた、悟ったと云う事の上に重ねながら元に戻って習い稽古工夫するのではなく、総てを無にして初めからやり直してみる。それでなければ元の初心とは言えないでしょう。
 せっかく、他流を習うつもりが、自流のやり方を前面に出して己を認めさせようとする人が武術者の中にはなんと多い事でしょう。そんな人の進歩は全く遅く、気が付いた時には幾つも歳を無駄に重ねてしまいます。

 千利休宗易の歌に「稽古とは一より習い十を知り十より帰るもとのその一」と云うのがあります。「元のその一」、と「もとの初心」の意味を紐解く時、一とは元の一では無い筈です。「いやいや、何もわからずに始めた事だから、師の教えを理解されないまま抜けたところも沢山ある、再び初心に帰るのだ」と云われても、師も元の師ではありえない、また既に師は他界して居るかも知れません。己も又本の我とは言えないでしょう。然し「万法一に帰す」。
 過去の自分に固執する事無く、人の顔色を窺う事も無く「万法一に帰す」で無ければ、悪習を塗り立てるばかりで何が本物かもわからなくなってしまいます。
 中川申一先生は、死の間際に「宗家などと云う因習は、僕で最後にしなさい。後は皆で話し合って仲良く。是でお終い。アーメン」と言って息を引き取られたそうです(百足伝を読まれた無名さんからのmailにより2020年4月14日追記)。
 此の事をどの様に考えるかは百足伝を読まれた方にお任せする以外に有りません。
 無外流の流祖辻月丹が残されたものは「無外流真伝剣法訣」及びその中の「十剣秘訣」であってどこにも居合の形を残されていないのです。

 無外流百足伝40首を終ります。

 無外流居合は新田宮流から派生した自鏡流の居合とされています、古伝無雙神傳英信流居合兵法とも何処か根底で繋がるものがあるかもしれません。
 流派を越えて修行する事が憚られるような雰囲気が漂うのは、本物を求める武術修行には不必要です。自流の他道場への出稽古すら嫌ったり、他派の運剣を学ぶ事すら嫌う、他連盟への介入すら法度にする狭量を聞く時指導者は何を指導して居る事やらと思うばかりです。
 他流を知り自流を見直すそんな修行者でありたいものです。たとえ木刀や真剣を携えて学ばず共得られるものは多いものです。

 中川申一先生の無外流居合兵道解説には大変多くを教えられました。あえて無外流の先生方の教本や歌の解釈を流用致して居りません。ミツヒラの「思いつくままに」無双直伝英信流と柳生新陰流の教えから百足伝を紐解いて見ました。

 お気づきのことがありましたら、ご教授頂ければ幸いです。
 無外流「百足伝」を終ります。明日から柳生石舟斎宗厳の兵法百首を学んで見ます。

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2020年4月14日 (火)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の39兵法は君と親との

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の39兵法は君と親との

無外流百足伝
兵法は君と親との為なるを
      我が身の芸と思ふはかなさ

 兵法は主君と親の為に、死力を尽くして戦う修業をするもので、我が身の為の芸だと思うのでは、心に帰す事も無くむなしいものだ。

 「はかなさ」は不安定である・しっかりして居なくて頼りにならない・なすこともなくむなしい・物事の度合いなどが僅かである・ちょっとしたことである・かりそめである・粗略である・取りつき所がない・そっけない・ばかげている・つまらない・命が絶えたさまである。広辞苑ではこの様に解釈されています。

 この無外流百足伝は中川申一著無外流居合兵道解説によれば「自鏡流祖多賀自鏡軒盛政が門人を指導する毎に人体の差別を見て、指南した口受である。」無外流祖辻月旦は居合を自鏡流の多賀自鏡軒に学んでいます。
 辻月旦は、慶安2年1650年生まれ享和12年1813年に没しています。165歳になりますから疑問です。享和は享保の誤植でしょう。
 宝永7年1711年(61歳)に第6代将軍徳川家宣にお目見え予定が反故になり、天和2年1683年34歳の時江戸で燈明の火を切先で3度消した逸話がある。79歳ごろ(享保14年1729年ごろ)から病を得ているとされています。

 ここでは、自鏡流祖多賀自鏡軒盛政の居合は塩川寶祥監修無外流居合道連盟編著による塩川寶祥の武芸極意書真伝無外流居合道に依れば、「新田宮流祖和田平助正勝の高弟」とされています。
 いずれにしても、江戸時代前期後半の教えと云えるでしょう。寛永14年1637年島原の乱、元禄15年1702年赤穂浪士の討ち入りなどが見られますが、君主の為の兵法の行使は既に乏しいもので、この歌のような「何のために兵法を学ぶのか」が問われる時代だったかもしれません。
 現代は更にこの思いは強いもので、君は国そのものであり、寧ろ地球に住まう人々の平和を願い行使する事も疑問視されなければならない時代です。
 そうであれば、この歌のこころは、我が身の芸を殺人の為の武芸を学ぶ事によって、心と体の一致を学び、その極意から、利害の異なる人とも和す事を学ぶものであってほしいものです。それは別の事で充分身に付けられているならば、日本武道文化の正しい継承者としてあるべきでしょう。近年は、スポーツとしてアスリートを目指すが功成り名遂げることもならず、引退後は体がガタガタになっているのを多く見ます。無理な筋力増強や体の使用では無く、日常の身体操作で容易に体力を維持でき、奥義に至る過程の進歩も感じられる武術の稽古は、新しい体育知育の糧としても有効です。
 特に一人で畳二畳ほどもあれば稽古できる居合は有効なものでしょう。
  

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2020年4月13日 (月)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の38性を張る人

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の38性を張る人

無外流百足伝
性を張る人と見るなら前方に
       物争いをせぬが剣術

 自分本位の考えを突っ張って来る人と見たならば、前もって争いごとをしないのが剣術である。

 この歌はこの様に読んで見たのですが、武術は人間のコミュニケーションの最終手段であれば、最終手段を行使せずにコミュニケーションが取れて、互いを理解して和すことが出来れば「和を以て尊しとなす」という事になる訳です。
 しかし、人との付き合いの中で、無理やり人に自分の考を押付け従わせようとしたり、権威をかさに権力をふりかざしてきたり、元々性格が合わないとか、様々な出会いがあるものです。
 そんな時、事前に其れが分っているならば、其の人とは、争いごとをしないのが剣術の極意だというわけです。そんな人と知っていれば、付き合わない、接触しないとするわけにはいかないのも人の常です。
 然し最初から避けて通る事などなかなかできるものでは無いでしょう。上手に往なすと同時に打つ事も古流剣術では当たり前のことです。この歌を示された無外流の修行者は兄弟子や同輩に抑え込まれて居すくんでいたのでしょう。それが稽古にも表れて何をしているのか解らなくなっていたのかも知れません。

 土佐の居合で林六大夫守政がもたらした無双直伝英信流の古伝で無雙神伝英信流居合兵法の曽田本の最終章に「神妙剣」という教えがあります。「深き習いに至りては実は事で無し。常住座臥に之有る事にして、二六時中忘れて叶わざる事なり。彼怒りの色見ゆるときは直に是を知って怒りを抑えしむるの頓智(叡智?)あり。唯々気を見て治る亊肝要中の肝要也。是戦に至らしめずして勝を得る也。然りながら我臆して謝りて居る事と心得る時は、おおいに相違する也。兎角して彼に負けざるの道也。止める事を得ざる時は彼を殺さぬ内は我も死なずの道也。又、我が誤りも曲げて勝には非ず。謝るべき筋なれば直ぐに謝るも勝也。彼が気を先に知ってすぐに応ずるの道を神妙剣と名付けたる也。委しくは書面にあらわし尽くし難し。心覚えの為に其の端を記し置く也。」
 この教えは、「性を張る」相手と武術での争い事となる前に察知して和する事を極意としています。私の出合った性を張る人は権力をかさに私を追い出しにかかってきました。そんな人と付き合ってるのも馬鹿らしくさっさとおさらばしてしまいました。今頃どうしているでしょうしっかり稽古出来ていればいいのですが。

曽田本居合兵法の和歌
 居合とは人に切られず人切らず
       唯請とめて平らかにかつ
 居合とは心に勝が居合也
       人と逆うは非刀としれ
 いかに人腹を立てつつ怒るとも
       拳を見込心ゆるすな
 無用なる手詰の論をすべからず
       無理の人には勝って利は無し

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2020年4月12日 (日)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の37剣術は何にたとえん

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の37剣術は何にたとえん

無外流百足伝
剣術は何にたとえん岩間もる
      苔の雫に宿る月影

 剣術は何に譬えたらいいのだろうか、岩間から漏れて来る月が苔の雫に宿るようなものだ。

 歌を其の儘読めばこのようになるのですが、歌い出しの、剣術は、苔の雫に宿る月影に譬えられるのだと歌っています。

 柳生宗矩の兵法家伝書では活人剣に「神妙剣は身の内の座取也」とあって、「心にて見るを根本とす。心から見てこそ目もつくべき物なれ。然れば、目にて見るは心の次也。目にて見て、その次に身足手のはづれぬ様にするを、身足手にて見ると云う也。心にて見るは、目にて見む為也。目にて見るは、足手を敵の神妙剣の座にあてんといふ事也」と云っています。
 更に「こころは水の中の月に似たり、形は鏡の上の影の如し」と歌い「右の句を兵法に取用ゐる心持は、水に月のかげをやどす物也。鏡には身のかげをやどす物也。人の心の物にうつる事は、月の水にうつるごとく也。いかにもすみやかにうつる物也。神妙剣の座を水にたとへ、我が心を月にたとへ、心を神妙剣の座へうつすべし。心がうつれば、身が神妙剣の座へうつる也。心がゆけば、身もゆくなり。心は身にしたがふ物也。」

 剣術の極意は、苔から滴り落ちる雫に、岩間から漏れて来る月がうつるように、その月の影がうつるや、速やかに打ち込む事だ。と歌っているものです。
 無外流真伝剣法訣の十剣秘訣には「神明剣」により、「変動は常に無く敵に因って転化す、先に事を為さずすなわち随う」とあって、敵の変化を移しとって動くのだとしています。更に「氷壺に影像無く、猿猴水月を捉う」を掲げ、心を波立たせずに静かに、澄んだ心で相手の心を移しとって、感応するのだと云います。此処では業のあり様では無く、剣術とは、相手の動きを感じ取ってするものだと歌っています。

 宮本武蔵も兵法35箇条で「心の持様は、めらず、からず、たくまず、おそれず、直ぐに広くして、意の心かろく、心のこころおもく、心を水にして、折りにふれ、事に応ずる心也。水にへきたんの色あり。一滴もあり、蒼海も在り。能々吟味あるべし。」

水にうつる月の歌
田宮流歌伝口訣
水月をとるとはなしに敵と我心の水に澄むにうつらふ
うき草はかきわけ見ればそこの月ここにありとはいかで知られん

笹森順造著一刀流極意
水月之事
早き瀬に浮びて流る水鳥の嘴振る露にうつる月影
敵をただ打と思ふな身を守れおのづからもる賤家の月

曽田本抜刀心持引歌
水月の大事
水や空空や水とも見えわかず通いて住める秋の夜の月

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2020年4月11日 (土)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の36兵法をあきらめぬれば

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の36兵法をあきらめぬれば

無外流百足伝
兵法をあきらめぬればもとよりも
       心の水に波は立つまじ

 兵法を身に付けるのをあきらめてしまうならば、心は静まり相手を打ち負かそうと闘争心に燃え盛ったりするような、激しく波立つ事も無かろう。

 直訳すれば、こんな事かとも思えるのですが、特に兵法に志すことでもなく、日常の生活においても心は激しく波だったり、ひたひたと打ち寄せたり、鏡のように穏やかであったりするものです。

 「心の水」を兵法で見聞きする「水月」や無外流真伝剣法訣の十剣秘訣「水月感応」の氷壺の教えの「氷壺に影像なく、猿猴水月を捉う」などは、相手の動きを澄みきった心に捉え、即座に応じる事、と歌うのですが、兵法をあきらめてしまえばそんな事を意図する必要などない、とでも云うのでしょうか。
 日常生活でも、心静かに周囲の変化に慌てず、騒がず、適切に対応する心を磨いて置きたいものです。それは「あきらめ」で得られるものでは無く、信じた道を守り通す強い心と状況を見抜く洞察力によって得られなければならないでしょう。
 あきらめて自分の思いに蓋をせざるを得ない事も度々あるのも人生でしょう。然しそんな中でも、違う道から歩き出して小さくともやり通した喜びは大きなものです。

 この歌心は兵法に於いてと限定するのであって、人生における事とは違うよと言われるかもしれません。
 然し何のために兵法を学ぶのかを突き詰めれば、澄んだ心そのものが、「平常心是道」であるものです。そして移り行く影に瞬時に応ずる心を磨く事なのだろうと思います。移り行く陰とは、人の暮らしに影を射すあらゆる事象に心正しく応じる事ではないですか。兵法の名を借りて生き方を示唆してくれる歌と信じます。

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2020年4月10日 (金)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の35世の中の器用不器用

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の35世の中の器用不器用

無外流百足伝
世の中の器用不器用異らず
      只真実の勤めにぞあり

 世の中には器用な人も不器用な人も居ると云うが、どちらも異なるものでも無い、ただ真実のみを求めて勤めることが奥義に至ることである。

 剣術を始めると、直ぐに技の順番を覚えてしまうとか、その業の術理に近づくとか、器用な人も、不器用な人も居るようですが、その程度の進歩では大した差があるものでも無い。
 中には優れた素質を持っていても、剣術に対する思い入れが薄い人も居るものです。それが何時まで経っても稽古はサボりがちで、物覚えも動作も鈍いものが志し高く日ごとに励めばスルスルと差がついて行きます。
 差がつくとは武術に於いては何なんでしょう。真剣勝負が許されて日本刀での切り合いで勝つのに、形の稽古で見せた器用不器用がどれだけの意味をなすでしょう。竹刀剣道の当てっこが上手でも、それで勝負がつくでしょうか。
 武術は人のコミュニケーションの最終手段とも言われます。そこには器用不器用や上手下手などの事が遥かに及ばない、事のあるべき真実とそれを己の内に信じて接していく心のありようの方が遥かに強く訴えかけて来るものです。
 無外流の歌にはこの様な、人間本来あるべき姿を示唆する歌心が随所に見られます。無外流真伝剣法訣の十剣秘訣「萬法帰一刀」更に参ず三十年の教えが棒振りの良し悪しにのみ拘り続ける事から昇華出来るのでしょうか。「道法自然」に本物を求めて歩み続ける事こそ、道かも知れません。

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2020年4月 9日 (木)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の34屈たくの起る心

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の34屈たくの起る心

無外流百足伝
屈たくの起る心のいづるのは
       そは剣術になると知るべし

 業の動作がどうも上手く行かない、どうしたらいいのだろうなどと気にかかって仕方がない、それは剣術になり始めて来たと云えますよ。と歌っています。

 「屈託がない」のは気にかかる事が無い状態ですから、「屈託が起る」は気になる事があって、他の事に手が付けられない状況です。
 竹刀剣道でも、古流剣術の形の稽古でも、入門し始めは見たままを、然も勝積りで唯矢鱈早く打込んだり、木刀が当たるや押さえこんで見たり、とにかく、勝って見たいものです。
 勝たなければ稽古じゃない位の気持ちなんでしょう。特に試合慣れした竹刀剣道をやってきた人など、打太刀の打ち込む木刀を当てっこ剣道の癖で叩き落とそうと力任せに受太刀になって居付いています。受けるや握りが緩んでいますから、木刀を押さえられて摺り込まれてしまいます。
 古流剣術は受太刀に為らず、打太刀の打込みを当たり拍子に切り込むとか、往なして斬り込むとかするように教えられます。
 今まで、速い強いで結果を出して来たし、打ち込んでも当たらなければ何度でも、打ち込む部位や角度を変えても、同じ様な繰り返しをしています。其の内相手が受け乍ら隙が出来て打たれてくれたわけですから体がそうなってしまっています。
 竹刀剣道をやった事のない人でも、速く強くは人生の糧だったのか、その上勝気な人は、身に降りかかる危険は「がっちり受け留る」人生で生き抜いてきたのでしょうから、自然にそれが出てしまう。
 少し形の順番を覚えたようなので、打太刀に為って仕太刀の動きを知って、形の業技法を学んでもらおうとすると、何が何でも仕太刀を負かそうとしてしまい、当てっこの打込みや、仕太刀の応じる木刀を弾き飛ばそうと全身で力んでしまう。
 そうかと思うと、ゆっくり大きく正確に仕打共にやるのは良いとしても、其の業の術理を体で認識できていないので、「かたち」ばかりで全然役に立たない。誰でもそんな時期を初心の頃は経験されていると思います。
 それでも、続けているうちに何とか形に成り、同輩や後輩には業の術が決まるのですが、先輩には刃が立たず、師匠の前では何故有効に術が決まらないのか、将に屈たくが起って来る。中には打ち込まれた角度が鋭角だったり鈍角だったり、間合いが遠いだの近すぎだの、都合の良い所を望む様になって、それでも剣術って言いたくなります。
 先輩を超えても師匠に叶わない。師匠に決まっても、他流の人とやってみると意味すらなさないなど幾らでもあるものです。業の決まらない理由は相手に求めるより己の術理が充分認識され稽古も充分になって初めて見えて来るのでしょう。然し人には年と共に来る衰えがあるものです。それを知って業の真髄に到達できなければ、其処で挫折すると共に、衰えに拍車がかかるのでしょう。
 「屈たくの起り」はどうやら生涯ついて廻る様です。
 

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2020年4月 8日 (水)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の33馴るゝより習

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の33馴るゝより習

無外流百足伝
馴るゝより習の大事願くは
     数も使へよ理を責めて問へ

 前回の百足伝は「習ふより慣るゝの大事願くは数を使ふにしくことはなし」でした。
 前回が習うよりも教えられた動作に慣れる事が大事ですよ、それには何度も練習する事が一番ですよ。と言っていたのです。

 今回は、自分流で馴れるよりも、細かい所までもしっかり習いなさい、でも沢山練習もしたうえで、なぜ、どうして、こうしたらどうです、とか理屈で納得できるまで師匠に攻め込んでお聞きなさい。と歌っています。

 習っても、練習もしないで理屈ばかり言って居ても少しも上達できるわけには行きません。かと言って分かったとばかり練習ばかりしていても誤った癖がついて、業の持つ本来の術が全然決まらず、形だけ見事に見えるものも困ったものです。ポイントはしっかり習って、術が確実に決まるようにしたいものです。
 百足伝は中川申一著無外流居合兵道解説に依れば「この百足伝の40首の道歌は自鏡流祖多賀自鏡軒盛政が、門人を指導する毎に人体の差別を見て、指南した口受である。人に大小長短幼老貧富の差別ある故指導者はこの点に心を配り、その人に応じて指導すべきで、決して画一的に指導すべきではない。指導者の心得うべき事である。」と序を書かれています。
 まさにその通りでしょう、更に付け加えるならば人それぞれの資質や経験などによって一律的な指導は無駄な時間を過ごさせてしまい、指導者を超える名人上手を生み出すこともままならないでしょう。指導者は己の習い覚えた業技法の上を行く弟子を育て、尚且つ己の要した時間より少しでも早く上達できるように指導して、初めて指導者と云えるのでしょう。

 笹森順造著一刀流極意の一刀流兵法仮字書目録に「師の教えを守らずして自らの才知すぐれたるを以て、其の師の業を能く学ぶといえども、おろかに其の心を知らざる故、物におし移るかげの如し、其の心は我が形は分寸たがわず、動くをうごくといえども詞あらんには如何に詞あらんや、・・然る間、至らざるにして其の師の得たるを以て、おしえる所作を学ばずして、教えを深く慎み守るべき事」と習いの心得が示されています。形を真似ても、師の心を学ばなければ、それは物に写っている影のようなものだと云います。形は少しも変わらないが、心をとらえていないのでは意味はない。
 業を習ったがどうしても思う様に出来ない、そんな時には師が得たものを以て教えられ、それをしっかり学ばなければ習ったとは云えない。一般的には、形が出来て居れば師もよし、我もできたで終わってしまうでしょう。どうしても出来ない事には、師からそれを見て、師が其処を超えたやり方を教えるとか、師も超えられない事であっても、其処までの工夫は教えるべきものでしょう。それが教える事であり習う事で、其処から共に超えられれば素晴らしい事です。
 何故そうするのかの問いに、師匠から習ったと返されるほど、情けない人についてしまったと思うばかりです。

 

 
 
 
 

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2020年4月 7日 (火)

道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の32習ふより慣るゝ

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の32習ふより慣るゝ

無外流百足伝
習ふより慣るゝの大事願くは
       数を使ふにしくことはなし

 習うよりも慣れる事の方が大事、出来るならば数を稽古する事に勝る事はない。

 柳生新陰流の尾張柳生の柳生兵庫助利厳が元和6年1620年に尾張権大納言義利に印可相伝の際「始終不捨書」を進上しています、その始めに三摩之位という一円相に三等分の点を打ち習い・稽古・工夫の三磨を示しています。柳生新陰流道眼の著者柳生延春先生によると「どこまでが「習い」であるか、「稽古」であるか、どこからが「工夫」であるのか境界なく、その三位を一円相上に追及して、循環して端無き位として渾然一体と化するように円成し、出精してつとむべきであるとの習訓である」と解説されています。

 業の動作を習っても、其の動作に慣れなければ耳学問、眼学問で終わってしまうわけで、体にその動作が慣れなければ、業は一人で演じられるものではないでしょう。繰り返し練習して初めてわざの動作が一人で演じられる様になるものです。
 業の動作に慣れて教えられた通りに出来るようになると、私は「何故」の疑問が湧いてきて、こんな状況だったら、あんな時にはどうしようと思い出すのです。そこから習ったものを軸にして稽古が始まったものです。合同稽古では、訳知り顔の兄弟子が「違う!」とすっ飛んで来るので、何故の解決は稽古日以外の日に一人稽古を欠かさずやって来ています。此処では練習では無く稽古です。そして問題解決の工夫は手当たり次第に業技法のDVDや書物で勉強しました。出来ない時は他流の門も叩いてきました。
 
 恐らく百足伝のこの歌も、教えた業の動作を手取り足取り教わるばかりでなく、自分で教えられた技を繰り返し練習して其処から業の本質を見つけ出しなさいと歌っていると思います。師匠のコピーはコピーに過ぎず、命の吹き込まれていない形にしかならないものです。
 柳生新陰流の始終不捨書の三摩之位は、習い・稽古・工夫を夫々ぶつ切りするのでは無く、それらを渾然一体として身に付ける事を示唆しています。

 形の稽古で、十分その業が出来てもいないのに、形の要求して居る事以外をやったりするとたちまち手直ししに来る者がいます。「何故そうしたのか」を少しも考慮せずに、自分流を押し付けられても少しも役に立たないものです。慣れる事によって形が出来上がってもその形には生気は無いものでしょう。遠廻りしても稽古の上で工夫を重ね、結果として教えられる形にたどり着いた方が遥かに生き生きしたものになります。
 或いは、何故、習った形が出来ないのかを、指導者はしっかり見つめて、例えば、姿勢とか手の内とか、或いは筋肉や関節の使い方を教えるとか、指導者としての工夫が必要なのでしょう。死に物の形ばかりに固執している指導者の下には出来る修行者は生まれないものです。
 最近は高齢者の入門もあるもので、いたずらに業数を指導するよりも、初伝・中伝・奥伝からピッキングして少ない業数で慣れてもらう方法なども取り入れる事も必要でしょう。中途半端に業数ばかりふやして教えて見ても中途半端は半端です。

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道歌4無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌4の31心こそ敵

道歌
4、無外流百足伝と曾田本居合兵法の和歌
4の31心こそ

無外流百足伝
心こそ敵と思いてすり磨け
       心の外に敵はあらじな

 自分の心こそ敵と思って修行しなさい、心の他に敵は居るわけはないでしょう。

 己の心の中に敵が居ると云うのです。
 沢庵和尚の不動智神妙録は「心こそ心迷はす心なれ心に心心許すな」の歌で終わっています。
 これを柳生宗矩は兵法家伝書で「さる歌に 
 心こそ(妄心とてあしき心也。わが本心をまよはす也)、
 心まよはす(本心也。此心を妄心がまよはす也)、
 心なれ(妄心をさして心なれと云ふ也。心をまよはす心也とさしていふ也。妄心也)、
 心に(妄心也。此妄心にと云ふ也)、
 心(本心也。心殿とよびかけて、本心よ妄心に心ゆるすなと也)
 心ゆるすな(本心也。妄心に本心をゆるすなといふなり)」
 この歌の兵法への解説は兵法家伝書活人剣に述べられています。心には本心と妄心の二つがあって、本心は本来の面目であり、妄心は血気であってはやる心、激しやすい心で非を以て理となすのだと云います。妄心がおこれば、本心がかくれ妄心となり皆悪しき事のみあらはるゝ也。というわけです。

 無外流真伝剣法訣十剣秘訣の翻車刀「互に争い有るに似たり、鼓舞還りて動かず」の教えの軸のぶれない動きを示唆していますが、この本心を妄心によって、血気にはやって本来やるべき事はぶれてしまうことをも戒めている気もします。玄夜刀に云う「陰陽測らず」で相手が何をしでかすかは計り知れない、従って、血気にはやって当て外れな動きをすれば必ず負ける、己の心を静めて神妙剣によって相手の変動はいつも同じと云う事はあり得ないのだから敵によって転化するのだ、だから己の妄心を本心によって押さえるべきもので、事を先に為さず敵の動きに随って、水月感応であるべきものだ。敵は己の心の中にある。と歌っているのでしょう。

 この歌心を、真剣勝負の心得とばかりに思うのでは修行足らずの演舞派でしょう、常の稽古の際により真剣に心掛けることが出来れば、形稽古が忽ち生きた稽古に成る筈です。良い稽古をした、いい稽古を見せてもらった、そんな稽古に打ち込みたいものです。

 曽田本居合兵法の和歌から、この歌心を彷彿とさせる歌を載せておきます。
 居合とは心を静め抜刀抜ければやがて勝を取るなり
 居合とは心に勝が居合也人に逆うは非刀としれ
 いかに人腹をたてつゝ怒るとも拳を見込心ゆるすな

  田宮神剣は居合歌の秘伝
 居合とは心を志ずめだす刀かたなぬくればやがて勝ちをとるなり
 居合とは心に勝つが居合なり人にさかふは非法なりけり
 人さまに腹を立てつついかるともこぶしを見つめ心志ずめる

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